05
青い上りの電車で3つ、赤い電車に乗り換えて2つ、真ん前に滑り込んでくる黄色の電車に4駅。父が連れて行ってくれた母までの場所だ。
そう多く母に会いに行ってやる事が出来なかった。賃金が安い分、父は忙しかった。休みなんて殆どなく、遠出と言えば出張撮影のせいぜい隣町。
その事に父は何時も申し訳なさそうに眉を下げていた。ちっともそんな事はないと、何度告げた事か。
切符を買って、丁度滑り込んでいた青い上り電車に乗り込む。
車内は休みのせいか、昼間でも僅かに混雑していて、胸で抱えた父を潰さぬ様に壁際に寄った。
覚えているのは、駅から伸びる長い坂だ。真っ直ぐ一直線に山まで伸びて、一番高い所に寺があったという事。
後は、鈴蘭の形を模した街灯。それだけの記憶を頼りに乗り過ごさない様、三つ駅を数えた。
三つ目の駅に来ると、見える景色に少しばかり変動がある。
大きな街があるせいか、人も建物も多く駅の構内では立ち食い蕎麦の暖簾が掛かっていた。
急ぎ足の人々につられて急ぎ足で、反対の線路に停車する赤い電車に乗り込んだ。今度は二つ駅を数える。
しかし、今度は田舎へと向かう下り電車で駅と駅の間の間隔が長く、軽かった筈の父も、いつの間にか体重を増した様に感じた。
その上、大人で出来た壁も息苦しい。早く早くと思う程に遠ざかって行く様だった。二駅を数える頃には、曇っていた空もずっと黒くなっていた。
最後の乗り換え、人はぐんと斑になった。此処から更に下り、田舎へと続く路線であまり多く人が居ないのだろう。
次に乗る電車は、まだ来てはおらず、ホームの椅子に腰掛ける。プラスチックで出来たそれはズボンを通して直ぐに身体まで冷やしていく。
「お父さん、手ー」
目の前を一組の家族が前を通っていった。
先に歩いていた父を制止するような声に、申し訳なさそうに笑って手を出していた。
両手に繋いだ両親の手をゆらゆらと揺らしながら、背中しか見えなかったが、それけでも、楽しげである事は十分伝わってくる。
「…寒いな」
貰ったストールに顔を埋め、父をその中に隠した。先日まではずっと暖かかったのに。
―――電車が参ります。
アナウンスに次いで、滑り込んだ最後の電車に乗り込む。駆け足になったのは寒かったからだ。
車内は程よく暖かく、乗り合わせた人の数も少ない。漸く掛けた椅子は硬い生地だったが、それでも立っていた時の疲れ程は感じさない。
首を捻り、窓越しに空を見上げる。随分と遠くまで来たが、今日はずっと空が燻っているので、時刻が分からない。昼はゆうに過ぎているだろうが、夕方なのか夜なのか。
膝の上で共に揺れる父に聞いても分からない。
まぁいい。時間に急かされる必要なんてない。今居るのは自分だけだ。
深く座り直し、父の前で両手を組んだ。
空いた穴を避けて記憶を紡ぐ。
あの日、いや、もう随分と前から父さんは疲れていた。仕事に追われる日々、ろくに寝ていなかったのを知っている。
それなのに、毎朝、学校に出掛ける前、わざわざ起きてきて手を振ってくれた。
「行っておいで潤葉」そう呼ばれた名前が、最後の言葉だったと誰が予想しただろう。
「学校なんて行かなければよかったな」
元々、学校はあまり好きではなかった、友達も多い方ではなかったし、片親だとあれこれ言われた事もあった。
学校への道のりは遠いのに、家路の道は早い。
小さく漏らした声は、誰に届く訳でもなく、車体が揺れる音にかき消されていった。
誰に宛てたでもない。もし、宛て名を書くのならばあの日の自分にだろう。 そうすれば、もっと早く父の異変に気づけたかもしれない。
救急車を呼んで処置をしてもらえれば、死ななかったかもしれない。
幾つものもしもを繋ぎ合せれば、結果、自分が一番悪かったのではないかと言われている気がして、唇を噛み締めた。
「お前のせいではない」と言ってくれる父はもういない。
もっと早く大人に成れればいいのに。そしたら、楽をさせてやれたし、尊敬するその背中に追いついて立派な写真家になって認めて貰うのが俺の夢。母の元へだって沢山通えた。
そしたら、そしたら、俺は父さんにとって、必要でだったに違いない。
「ぼく、ぼく」
揺さぶられる振動に、目を開けると紺色の制服を着た車掌が顔を覗き込んでいた。
「終点だよ」そう告げられ、しまったと飛び降りたのは良いものの何処まで来てしまったのだろうか。
ほんの一瞬目を閉じたつもりでいたのに、長い間眠りこけていたのだろう、辺りはもうずっと近くに夜を感じた。
折角貰ったストールも、一枚じゃ心もとない。遠くの方でミミズクの鳴く声がした。
「ちょっと、ぼく、もしかして一人なのか?お家の人は一緒じゃないのかい?」
路線表を見上げていると、改札口で駅員を呼び止められる。
