一 図書館で誘惑
「あのっ、いきなりすみませんっ、もっ、もしよかったらなんですけどっ、こっ、こっ、こっ、これからどこかいっしょに遊びに行きませんかっ!?」
偶然横を通りかかった華奢な女の子と目が合って、あーかわいいなーなんて思っていたら、急にそんなことを言われた。
言われたというか叫ばれた。
俗に言う逆ナンってやつだ。
たとえばここがゲーセンだったり、繁華街の遊歩道だったり、代打ちを頼まれたパチ屋だったり、むりやり連れて行かれたクラブだっりしたら、そんなに驚かなかったかもしれない。
でもここはれっきとした図書館だ。しかも学習室のど真ん中だ。静かに本や資料を閲覧するためのスペースであって、大声を出していいような場所じゃない。
そりゃあ驚くし、正直けっこう引いた。
案の定、周りからの視線が痛い。うるさい外でやれ、と複数の目が語っている。
そんな空気の中、彼女は唇を引き結び、小さな手を固く握りしめていた。緊張ぶりからして、ふざけて言っているわけでもなさそうだ。
「とりあえず、外出ようか」
小声でそう告げて、彼女を図書館の外へと連れ出す。
図書館の前にベンチがあったので、そこに並んで腰掛ける。
春の屋外は暖かい。気温も二十度くらいはありそうだ。
ひとりでこんなところに座っていたら、確実に居眠りする自信がある。
「私、石井ももこっていいます」
さっきまでの緊張はどこへやら、座ったとたん彼女は笑顔でこっちを見つめてくる。
見つめてくる。まじまじと見つめてくる。目から放出されるなにかで俺の顔に穴でも空けようとしてるんじゃないかってくらいに見つめてくる。
身長差のせいで、すこし彼女が俺を見上げる形になっていた。
かわいいんだけど、いくらなんでも見過ぎだろ。
目をそらすのも悪い気がして、互いに見つめ合うこと数十秒。
彼女がかわいらしく小首を傾げた。
「名前、教えてくれないんですか」
「え、ああ、嶋本隆宏です」
「いい名前ですね」
「そうかな」
めずらしくもないしありふれてもいないが、ごくふつうの名前じゃないか。
石井さんはひたすらにこにこしている。
見た目は女子高生くらいなのに、平日の昼過ぎに私服で図書館にいるってことは、実際はもっと年上なのだろうか。
ちょっと気になる。が、その疑問は心の中にとどめておく。
「さっきのアレなんだけど」
「はいっ、どこ行きましょうか? 私はどこでもいいです」
期待のこもったまなざしがまぶしい。
長いまつ毛、大きな瞳、小ぶりな鼻と血色のよい唇。肩甲骨あたりまで伸びたストレートの黒髪には天使の輪ができている。
どこに出しても恥ずかしくない立派な美少女だ。
こんな子から誘われたら、もちろん悪い気はしない。どころか、よろこんで誘いに乗りたい。けど、だめだ。タイミングが悪すぎる。
いまの俺にもっとも必要なものは忍耐、そして自制心。
四方八方から忍び寄る甘い誘惑を、果敢にはねのけなければならない。
なんてったって、今度受験に失敗したら確実に実家を追い出されるからだ。仕送りはないらしい。これは問題だ。
こづかいが高校時代より千円減らされたときよりも深刻な問題だ。
具体的にいえば、死活問題だ。
俺にひとり暮らしなんてできるはずがないじゃないか。主に金銭的な意味で。
親からも半分見放され、ただでさえ追いつめられていた俺に、さらなる不幸が襲いかかった。
今春、二つ年下の妹が晴れて女子大生になったのだ。
兄を差し置いて自分だけ先にキャンパスライフをエンジョイしようとはいい度胸だ。なんてのんきに言ってる場合じゃない。
なんかもう屈辱とか余裕で通り越して不思議な気分だよ。親の態度がよそよそしいんだよ。
うれしそうに大学の入学式に向かう妹を見送ったあの日、俺は心に誓った。
受験が終わるまではもう絶対に勉強しかしない。バイトなんかしない。図書館しか行かない。予備校は行く気ない。家には居づらい。けど宅浪バンザイ。
そうだ、思い出せ、あの日の誓いを。妹のやりづらそうな顔を。両親の白い目を。
そして、さらば、きのうまでの流されやすい俺。
いまから心を入れ替えて生まれ変わろう。それで昨夜の徹マンはなかったことにしよう。そうしよう。
決意を新たに、深呼吸をひとつ。
なるべく真剣な表情をつくる。勤勉な受験生に見えるように、こう、きりっと眼鏡を押し上げるイメージで。眼鏡はかけてないけど。
「ごめん、俺いま受験生で、勉強のつづきしないといけないから」
「え、勉強してたんですか? すごく熱心に折り紙してたように見えましたけど」
見てたのかよ。
今日の作品はなかなかの出来だったからべつにいいけどさ。ていうかこの子、いつから見てたんだ。
「ミミズつくるの上手ですね」
「……ミミズじゃなくて一応ブラキオサウルス」
「ぶら?」
「恐竜」
「あはは」
なにがおもしろいんだよ。