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追想写真  作者: 那智
一枚目
5/10

04

人が引いて静かになった部屋に入った。ポツンと机の上には風呂敷で包まれた父と写真が悲しげに置かれており、何かと口を出すならせめて父を一人にさせるのはやめてほしい。

もう、その温もりは感じられないが、そっと抱き寄せた。

人の葬儀に出た数は少ない。けれど、近所に住んでいたおじいさんが亡くなった時、父と手伝いに向かった時のあの席とは随分違う。和気藹々とお酒も進んで、それから、楽しげに故人の話をしていた。

まるで、まだその人がそこに居るみたいに。その人を中心に話は盛り上がっていった。そこにあったあのアルバムは写真家魅了に尽きるだろう。


舟渡潤葉ふなと うるは君」


とても澄んだ声だった。

突然掛かった声に肩が震え、思わず後ろ手に父を隠して振り返ると、りょくが居た。

あの黒い帽子とマントは何処かに置いてきたのか、真っ白なシャツにサスペンダーが通っており、胸の真ん中でネクタイが揺れていた。

その手には、深緑色の布の様な物を持っていた。


「本当は列席したかったんだけど急な仕事が入ってね。断っちゃうと八積さんに怒られる気がしたから、手、合わせてもいいかな?」


差したのは後ろの事だろう。おずおずと前父の前から身体を横にずらすと、父の前に座った緑は父の風呂敷を解いた。

その前に持参した布を開くと、中からは白い小さな陶器と線香の束、マッチ箱が出てくる。

陶器には浅い黄緑で波の絵が描かれ、それの蓋を外すと、灰が入っており、どうやら自前の線香立てのようだ。


「お久しぶりです、八積やつみさん」


線香に火を灯し、それだけを言うと、緑は静かに目を閉じて手を合わせていた。

何を語らったかは今も知らない。あの時感じていたのは、自分の知らない父を知っているその横顔に何とも言えない嫉妬を孕んだ感情だった。


「これから、何処かに行くの?」


その口ぶりはまるで知っている様だった。


「あんたには関係ない。もういいだろ、親族以外は皆帰ったぞ」

「君は、僕に何か言いたいことはない?」


意味が分からないと眉をひそめる。


「僕に出来る事は何かないかな?」

「関係ない」


何に苛立ちを覚えたかは、正直のところ分からない。

誰かが本心から「大丈夫か」と尋ねてくれた事がなかったからか、世の中に悲観してまるで自分はこの世で一人きりの様な錯覚。

真っ直ぐ見てきた緑の目がそれのどれとも違い、上手い対処の方法も見つからず、怖かったのかもしれない。

解けた父の風呂敷を包みなおし、隠す様にして持ち出した。


「言うなら、言えよ」


どこぞの悪役の様な言葉を吐き出し襖を閉め、懐には収まりきらない父を懸命に隠し、催事場を抜け出した。

サイズの合わない靴が、大きな足音を引き連れてくるものだから、見えない追っ手さえもを連れてきている様。

ついてくる足音から逃げる様に速度を上げてはみたものの、何処に行けばいいのだろう。

急な事だったので、催事場は家からそう遠くない場所だったが、既に、もう帰っていい場所ではない。

それでも、そこにしか向かう場所はなく、足は遠のく様に速度を落していった。


目を瞑っていても辿り着ける我が家は、何も変わらずそこに在るというのに、店の硝子戸に貼られた張り紙が、全てを奪いさってしまった。

赤い文字は読めなかったが、これを貼って行った人が読み方を教えてくれた。差し押さえ、押収品。

鍵を持って行かれてしまったが、ずっと住んできた人間に敵う筈などない。

裏の勝手口は扉を上下に揺すると、その震度で鍵が外れてしまう。古く立付けの悪いせいだ。



父が亡くなった次の朝には、上物の背広を着た男が数人家にやって来た。

借金があったことは、直接聞いた訳では無いが、薄々気づいていた。

写真は富裕層の趣向品。フィルム一つとって見ても高い。そんな中、父の客の殆どが写真を常時撮影しようとする人達ではなかった。

同じ町内に住まう身近な人々、通常よりずっと格安に写真を提供していた。

技術を安売りした訳では無い、身近なものにしただけだと豪快に笑って見せたが、勿論、赤字だ。

父の写真を頼ってきてくれる人も少なくはなかったが、式場を構える方からは嫌煙された。何せ、葬儀写真をも撮影するのだから。

自分の家だったというのに、空っぽになったそこはまるで知らない人の家の様だった。床には何人もが土足で踏み荒らした跡があった。

父が死んでしまった今、子供の自分が何か借金を背負っていく事など出来る筈がない。せめてもの救いは、この家のもので事足りたと言うことだろう。

家具やら着物やら一式。いる物もいらない物も全部ひっくるめて持っていったという感じだ。

寝室にしていた部屋の、母の仏壇さえ何処にもなかったのは流石に堪えたが、自分に何が出来るだろうと考えて、心の中で母に謝った。


二階に上がると、案の定、どの部屋よりも綺麗さっぱり何も無くなっていた。

カメラや機材は高く値段がつく。資産家の一部にはアンティークカメラとして人気を博しているというではないか。せめて、父の命として大切にしてた機材を生かしてくれる人に買われていけばいいが。

