五 図書館で報告
最近、俺の部屋が母の健康器具置き場と化しつつある。
バランスボール、エアバイク、ステッパー、レッグマシーン等々。
先日、朝焼けを背に三日ぶりに帰宅すると、テレビ台ごとテレビが消失していた。代わりに設置されていたのはウォーキングマシンだ。
かつては栄華を誇っていた俺の部屋も、二年間の諸国漫遊中に度重なる敵襲を受け、生き残った家具はもう机とベッドのみになってしまった。
ちなみに母が夏のボーナスでマッサージ機を狙っていることはとっくに調査済みである。
つまり、俺の愛用机はあと数ヶ月の命かもしれないわけだ。
父はつぎの試験に落ちたら家を出て自活しろと言ったが、母は父よりもずっと情け容赦なかった。
俺を追い出すための準備は現在進行形で着々と進んでいる。
このままいくと、秋にはふかふかのベッドが寝心地の悪い極薄の敷物に変身していてもおかしくない。
健康器具の侵攻を食い止めるためには、受験に対する意気込みをこれでもかというほど露骨にアピールしていかなければならないだろう。
今年の俺は一味違うと母に思いこませるのだ。
安眠スペースだけはなにがなんでも死守してやる。
というわけで、俺は連日閉館ぎりぎりまで学習室に居座るようにしている。
平日は八時、土曜は七時、そして日曜は五時まで。
四時五十五分。閉館五分前になったので図書館から出ると、入り口前のベンチに人影があった。
「嶋本さん!」
石井さんだった。
なんでいんの?
頭の中で疑問符を浮かべていると、にこにこしながら彼女が駆け寄ってきた。
「バイト即決で採用されました! 明日からお仕事ですっ」
よほどうれしいらしく、その場でぴょんぴょん飛び跳ねる。
昨日までは自転車こいだら一発でアウトだろって感じのミニスカートだったが、今日はたとえ下から風が吹いても安全なジーンズ姿だ。
「おめでとう」
「ありがとうございます。長くつづけられるといいんですけど」
「接客?」
「いえ、倉庫での値付け作業です」
「倉庫?」
「はい。港のほうの」
意外だ。石井さんのことだから、コンビニやファミレスなんかで笑顔を振りまいているほうが似合うだろうに。
「あの、それで明日は図書館に来られないので」
「明日はここ休みだよ」
「えっ? そうだったんですか。知りませんでした」
石井さんは恥ずかしそうに両手で口もとを覆う。
毎週月曜が休館日だということは俺も先週知ったばかりだ。いままでろくに利用したこともなかったからな。
「そっか、それならやっぱり来てよかった」
つぶやいて口から手を外した石井さんの頬がわずかに紅を差している。色白な彼女はちょっとした顔色の変化もわかりやすい。
「あの、この後忙しいですか?」
「この後?」
「いっしょにごはんを食べに行けたらって思うんですけど、だめですか」
いっしょにごはんか。
図書館も閉まったし、それくらいはいいかと考えた矢先、ふと肝心なことに気づく。
ごはんを食べにいくためのお金がない。
困った。
おおかた昨日までの礼と採用祝いを兼ねておごれって話なのだろう。が、俺の手持ち分ではファミレスですら危うい。
もともと所持金は少ないが、今月はこづかいをもらったそばから妹に「借金返せ」と財布の中身を半分以上強奪された。それが原因でいつも以上に懐が寒く、節約を強いられている。
血を分けた実の兄妹だというのに、血も涙もあったもんじゃない。
あんなやつに借金するんじゃなかった。
泣く泣く事実を伝えて断ると、石井さんは大きく首を左右に振った。
「そんな、お金ならぜんぶ私が出しますよ! はじめからそのつもりでしたし」
まじで?
天使だ。ここに天使がいる。
沈みつつある西日を受けて、石井さんの天使の輪っかがきらきらと光る。いまなら彼女に後光が差していてもまったく驚かない。
「なに食べたいですか?」
白い天使がほほえむ。
しかし、「できればカツ丼を」という俺の要望は軽快な電子音によってさえぎられた。
『しょうゆ切れたから買ってきて。大至急』
メールだった。母からの。
差出人の欄に「はは」の二文字を見たとたん、そう遠くない未来の映像がはっきりと頭に浮かんだ。
余すところなく健康器具に占領された元俺の部屋。
ストレッチマットでヨガに興じる母。
居場所をなくし路頭に迷う俺。
ミカン箱のリサイクル。
だめだ、よく考えろ。
ここ数日は模範的な浪人生を演じることに成功していたのに、このタイミングで夜出かけるなんて言ったらその努力がぜんぶ水の泡になるじゃないか。
一味違う俺を見ろ計画が、一転して住所不定無職の道へまっしぐらだ。
いくら相手が天使でも、いや天使だからこそ、タダ飯の誘惑に負けるわけにはいかない。これはきっと俺に与えられた試練なんだ。
歯を食いしばり、ぐっと拳を握り締める。
「どうしました?」
天使な石井さんの声から明るさが消える。
彼女の顔がまともに見られず目をそらす。
「ごめん、やっぱ今夜はちょっと」
「用事、ですか」
「うん、まあ」
「そうですか。用事があるなら、しかたないですよね」
そう言いつつも声はかなりくもっている。
なんだかひどく悪いことをしている気分だ。
結果的には石井さんの出費を減らせてよかったはずなのに。
俺べつに間違ったことはしてないよな。
気まずい雰囲気。
黙りこむ石井さん。
こういう空気はどうにも苦手だ。
こんなときは逃げるに限る。
「ほんとにごめん」
彼女の横をすり抜け、俺は夕日に向かって走った。
とりあえず、しょうゆを買って家に帰ろう。