プロローグ
「彼には、人には見えないものが見えるんだ」
そう、楽しそうに話す父の顔が一等好きだった。
子供の様にわくわくして、宿敵の様に越えてやろうとする。そんな横顔。今はもう戻らないその時を、切り取れなかったのがたった一つの後悔だ。
けれど、寂しくはないと思えるのは、今、鏡を覗き込めば自分が父と同じ表情をしているからだろう。
確かにあの人は、見えないものを見せてくれる様だった。
戻らぬ一瞬は、いつまでも美しく儚げで、ページを捲ればその時に返してくれる。
写真とは、そういうものでなくてはならない。
――――カッ、シャ。
新緑の青葉が陽の光に照らされて、木の葉の隙間から地面に光の粒を作る。
山に続く林道が道に沿って続いていて、お陰で道の半分は何時も薄暗い。
慣らされていない砂利と赤土が混ざる地面は、昨日降った雨を未だ感じさせ、足を下ろす場所には些か慎重にならねばならなかった。
なんとか慎重に道を選択し、綺麗なままの靴で漸く辿り着いたバス停。
白く塗られたベニヤ板と、トタン屋根の寛容的なものでこちらもまた、また、雨を残していた。
屋根から滑り落ちる雨水が中へ中へと零れてくる。
この町の人間の殆どが車に乗る。その大半は農作業用のトラクターだけど、バスを利用する人間よりずっと多い。
何せ、時刻表が忘れ去られた様に空っぽで真っ白。一時間に一度、それも時間通りに来たためしがない。
それでも許される程の、と、いうか、代わりの車というか。
利点を一つ挙げるとすれば、三つ先の町まで一本運んでくれる所くらいだろう。
誰が置いたか知らないが、ペンキの剥がれた長椅子にくたびれた山吹色の座布団が四つ。この町にきて5年、見えぬ誰かの為に人の優しさが動く、こういう所がこの町のいい所だと思う。
くたびれた座布団は見た目とは反して、中の綿も丁度いい具合に座り心地は快適だ。
誰もいない事を良い事に、暫し座布団を寄せ年季の入ったトランクケースを隣に置いた。赤茶色の革造りは角の方から順剥げていて、ほつれた皮が糸を吐き出していたが、それこそが旅の証拠と謂わんばかりに味を出している。
一息付き、地面を撫でる様に吹き上げた風につられて空を仰ぐ。
隙間の開いたトタン屋根からは、木の葉が擦れるのが見て取れて、青々しい匂いが辺りに流れる。
もう直ぐ、春が来る。
「それだけでいいの?」
慣れ親しんだその声に目線を戻すと、何時から居たのか白いワンピースの裾が揺れた。
トランクを挟んで一つ隣の座布団に腰掛けた彼女は、まるで内診でも擦るかのようにトランクを手の甲で叩き、耳を寄せる。
詰めている間隣に居たので、中身は知っている筈なのに「音が響くね」なんて。
持ち上げたそれは、今はとても軽いが次に帰ってくる頃には、きっとまた、閉まらない程になっているのだろう。
「随分と早く行くのね」
そう言った彼女の頬は膨らんでいて、何か言いたげだったが、黙り込むのが彼女の性格だ。
「一つ、仕事をもらったから。大切な仕事だ」
「ふーん」つまらなさそうに唇を尖らせた彼女は、ここ数年で随分と表情を変える様になった。そしてまた、俺自身も。
「行ってきますはもうしたの?」
「子ども扱いするなよ。別にそんなのしないし」
「どうして?暫く会えないのに」
「一生の別れじゃない。それに次に帰って来る時に沢山話す方がいいから」
パタパタと足を揺らした彼女は何も言わないが、寂しいと言っているのとは変わらない。
時間はゆっくりにも確かに進んで、面と向かって心の声までを話してしまえる程子供ではなくなっていた。
気恥ずかしさや照れ、後は少しの恐怖心かもしれない。駆け引きってやつだ。
同じように少しばかり足を前に伸ばすと、靴紐が解けていた。
この日の為に、真新しい靴を下ろした。少し大きく、まだ自分の足に馴染んでいないそれは、誰か自分ではない人の物の様にさえ思える。
これが馴染む頃には、自分はまた成長しているのだろうか。
「あ、バス着たよ」
臙脂と白色の丸い形のバスは、随分と年老いていて、ブロロロとなんとも辛そうに息巻き大きく車体を揺らしていた。
ならされていないこの道を走れば、揺れる動きも大きく、壊れてしまうのではないかといつも思う。
軽いトランクケースを持ち上げて一歩前に出る。ドアは丁度いい具合の手前で止まった。
「潤葉」
ふと呼ばれて、足を止めると、上着のポケットに封筒を一枚差し込まれた。
「何?」
「暇になったら見て。旅路は長いから。緑によろしくね?」
「もちろん…あ、後さ」
「ん?」
「たまに顔を覗きに行ってやってほしい。あぁ見えて寂しがりやだから」
「ふふ、やっぱり心配?」
「そんな事は、ない。…行ってきます」
「いってらっしゃい」
あの日々はもう戻らない。しかし、その日々に戻りたいかと問われれば、それはまた別の話。
過ぎていく日々を惜しむ事が上手く自分に馴染んで、思い出として刻まれているならばそれで十分だと教えてくれた人がいた。
全てを抱いて歩くのは難しい。粉々になるまで砕いて飲み込んで、消えていくものから順に写真に残せばいい。
とても奇妙な事をいう人だったが、瞼を閉じれば何時だってその頃の思い出は鮮明で、それが人を作る素材だと言うのならば、俺の身体を創った元はあの一年にある。
さて、あの人に会ったら、なんと思い出を語ろうか。
軽いトランクケースと共に、バスステップに足を踏み込んだ。