3 桜子
白に近い淡い水色のワンピース、肩に掛かる長さで切り揃えられた艶のある黒髪。
俺はひっそりと身震いをした。
純然たる恐怖とは言えないまでも、実際に少女を目の当たりにしたことで、あの玄関での不思議さに急激な生々しさ感じてしまったからだ。
「ますは紅茶でも飲みながら、お互いの紹介ですね。自己紹介は大切です」
赤いリボンがつく胸元の前で両手を合わせた登城先輩は、立ち尽くしているだけだった俺を窓の側に設けてある足の細い円卓へと促す。
円卓に合わせた木製の椅子に腰掛けた。
左側に登城先輩が座り、そこへ椅子を近づけ座るすでに名を知る少女。
丸いテーブルが均等に分割されないまま、いつの間にか控えていた白髪の執事さんが、卓上に並ぶ準備されていた様子のティーカップへ紅茶を注いだ。
老紳士からアールグレイなるどこかの宇宙人みたいな紅茶の名前を聞かされた俺は、向けられる微笑みに応えるため、香る白磁のティーカップを口へ運ぶ。
ズズズと飲むんでみれば……うん、苦い。
「私は槇桜子だ。スバルはミルクを入れないのか」
黒い瞳が俺を吸い込むようにして見てくる。
俺はティーカップを置きミルクの在り処を目で追った後、紅茶の苦味にかこつけてそのまま渋い顔だ。
そこまで気にすることでもない……のかもだが、意思表示は大事だろう。
「俺は池上スバル。登城先輩の一つ下の高二だ」
とっくに知られていた名前より学年を誇張した。
そうして、オレタイムこと俺の体感時間だと数分であるが、数秒に渡る無言での長い見つめ合いは、こめかみ辺りに髪留めをつける少女が隣へ視線を移すことで終わる。
「ユイちゃん。自己紹介終わった」
「緊張しているんですね」
俺にはぶっきらぼうな言い草に聞こえたそれも、先輩には違ったようだ。
「桜子ちゃんとスバルさんには徐々に打ち解けて頂くとして、本題のお話をさせて頂きますね」
「うぐっ」
ついにこの時が来てしまったか。
「後藤さん、お願いします」
卓上に手をつき立ち上がると、登城先輩が部屋の出口へ向かって誰かを呼ぶ。
何? と俺も先輩に釣られて見てみると、黒いスーツのおっさんが登場し一礼。
ここへ来る時お世話になった車の運転手さんだけど……。
「スバルさんには口で説明するよりも、実際に体験して頂いた方がよろしいかと思いまして」
「百聞は一見にしかずなのだ」
「はい、その通りですね。でも桜子ちゃん。スバルさんには一聞となりますね」
「おお、ユイちゃんは上手いことを言うのだ」
「ふふ、ありがとうございます。それでスバルさんは、こちらの後藤さんの声をお聞きになってはいませんよね」
女子達の会話に、頭上で浮かぶ疑問符を肥大化させていた最中問われる。
「え……と、言われてみればですけれど、無口な――じゃなくて、寡黙な方だったので話す機会もなかったといいますか」
『ご挨拶が遅れてしまい誠に申し訳ありません。ユイお嬢様の専属運転手を務める後藤と申します』
「ぬわっ」
俺は仰け反った。転んだ。んで、尻もちついた。
ななな何だっ、頭の中、中に声!?
「なんで、何これっ!? いやいや待て待て待て俺。落ち着け俺。冷静になれ俺」
喋っているように見えなかった。
腹話術――違うだろっ、距離感に合わない耳元で話されたような近さだったぞ。
『驚かせて申し訳ありません。一度でもスバル様に私の肉声を聞かれてしまうと使用できない、そのような制約がありますので』
「だああっ、まただっ、また頭の中でおっさんの声がしたっ。なんつーかアレだ、そうアレだっ、テレパシー的なアレだ」
床で騒ぐ俺が見たものは、苦い顔をする黒服の運転手さん。
「あ、おっさんは……ええと、申し訳ないっス、後藤さん」
『いえいえお気になさらずとも。それよりも私のアテラレをご理解して頂けたようなので幸いです』
「……アテラレ?」
『はい、左様で御座います』
俺の頭の中にこれだけ残すと、後藤さんは登城先輩へ向けてお辞儀する。
「ありがとうございました。スバルさん、お怪我はありませんか」
「あ……はい。大丈夫です」
部屋を出て行く後藤さんを見送る俺は生返事をして、倒れていた椅子を……
椅子はちっこいワンピースの少女がテトテトとやって来て起こす。
ども、と小さく首を竦めたらトコトコと定位置へ戻って行った。
登城先輩からは、椅子へ腰掛けるようにと手の平を向けられる。
俺が腰を下ろすと、登城先輩も制服のスカートを整えるようにして椅子に座った。
「この街に住まう人達の中には、先程の後藤さんのように不思議な力を宿してしまう方がいます。私達はその力や力を持つ人を『アテラレ』と呼びます」
特有のふわふわとした雰囲気から、ぴりっとしたものを感じた俺は、次に先輩が言わんとすることを理解していた。
「一週間前スバルさんのご自宅起こった現象はアテラレによるものです。ですから私はここへスバルさんをお呼びしました」
