きみのセカイ
「いいね、その絵」
大学一年の夏、美術部で水彩画の制作に取り組んでいた晶にそう言ったのが康介だった。
康介は普段、他人の作品を評価するような発言を殆どせず、例会でも常に後方から作品を見つめているだけだった。
高校時代から県内のコンクールで常に上位入りしていたにも関わらず控えめなその態度は、周囲からは逆に疑問視されていた。
「あ、ありがとう」
晶がつかえながらもそう返すと、康介はそれ以上作品について言及することもなく、美術部の部室を後にした。
筆を置き、晶は自分の作品を見つめる。
「『いいね』かあ…」
ワトソン紙に咲いたオレンジの花が、心なしか輝いて見えた。
学生街の夜は喧しい。毎日そこら中の飲み屋でグラスがぶつかる音と笑い声が絶えず、その喧騒は夜明けまで静まることなく続いていく。
「比呂さん、今日こーすけ君があたしの絵を褒めてくれたんですよ」
梅酒の氷をくるくると回しながら晶が報告すると、向かいの席に座る三年生の比呂士がジョッキを片手に身を乗り出してきた。
「あいつが?珍しいこともあるもんだな」
「そうなんですよ。でもどこがいいとか言ってもらえなかったんです。ただ、あたしの絵を見て『いいね』って。あたし、それだけでも凄く嬉しくて。あ、でも、できればアドバイスとかしてくれたら有難かったです。こーすけ君はほんとに素敵な絵を描くから」
いつもは晶もそう口数が多いほうではないのに、今日は酒の力もあってかよく喋る。
比呂士は楽しそうにビールを呑み干し、晶の頭を撫でた。
「『いいね』か。康介は晶の世界観が好きなんだな」
「お姉さん生追加で」と店員に声をかけながら比呂士が笑う。
「世界観、ですか」
「そう、世界観。『上手い』とか『凄い』って絵を描いてるとよく言われるだろ?でも俺はそういうのって、単純に技術的な部分を褒められてる気がするんだよな」
コンペの常連である康介や比呂士のように頻繁には言われはしないが、晶も比呂士が言いたいことはなんとなく解る気がした。
「でも『いいね』って、すごく個人的な感情だと思うんだよ。その絵が、その絵の描き手の世界の見方が、良いと思うかどうか。要は俺自身に共感してくれたかどうかってことだと思うんだよな。だから俺は言われたら嬉しいね」
「あたし自身への共感、ですか」
空になったグラスをテーブルに置きながら晶が相槌を打つと、比呂士が「お姉さん梅酒ロック追加で」と叫んでにやりとした。
「絵を通して見えるお前の世界を、康介は好きだって言ってくれたんだよ」
比呂士は運ばれてきたばかりのチヂミに箸を伸ばし、「これ美味いぞ、晶も食えよ」と勧めた。
「美味しいですね、これ」
実際は先ほどの話について考えるのに夢中で、あまり味は解っていなかったが、晶はそう返しておいた。
「だろ?ここ俺の代が入学した年にできたんだけど、それから美術部の飲み会大抵ここなんだよ」
店員が持ってきたビールをあおりながら、比呂士は他の部員と話していた康介を手招きした。
比呂士に呼ばれるまま、ふらふらとした足取りでやってきた康介は、比呂士に寄り掛かるように隣に腰かけた。
康介は表情にはあまり出さないが、仲の良い比呂士に構ってもらえるのが嬉しいのだろう。酔っている分、いつもより解りやすい。
もし犬のように尻尾があったならば、千切れんばかりに振っているのではないかと、晶は比呂士にじゃれる康介を見ていた。
「こーすけ君大丈夫?脚、ふらついてたよ」
「全然酔ってませんよう、俺は元気ですよう」
「うん、大分酔ってるねこーすけ君。キャラ変わってるよこーすけ君」
「こいつ弱いくせに呑みたがりだからな。おい康介、お前どんだけ呑んだんだよ」
「ええっと、ビールと焼酎と日本酒と…さっきマッコリ呑まされた」
「ガチで呑んでんじゃねえか。おい、その辺で止めとけよ」
「やですよう、比呂さんが構ってくれなかったのが悪いんですう」
「女子かお前は」
大笑いする比呂士に、頭をぐしゃぐしゃと撫でられている康介はやっぱり嬉しそうで、晶もつられて笑ってしまう。
「そういや康介、お前が絵を褒めてくれたって、晶喜んでたぞ」
「そうなんですかあ?俺、思ったこと言っただけですよう」
「もうそのオネエっぽい喋り方どうにかしろよ、酔っ払いめ。話し戻すけど晶の絵、気に入ったのか?」
「はい。すげえ上手いし、好きですよ。晶さんの世界は温かいです」
比呂士に寄り掛かったまま「俺、晶さんの絵が大好きです」と康介がふにゃふにゃと笑うので、晶はアルコールで赤くなった顔を更に赤くさせた。
「…良かったな、感想聞けて」
「嬉しいですけど、恥ずかしさで死ねてしまいそうです」
真っ赤になってしまった顔を覆いながら晶が答えると、比呂士は実に楽しそうに店員にビールのお代わりを注文した。
「そうだ、お前ら付き合っちゃえば?」
いかにも今思いつきましたと言わんばかりの軽さで、比呂士は二人に笑いかける。飲み会の席とはいえ、その軽さは如何したものかと晶は苦笑した。
康介も同じだろうと斜め前に目をやると、比呂士の言葉を真に受けたのか、ショックを受けた様子の康介が居た。
「こーすけ君、比呂さんの冗談だよ。気にしちゃ駄目だよ」
妙な空気になってしまったなあと、困った晶は適当に流そうとした。しかし、比呂士の口が止まらない。
「いやいや、俺結構真面目に言ってるよ。お前ら雰囲気似てるし、お似合いだと思うけど」
「もう、比呂さんってば。比呂さんがそんなこと言ったらこーすけ君困っちゃうじゃないですか」
しょうがない酔っ払いだなあと晶が笑っていると、康介は晶の想像とは真逆の反応を見せた。
「…うん、付き合おうか」
「よし、こーすけ君もうお酒やめてお茶にしようね」
酔っ払いは相手にすまいと決め、晶は康介のグラスを奪い取り、店員に烏龍茶を注文した。
しかし、康介は晶の手を掴んで少し大きな声で、はっきりと告げた。
「俺、晶さんのこと好きだよ」
晶の持つグラスの氷が、カランと音を立てる。
「…あ、ありがとうございます」
わっと耳ざとい部員たちが騒ぎ出す中「そういう意味じゃないです!」と叫ぶ晶の目には、比呂士を睨みつける康介の姿は映ってはいなかった。