父が亡くなって、やっと4日目。なのに、薄く積もった埃がもう随分と長い間、使われていない様で、まるで主がもう帰ってこないと知っている。

機材のあった場所は、光が当たらないせいかそこだけ色が濃い。その跡を辿って歩き、最後、暗室の戸に触れた。

一度だけ、この扉を声を掛ける前に開けてしまい、酷く父に怒られた事がある。あまり怒鳴る人ではなかったから恐怖というより驚きが大きかった。

そんな父はもう、何処にもいない。空っぽの暗室に名残りさえなく、あの日の光景だってまるで嘘のようだ。

もしかすると、まだ、体温が残っているんじゃないかと、父の倒れていた場所に同じ様に寝転がってみたが、とても冷たかった。


「苦しかったのかな」


この冷たい床で、大切な写真を投げ出し父はどうしていたのだろうか。

俺の事を呼んだだろうか、どうかせめて、眠る様に逝けていたらとばかり願ってしまう。


「俺も、一緒にいけたら」


鼻の奥がツンと痛んだ。あふれ出そうとする前に大きく息を吸い込んで瞼を閉じた。まだ、大丈夫。

深く息を吐き出し、体勢を横に変える。視線と丁度同じ高さに、何か落ちていた。

机の下はいつだって物が多く置いてあった。何もないそこは随分と久しい。机の下に潜り落ちてたそれを拾い上げる。

古い木で出来た写真立ての様だった。うちの店で取り扱っている物とは違い、二つ折で、塗り込まれたニスが上等な物だと言っていた。

何が写っているのだろう、中を開いてはっとした。そこに写っていたのはこちらに向かって微笑む母の姿。

仏壇に飾ってあったものとは違い、ドレスを着たのと、もう一枚は、父と母が寄り添い、その腕には幼い赤子の自分が居た。

なんだか、父の秘密を見たようだった。自分に寂しい思いをさせていると自責の念があったのだろう、口には出さなかったが、父だってきっと寂しかったはず。


行く場所は、決まった。


空っぽの部屋に転がっていた紙袋に父と写真立てを押し込んだ。

最後の見納めに家を見上げる。二階建ての小さな家、その殆どの思い出のページには父が居た。否、父しか居なかったのだ。

初めから廃れていた、父と二人で廃材で補強した壁もある。硝子戸の建て付けが悪いのはご愛嬌。取っ手を上に持ち上げて滑らすと開くのがコツだ。

店の中が暗い、いつも誰も来なくてもオレンジの電球が店の中をぼやっと包み込んでいるのに。

無くす前から知っていたその大きさに、もう手さえ届かないと知って、抱き締めた父に力がこもる。


「潤葉ちゃん?」


振り返ると、隣に住まうおばさんが出てきてくれた。その表情は、今の自分より青白く見えた。

彼女は幼い自分の母代わりを買って出てくれた人で、父は随分と彼女に感謝していた。勿論、俺も。


「救急車とかありがとう。本当ならおばさん達にも来てもらえたら、父さん喜んだんだろうけど…」

「そんな事いいのよ。生きている間一杯お礼を言ったからね。これ、少ないけど」


しわしわの手は仕事を一生懸命してきた人の手だ。柔らかなその手が、自分の手を取り、その上に置かれた香典袋だった。

舟渡が仕切った葬儀は、近しい親戚と舟渡が交友している人間ばかりが列席していた。

周囲の人間は、父が亡くなったことは駆けつけた救急車や警察の騒ぎで知っているだろうし、最後に会って貰えなかったのは悔やんでも悔やみ切れない。


「こんなの貰えない」

「沢山入ってる訳じゃないの、せめてもの気持ち。おばさん達がもっとちゃんと出来てたら潤葉ちゃん一人引き取ってあげれるんだけど」

「…ありがとう。気持ちだけでも嬉しい」

「行く場所はあるの?」

「うん、少し遠い場所」

「そう、それならいいんだけど。まだ寒いから気をつけてね。落ち着いたら手紙頂戴ね?ずっと待ってるから」


肩に巻いていたストールが身体を包み込んだ。


「ありがとう」


ストールの先を縛り歩き出す。父の入った紙袋を抱え込み、駅に向かった。後は、古い記憶を辿るだけ。これが一番難しい。

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