俺はその言葉に戸惑い、そして――高揚した。
映画を観始めた時に近しいこの感情は、期待感。
DVDの再生ボタンを押して、紡がれるプロローグとともにその物語へ溶け込んでいく感覚。
何か、俺の新しい何かが、始まった瞬間のような気がした。
だからこんなにも速く、胸の鼓動はその鐘を打ち鳴らすのだろう。
大きな窓からの陽射しが去り、黄昏色に染まっていた部屋は蛍光灯の光が灯る頃になって、登城先輩とおまけの少女による円卓での話は一段落と相成る。
「どうだスバル。ユイちゃんの話はわかったか」
またか。
「……”アテラレ”とやらの意味合いや先輩や君の家、あと御子守神社の話は、まあなんとなく」
紅茶にミルクを入れながら言う。
同じ円卓を囲んではいるものの、先輩は白髪の執事さんを何やら紅茶の話で盛り上がっているので、俺は口のきき方がイマイチな黒髪の少女の相手を仕方なくしてやっている。
「……スバルはソリティアは好きか」
えらく唐突に、脈略ねーのが出て来たなおい。
「パソコンにそんな名前のゲームがあった気もするけど、俺遊んだことないから、好きかって言われれもなあ……」
「そうか、残念なのだ」
しょぼんが体現された後、その顔が何か思い出したかのような、ハっとしたものになった。
「スバルはダーツで遊ぶか」
なぜにダーツなのかとか、相手の思考回路を把握できないまま、いい加減言わにゃいかんと思い、質問には答えず少々威圧的な態度で。
「桜子ちゃんさ。なんつーか、なんで俺のことスバルって呼ぶのかな」
「ユイちゃんがスバルのことを、名前で呼んでいたからだ。嫌なのか」
「どうしましょう。私、スバルさんのことを教えてくださったお友達の方が、お名前でお呼びしていましたので、そうさせて頂いたのですけれども、ご不快だったでしょうか」
視界の端からずい、と登城先輩が参上である。
「いえいえっ。ご不快じゃないですっ」
俺がどれだけ先輩からの『スバルさん』にとろけそうになったことか――。
「アレなんすよ。別に先輩面したいわけじゃないんすけど、ほぼ初対面の相手に変な話ですけれど、親しき仲にも礼儀ありみたいな。その、先輩の親戚だからといっても、年下から呼び捨てにされて俺は気分いいヤツでいられないんすよね」
「……ごめんなさいなのだ」
俯き黒髪が顔を覆う少女から、この世の終わりみたいな落胆で凹まれてしまう。
うぬぬ、どうしてだ。俺、間違ったこと言ってないはずだけど、すごく……心が痛い。
「いや、アレだよアレ。その怒っているとかじゃなくて、今後の桜子ちゃんのことを考えて、目上にはちゃんとサンとかクンをつけた方が印象がいいよー的なアドバイスね、アドバイス」
「ふふふ、スバルさんにはお話していませんでしたね。私にとって当たり前のことでしたので、ふふふ、申し訳ありません」
少女へ対してのものに、どうしてだか登城先輩が反応した。
先輩は口元に手を添え肩を揺らす。
「桜子ちゃんが学校へ通うのでしたら、スバルさんと同じ学年になります。同級生ですね」
「がっ――」
なんですとっ。
喉を詰まらせた驚きは、俺のケツを椅子から浮ばせた。
「マジかお前っ。そんなちんちくりんなナリで俺とタメだったのかよっ」
「スバルさん。小柄なことは関係ありませんよっ」
「え、あっ、すみません」
少女の隣で、登城先輩が頬を膨らましていた。
しかし……てっきり中学生だと思って、妹のシズクみたく子供扱いしていた。
コンチクショウめ、バツが悪い。
「なんかアレだな……」
俺一人立ち上がっていても不自然なので、何事もなかったように自然に着席。
円卓を挟み声を投げかけた。
「た、タメなら別に呼び捨てでもいいさ。ええと、なんかいろいろ悪かったよ」
「そうか。わかった。私も自己紹介の時、スバルに年齢を言わなかった。なので、ごめんないなのだ」
少女の名前にある桜。それを感じさせる花びらのような唇から聞こえた言葉に、もうイラつきを覚えることはなかった。
よく見れば、精巧な人形とでも例えたくなるような、きめ細やか肌を持つ少女の端麗な顔は、登城先輩とはまた違った魅力があるように思えた。
ちょっとだけ、ほんとちょっとだけ見惚れたそこへ、ぱん、と柏手が一つ打たれた。
『はーい』と間延びする掛け声で、両手を合わせた登城先輩。
「ではでは、私や桜子ちゃんからのお話は一通り済ませましたので、次はスバルさん番ですね」
はて?
「俺の番……て、何がでしょうか」
「スバルさんは故意じゃないとしても、桜子ちゃんの裸をのぞいたのです。
ちゃんと責任ある行いをするべきだと思います」
絶句だった。
だから俺は、天使のような微笑みをのぞき見ながら、なんとなく、そうなんとなくであるが登城先輩のマイペースさはどこか侮れない。
そんな感想を抱くだけで精一杯だった。