06
駅には明かりがなかったが、そこから続く明かりが灯る。
鈴蘭の花を模した街灯から、ぼうと落ちるのは橙色の柔らかなものだった。
「坂を登れば直ぐだよ」
ずっと先を見上げれば、黒い屋根が見て取れた。
見た目以上に緩やかな坂道、足元を照らすのは街灯だけ、下へ下へと流れと流れていく雨を見送り歩く。
雨のせいなのか、はたまた、ここもあの駅同様に田舎だからなのか、店仕舞いが早くどこの店もシャッターが下りていた。
駅員は商店街だと言っていたな。屋根の上に掲げられる看板は色取り取りのもの。
此処に最後に来たのは、まだ父に抱かれる程小さな、夏の暑い日の事だ。ジワジワと太陽が照らす光が地面に反射して、店先から打ち水が反射していたのを思い出す。
幼過ぎる記憶は断片的なものだが、とてもにぎやかな町だった印象がある。
町も眠るのだな。
横目で町の様子を伺い、足元を照らしていた鈴蘭も途切れた頃、坂の天辺に辿り着いた。
その奥は山へと続き、向かいは木々が生い茂る竹やぶの様だ。
寺は高い塀に囲われ、その先には黒々とする瓦屋根が見えた。
大きな木々が植わった土地に風が吹けば、一層雨の強さが増した錯覚と駆られる。
小石の感触を確かめながら濡れぬ様に傘の下にくっついて歩く。
本堂を横目に、飛び石が道案内をしてくれ迷う事なく一直線に一番奥へと向かう。
頂上とは言っても、商店街のどの店と同じく長い坂道の続きを挟んでいる。高台の様にせり出したそこは見晴らしがよく、下から吹く風が前髪を攫っていった。
所狭しと並ぶ墓石の中、まだ真新しく見えたそれに彫られた〝舟渡〟の文字。
再三確認したのに、そのどれとも違う様に感じた。
もう、父はいないのだな。
「ちゃんと八積さんも一緒に入れる様になっているから」
「うん」
一つ足を踏み出す。濡れぬ様にと緑がこうもり傘を傾けてくれた。
「ねぇ、母さん。もう、父さんと会えた?」
その後の言葉は続かなかった。
頭の中で浮かんだ言葉が口にしようとすると糸が絡むように解けなくなる。
今、無理矢理解いてしまうと、母さえ傷付ける言葉を吐いてしまいそうだ。
「ねぇ、潤葉。僕に何か言いたい事はない?」
緑の方を見やると、目を細めこちらを見ていた。
その肩は自分のせいで雨に打たれ、黒が一層濃く色を出している。
「無いって、言った…」
「本当に?」
距離を縮め、覗き込まれたその瞳に吸い込まれそうだった。
同時にまた、とても怖くなった。見透かされているような、尋ねられている筈なのに全てはもう緑の手の中にある気さえする。
「あんたらが悪い…」
振り絞った声に、眉一つ動かさない緑の顔に背中が粟立つ。
語尾が消えそうになるのは、頭の中で理解をしてそれでも吐いてしまった罪悪感の様なものだ。
誰かのせいにしたかった。そうでないと全部無くしてしまった今、立ってられない様な気がしていた。
ずっと追い続けていた背中は、もうどこにも見えなくて、これくらいの虚勢は簡単に崩れ去ってしまう。
「父さんは本当はずっと皆に愛されていた」
そしてまた、自分が責められている気分になるのだ。
父が歩いてきた道を正すと、そこには俺自身さえ居らず、少なからずそれを望んでいた人が沢山居た。
それを目の当たりにした今、自分以外それを否定してくれる人間などどこにも居ない気がして、父の寿命を奪ったとさえ思わずにはいられない。
パチパチとこうもり傘を弾いた雨粒が、その黒を吸い込んで弾いた。
「父さんが嫌われ者になったのはあんたら葬儀屋のせい、だ…!」
俺が、居るのも。だ。
「それから?」
「へ?」
「僕は八積さんじゃない。君がほしい言葉を全て言ってあげる事は出来ない。けれど、僕は八積さんじゃないんだ」
意味が分からなかった。緑が何を伝えようとしているのか俺に何を言わせたかったのか。
開いたままの口からは声と言うより音しか漏れず、頬を撫でた緑の手がいやに温かかった。
「良い子でなくて良いんだ。僕は八積さんじゃないからね」
開いていた口を一文字に引き締めた。
父に尋ねられる筈などなかった。聞ける筈などなかった。例え、正してくれたとしても父を否定する様で飲み込んだ言葉は多かった。
愛される為には愛さなければいけない、どこかでそう、線を引いていたのかもしれない。
ぶつかる事を恐れて、良い子の面を外せず、どこからが素顔か忘れてしまう程に。
「泣かない事が決して強い訳じゃないよ。涙は何時しか流せなくなるものだから僕は流せる間は流せばいいと思う。本当に強いのは涙を流した後、前を向いて歩き出せるかどうかだ」
青い瞳が揺らいで視界が歪んでいく。大人になれなかった自分を悔やむ。
「…どうして、どうして、自分から嫌われる道なんて選んだんだよ。どんなに素晴らしい師匠が居たって家族を捨てないといけない事なんてあるのかよ。そのせいで死んだって、じいちゃんも来てくれないのに…父さんの人生に間違いは無かった?幸せだった?もし、俺が居なかったらって思った事あった?」
どうして、葬儀写真なの?
