六 駅前で誘惑
図書館通いをはじめて最初の休息日が終わった。
明日からまた新たな一週間をがんばろう、と昨夜は張り切ってベッドに入った。
この数日間で受験生のコツのようなものがだいぶつかめてきた気がする。
今日は本試験と同じように時間制限を設けて問題を解いてみた。
そしたらなんと、試験中(仮)だというのに六十分間ちゃんと起きていることができた。俺にとってこれは驚異的な大進歩だ。
答え合わせをすると、苦手な世界史でまさかの八割以上正解という高得点が出た。
もう合格確実じゃん。勉強なんかしなくていいじゃん。
なんだよこれ、俺の身になにが起きたんだ? 天変地異の前触れか? やっと俺にも桜咲く春がやってくるのか!?
と思ったところで目が覚めた。ただの夢だった。
時計の針は三時を示している。窓の外は明るい。
ん、まだ夢?
目をこすってからもう一度時計を見る。やっぱり三時だった。夜中ではなく午後の。
どうやら俺は張り切る方向性を完全に間違えたらしい。
両親は仕事、妹は大学へ行っているため、家の中は静まりかえっている。
昨日は夕方から仮眠しまい、起きたら深夜だった。
昨日の嶋本家には夕食というものが存在しなかったらしく、台所にあった麩で飢えを凌いでまた寝たのだが、あれから優に十二時間以上が経過している。
空腹で胃がきゅるきゅるいいはじめた。
台所へ行く。ダイニングテーブルの上を見る。なにもない。
炊飯器を開けてみる。釜がない。
冷蔵庫を開けてみる。調味料と水分しかない。味噌はあるけど味噌オンリースープってどうなんだろう。
冷凍室を開けようとして、一連の行動が昨夜の繰り返しであることに気づく。そうだ、ここには氷しか入ってないんだった。
うちの母はそろそろ息子のために買いだめという行為を覚えてもいいと思うんだが。
ていうか俺の朝飯は?
腹が減っては戦もできないし勉強もできない。
なにか食べ物を買ってこよう。
羽のように軽い財布をポケットに入れて家を出る。
目指すは徒歩十五分ほどの場所にある駅前のコンビニだ。
そこからまた十五分ほど歩くと例の図書館に着くのだが、さて今日はどうしようか。
どうしようかと思いつつ勉強道具は持ってきていない。出端をくじかれてやる気が出ない。
世の中には週休二日制という立派な制度もある。
もう一日休むのもアリかもしれない。
コンビニでボリュームと安さが魅力の貧乏パンを買い、駅前に設置された花時計の脇に座る。
ここは待ち合わせ場所の定番スポットだ。そわそわと時刻を気にする人々が花時計を取り囲んでいる。平日の昼間は若者が多い。
彼らに合わせ、いかにも人を待ってます的な雰囲気を醸し出しつつ、パンをかじった。
これからデートなのか、やけにファッションに気合いの入った学生風の男が横から俺のパンを見てくる。見せつけるように食べてやったら目をそらされた。
その後、獲物を狙ってやってきた数羽の鳩と猛烈なにらみ合いをしつつパンを完食する。
しまった、食べ物にばかり気を取られていて飲み物を買い忘れた。
けど買いに行くのもめんどくさい。このへんに自販機あったっけ。
立ち上がるタイミングを逃したままぼうっと人の流れを観察していると、ふいに声をかけられた。
「だれかと待ち合わせ?」
見ると、二十歳そこそこの女が隣に座っていた。
白いショートパンツから伸びた素足とふわふわした栗色のショートヘアが印象的だ。
見えそうで見えない胸もとといい、彼女はきっと短いものやきわどいものが好きなんだろう。そういう趣向は悪くないと思う。
「ちがうけど」
「よかった。ねえ、バーベキュー好き?」
「バーベキュー?」
「これから近くの河原でやるんだけど、いっしょに来ない?」
バーベキューか。肉か。いいな。
図書館はまだ開いている。どうする俺。
「飲み物はある?」
「もちろん」
あるに決まってるじゃない、と彼女は苦笑した。
でもお高いんでしょう?
「あ、材料はもうそろってるし、お金とか気にしなくていいから」
なんと!
よし、決めた。俺は今日から週休二日制で生きることにする。
水オンリーの図書館より、食料のない自宅より、肉のある河原だ。
「河原までは電車で?」
「ううん。あっちで友達が待ってる」
駅前のロータリーを指さす。車があるらしい。
交通費まで無料とは。至れり尽くせりとはこのことだ。
時刻は四時前。
長居しなければ帰りはそこまで遅くならないだろう。
「来る?」
「行く」
「やった!」
迷わずうなずく俺を見て、彼女が小さくガッツポーズをした。
不自然に長いまつ毛ばかり目立っていたが、笑うとなかなかかわいらしいじゃないか。
じゃあはやく行こ、となかば強引に手を引かれ、俺は花時計を後にした。