第十七話 歪な二人
世界が反転して、目の前が真っ暗になった。
―八十三回目。
体が上気した様に火照り、湯気が上がる。ドテッ…と何かが倒れる重い音が鼓膜を震わす。
―八十四回目。
そりゃまぁ、影の世界なんだし当たり前かとかすみ掛かった頭でそうぼんやりと思う。その後、自分が倒れていると理解するのに数秒を要した。
―八十五回目。
傷口から大量の血液が流れ広がっていくのと共に、全身から力が抜けていくのが分かる。
不思議と痛みは感じない。痛みよりも出血による寒さが、ありとあらゆる感覚を麻痺させている様だ。それとも、慣れか。
何処か動かせる箇所はないかと奮起し、立ち上がろうと試みるが、肝心の足が無い。唯一動かせるのは、視界の隅に映る血の気の無い指が僅かに反応するだけ。
「通算総合戦績七十三勝八十六敗。相打ちは二十一回…。ではまた数時間後に…」
―八十六回目。
頭の中でそう反芻すると、上から降って来る声を最後まで聞くことなく、静かに目を閉じた。
死の強化特訓。八十六回目の死因、両足切断面による大量出血。
…………………………………………………………。
目前に蘇生後百七回目の漆黒の世界が広がっていた。
こうも生き死にを繰り返していると、生死の境界というのが曖昧になってくるように感じる。
窓の無い密閉された空間の中では朝夕の区別がつかないのと同様、これもまた然りだ。
しかしその疑心も、長い間仮死に等しい状態に置かれた体は貪欲に酸素を求めたことにより杞憂に終わる。肺一杯に空気を吸い込み、吐き出す。
…因みに、今のこの空っぽの『器』と化した体に臓器があるのかは不明だ。というか、無いはず。
「―さて、第百八十一回目を始めるとしようじゃないか」
苦笑と溜め息混じりに呟いて、握っていた杖を支えに立ち上がる。血を吸った長い黒髪が頬に張り付いて煩わしい。
「…今回はどちらに勝利の女神は微笑むのでしょうかね…」
「お手柔らかに頼む」
漆黒の鎌を掴み、やれやれと言わんばかりの口振りでフレディは億劫そうに立ち上がった。そのまま刃の部分を僕の方に向ける。僕も杖を魔剣へと変えると刃を合わせた。
キンッ…と小気味良い音が響く。
「…武運を」
祈る様に呟いて、互いに背を向けると五歩進み、再度踵を返して向き合う。
―これが決闘を行う際の一連の礼儀作法というか、法式らしい。
剣道に通ずる礼法だと感心したものだが、わざわざ公の戦いでもないのに法式に乗っ取って決闘を行う律儀な悪魔の眷属というのは中々類を見ない。
生前の話を聞いたことは無いが、貴族の様な位の高い生まれだったのだろうか。
「では、行きますよ…」
フレディは膝を曲げ、腰を落とし体勢を低くすると、槍術・打突の構えで鎌を握り直す。
僕も片膝を着き、屈むような姿勢をとる。
背中の肉が盛り上がり、骨が軋みを上げると共にやがてバキボキと音が鳴った。爪は長く伸び、背中が背骨に沿って縦に裂け、鴉の濡れ羽色の羽根が広がる。
―主に、悪魔と呼ばれる存在は争い等の混沌を司る魔神であり、その力は混沌によって発揮される。
つまり、今回の戦いは悪魔との契約者が有利なのだ。まぁ、それは東後輩も同じことなので、そこに差をつけるとするなら、残るは戦闘技術、そして契約主の力を何処まで活かせるかによるだろう。
だが、幸いにも、彼はまだ仮契約であり、その実力は雲泥の差とまではいかないが、その点においてはこちらが優勢と言える。
後は、彼が契約者としての素質が無いことを祈ろう。
―ちなみに、何の悪魔に魂を売るかで得るものは違ってくるそうだが、知恵の悪魔に魂を売り契約を結んだ者は対価としてその英知を得る。
しかし人間がその英知の全てを得るには脳がパンクしてしまうほどの量だ。
故に契約者は魂を売り渡したその瞬間から対価を得られるよう肉体は『器』と化す。
意識を宿すだけの空っぽの状態にして、契約主の方を脳みそ代わりに代用するというか、まぁ要は、脳が外付けになったということらしい。
「そう言えば…もし、契約主がファウストだったら、何を得るんだろうね。……色気?」
「さぁ…。確かに、魅惑の悪魔ですしね…。色気かどうかは測りかねますが。
そう言えば、この前の戦闘で顔面に火傷を負わせてしまいましたが、今回の領土戦争でその復讐を仕掛けられるってことも考えられるんですかね…?」
「考えられるでしょうな」
恐る恐る尋ねるフレディにそう平然と答えてみせる。すると、罰が悪そうにフレディは視線を逸らして言い訳を並べ立てた。
「昔からあの方は私を目の敵にするんですよね…。だからいつもの癖で…返り討ちにしますけど…。つい…」