疲れていく父の背中を見る度に、そう心の中で呟いた。
言葉に出来なかったのは、それを否定してしまうと自分の存在価値まで無意味だったと言っている気さえするから。
もし、父の口から、止めとけば良かったかな。なんてものが一度でも紡がれてしまったらどうしたらいいのか分からなかった。
自分一人居なければ、父はもっと楽に生きられたかもしれない。誰にも後ろ指指される事なく、こんな寂しい最後を迎えなかったかもしれないんだ。
そんな事を思う度に、どうして口に出せようか。
「せめて、俺も、俺も父さんと一緒が良かった」
この先、俺自身だって一人きりにされてどうやって生きていくっていうんだ。父の蒔いた種がずっと残るというのに。
等々溢れ出してしまった涙は止まらない。父を胸元から話せず、上着の袖口で擦った目は痛い。
聞けなかった事も言えなかった事も守られなかった約束も沢山ある。
例え、父が生きていてもそれを抱えて口にせず生きていくのだろうが、もう、それすら叶わない。それならばいっそ一緒に死にたかったと言うのが一番の本音だった。
「どうせ、俺も嫌われ者なんだ」
「潤葉、それはまだ早い。君はこれからもっと沢山の事を見て感じていかないといけない。八積さんだってまだ夢の途中だ」
両手で頬をさえられた。左右の頬が中央に寄り、まるでクチバシみたく唇が突き出された。
それを見た緑が朗らかに笑う。
「今はまだ見えなくても、取り敢えず顔だけ上げていなさい。何時でも見えるように」
どうしてか、やけに胸の奥にすんなり落ちていった。
父意外に自分を見てくれたという印象が大きかったのだと思う。
「おい、お前ら、いい加減にこっちに入れ」
本堂の戸が一つ開いた。薄暗い辺りにはあまりに眩し過ぎる室内の光が漏れた。
その先には、夜を引き連れた様な黒々しいスーツを身にまとった男が一人。切れ長の瞳が鋭く光、背筋が知らずの間に伸びていた。
「中に入ろう、風邪を引いてしまう前に」
本堂に入ると、外に居た時よりかは薄暗く感じた。天井が高く檜の香りと冷たい空気の流れの変化を感じる。
線香の香りが鼻腔を通ると、頭の上に柔らかなタオルが乗せられた。
「急だったからな、大きさは問うなよ」
前に差し出されたのは白いシャツと焦げ茶色のズボン、緑の物にしては小さ過ぎるそれは突然やって来た自分に宛がわれたものだった。
「それから、八積さん預かる」
手を伸ばされ咄嗟に父を抱え込んで背を向ける。
困った様に吐き出された溜め息は、重苦しいものだと感じたが離せなかった。
「大丈夫、盗ったりしない。納骨までには四十九日とかあるだろ?うちが八積さんから任されてる、母さんと同じ墓に入れてやりたいんだろ?」
「彼はあんな怖い顔をしているけど、ここの住職の息子だよ」
「顔が怖いのは余計だ」
「彼もまた八積さんと親しかったんだ、潤葉はまだしないといけない事がある、守りたいならまず立ち上がらなくちゃ」
「俺は、もう何処にもいけない」
「行けなくてもいいんだよ。ずっと羽を広げて飛べる鳥なんていないから」
頭に乗ったタオルが視界までを覆い、犬か何かを撫でる様に荒くタオルが水分が吸われていく。
鼻の奥がツンと熱を持つように痛む。先程、詰まっていた涙はもう流したじゃないか。振り払う様に顔を上げ、父を差し出した。
「お願いします」
「任された。車のエンジン掛けてくるからさっさと着替えろ。お前もだ緑。晴れたら畳干すの手伝わせるからな」
「それは大役だね」眉を顰めて笑いかけるその顔が、漸く小鳥遊緑と出会った気がした。
黒塗りの車は電車で来るよりもずっと早くて、窓を打つ雨粒を弾き飛ばしている。
雲の隙間から、ちろりと月が顔を覗かせた。不思議な夜だ。
「一つ、確かな事を教えてやろう。お前が生まれなかった方がきっとあの人は後悔した」
ミラー越しにそんな事を言った。緑の方を見やると静かに頷き、言葉を続けた。
「僕達はあの日からずっと、君に支えられて生きて来た八積さんを知っている」
まだ、素直に聞けない箇所はあった。本当だろうかと疑いたくなることも。
けれど、彼らが投げかけてくれる言葉は、誰も掛けてくれなかった言葉に違いはなく、車が走る度に、この夢の様な空間から、あの現実という場所に戻るかと思うと、余計に気分を重くさせた。