その眼差しは不信に満ちていた。迷子か家出、どちらにせよ大事になってしまえば、あの歓迎されていない席に戻らないといけない。それだけは嫌だと必死に頭を回転させた。
「街の方から来たのかい?」
「はい」
「この辺は田舎だから、さっきので終電だよ。誰かお家の人、迎えに来てくれるのかい?」
「えっと、あの、駅でおばあちゃんが待っててくれてる筈で。少し乗り過ごしちゃったみたいで、あの、坂道のある町なんですけど」
「坂?おい、坂がある駅だってよ。何処だったかな?」
執務室の窓を駅員が叩くと、窓から若い駅員が顔を出した。
「多分、駅からずっと伸びてる長い道、鈴蘭みたいな街灯があったと思います」
「それなら、カサ町じゃないですか?」
「あぁ、あったなそんな街灯」
「駅前から長い坂道に沿って商店街だっと思いますよ。ここから四駅、車で行けば二十分くらいかな」
「ありがとう、電話してみます」
電話など当然、掛ける相手も居なかったがポンと出た出まかせに改札口を抜ける。
「車で二十分か」
貰った香典も、僅かな小銭を残すばかり。電車が動かないのならば歩くしか方法はない。子供の足でどれくらい掛かるだう。
駅の街灯も一つ、また一つと消え辺りが夜に包まれる。
上りの方を見やると、線路脇にはポツリポツリと民家が並んでいたので、足元を照らす明かりに困る事はなさそうだ。
線路を沿って歩いていていけば、辿り着かない筈がない。父を抱えなおし、線路を辿る。
意気揚々と歩き始めたまでは良かったが、駅の屋根が小さく見える頃、それまで吹いていた頬に纏わりつく風がふと変わった。
雨の匂いがする。
夜なのにも関わらず、その分厚い雲が動くのが見て取れて、一つ甲に雨粒を落せば、また一つと増え、とうとう泣き始めてしまった。
急速に粒を増す雨に明かりの消えた店先を拝借する。軒先が長く雨を凌ぐのは丁度いい。
塗れて色を変えた紙袋は糊が剥がれ始めもう、使えそうにもない。父の頭に額を乗せ、肩に巻いたストールを解き雨粒を搾り出す。
空はどんどん雲を増していく。
父に寄り添い腰を下ろせば、なんだかとても疲れが押し寄せてきた。
随分歩いた、電車では長い間揺られて、それに踵がついた靴のお陰で足の裏だって傷む。
そもそも道も合っていたのかさえ疑わしい。もう、歩ける気さえしない。一晩、ここで朝を待てば良くなるだろうか。
地面を弾く雨粒に視線を投げる。父となら何処だって行ける気がしていたのに…。
「一人じゃ、何処にも行けないのか」
弱気になった声を雨粒が弾き飛ばす。
膝を抱え込み、顔を押し付けると瞼の裏で水が溜まっていく感触を感じさせたものだか、駄目だ、大丈夫、まだ、零れない。まじないの様に自分に言い聞かせた。
「潤葉は母さんにに似て泣き虫だな」困った様に笑って抱き上げてくれる。「来年は会いに行こうな」もうその約束は叶わない。
俺に決して嘘をつかなかった父、けれど、今、蘇る約束はこれから思い出す度に嘘だと思い知らされる。
母に会いに行くことも、大人になったら教えてくれる事も、俺の成長を楽しみだと言った事も、ずっと一緒にいると言った事も。
強い雨が霧状に宙を埋め尽くす。先が見えない恐怖が心を弱くした。
「僕には君がどこに行きたいのか分かるよ」
ボトと鈍い雨粒を弾く音がし、真っ黒のこうもり傘がまた一つ雨粒を弾いた。
顔を上げると、膝を折り、腰を屈めた緑が居た。
近くなった顔はよく見え、黒より青に近いその瞳に自分が写り込む。とても酷い顔をしていた。
「…お前とは、行かない俺はあんたを信用してない」
「おや、随分と嫌われているな」
何がおかしいのか、へらへらとしたその振る舞いが、何故かとても頭に血を上らせた。
「何時迄もこうしていてたら八積さんはずっと寒いままだよ」
取り返しに来たのか。手を伸ばした緑の手を払い、父さんを抱き寄せる。
「じゃぁ言葉を変えるよ。お母さんに会いに行こうか」
小さな友人は魔法使いの様だよ。父がそう言った。言葉を使うのが上手いと伝えたかったのかもしれない。
もう、体温なんてものもないのに、風呂敷の中でどんどん冷たくなっていくような気がして、写真立ての中身を思い出した。
「分かった」
緑のこうもり傘に招かれると、そこだけ雨なんて降っていない様な気がした。音が、あまりしないのだ。
特別な会話はない。離そうとしない父を奪おうともしない。
ただ、俺の歩幅に合わせてゆったりと歩いてくれた。不思議と足も先ほどよりかは痛みもない。
雨粒を蹴って歩く道は、道は強ち間違ってはいなかった様で、変わらず線路沿い。
民家に行く手を阻まれても、一つ路地に入りそのまま進めば、遠くで線路を見る事が出来た。
一人でも十分行ける。けれど、誰かが隣に居るという安心感が距離を確かに縮めていたのは間違いない。