「返り討つんかい」
「仕方が無いじゃありませんか…。私は怠けるならとことん怠けたい性なんです…」
「常々思うけど、お前はとことん自分の欲に忠実だな」
「生き物とは常にそういうものですよ…。―で、仮にファウスト様が復讐を遂げるとすれば、どう来ますかね…?」
流石のフレディも、久々に良心の呵責というものが正常に機能しているらしく、さりげなく解決を求めて話題を振って来る。
よしよしと頷きながら、一般に考えられる復讐劇を手短に話す。
「魅惑の悪魔なんだから、プライドは高いよね。その顔に泥を塗ったのだから、通常の五倍の仕返しが来ると見積もって良いんじゃないか?復讐に燃える女ほど恐ろしいものはないよ」
うっ…と言葉に詰まるフレディを畳み掛けた。
「因みにそれだと、昼ドラとかの場合、恋人とか家族が被害に遭うかな」
そして、フレディが言わんとすることを悟る。
思わず背中に冷や汗が流れた。
「………………。」
「………………。」
沈黙。
「ちょっ、なんてことしてくれたんだっ!お前の怠惰心のせいで崩壊の一途を辿ろうとしてるぞ!?」
「だから、仕方が無いじゃありませんか!」
「勝てないよ。いくら此処で鍛えたって勝てる気しないよ。何万回死ねば許されんのかな」
遠い目をして呟く僕に、フレディは申し訳なさそうに言った。
「…影の王。先程、言ってましたよね?『因みにそれだと、昼ドラとかの場合、恋人とか家族が被害に遭うかな』と…」
再び、沈黙。
「…もういい!こうなったら、菓子折り持って謝りに行きなさい!」
「お母さんかあんたはッ!そんなの、わざわざ鴨が葱を背負って鍋の中に入りに行くようなものですよ!?」
「あぁ、逝け。逝ってこい。一人は僕等の為に、だ。さすれば、僕等はフレディの死を心から悼もう」
「嫌ですって!第一、菓子折りプラス私で成算は絶対無理です!部下の失態は上司が責任とってくださいよ!」
「お前等の上司は僕じゃなくて、大総統でしょうが!何でもかんでも僕になすりつけるな、大総統に頼めっ!」
「…じゃあ、今回の決闘で決めれば良いじゃない」
いつの間にかこの不毛な言い争いを傍観していたヴァルベルがつまらなそうに口を開いた。
傍らには治癒専門の堕天使アリスが不安そうな面持ちで僕等を交互に見る。
「…そうか、そうですね。悪いですが、影の王…。本気で行かせてもらいます…」
「あぁ、頼む。本気で逝ってくれ」
互いに険悪な表情で、笑顔に失敗した変な引き攣り笑いを浮かべたまま戦闘体勢に入り、武器を構えた。
肌を裂く様な鋭い殺気が影の世界を覆う。
キンッ…と武器が交わり、火花が散る。
「…ほんと、男って馬鹿な生き物よね」
頬杖を付きながら、二人の戦闘を傍観していたヴァルベルは誰にいう訳でもなく独り呟いた。
****
天高く馬肥ゆる秋。領土戦争まで、あと六日と迫っていた。
火中の栗の如き状況下に置かれたミケガサキは、国が全体的にピリピリとした雰囲気に包まれている。
緊急会議はほぼ毎日と言っていいほどで、ミケガサキ屈指の騎士団である白十字軍の練習は日に過酷さを増していた。
領土戦争の知らせを受けた国民の方は騎士達の不安や焦りが伝わったのか、城に近い富裕層の住民等は金で買い取ったミケガサキから大分離れたリゾート地なる領土にそそくさと去って行く。
第一区の城を除く富裕層、第二区から七区までの人口は三分の一までに減少し、もぬけの殻状態だ。
近日は避難場所として金の無い国民の少数が城に集まりつつあるが、城とて騎士団や富裕層を抜いても国民全てを収容するだけのスペースは無い。
ましてや、今のミケガサキ城はミリュニスのものなので、ミケガサキ国民の反感もひとしおである。
しかも、今回の領土戦争の勝利領土は城。
―鉄壁の防御を誇る難攻不落の城がターゲットともなれば、城は絶対の安全地帯とはなりえないが、逃げ場なく戦火に巻き込まれるよりマシだ。負けると分かれば必然的に諦めもつくとのことだった。
今日もまた一人と城門を潜り、地下のミリュニス王国への入国手続きを済ませて地下へと向かっていく。
その途中、中庭で行われる訓練光景に誰もが息を呑んで足を止めた。
「…行きます。はぁっ!」
雪は腰に下げた剣を引き抜き、精神を集中させるため呼吸を整えると構える。
太陽の光を浴び、硝子の様に透明な刀身がまばゆく光り輝いた。
息を深く吐くと目を開き、土を踏み締め、雪は目の前に立つアンナに切り掛かった。
対して、白銀の鎧を纏い、両手に曲刀を携えたアンナは花蟷螂の様な儚い美しさと強さが滲み出ている。
向かって来る雪の剣を片方の剣で受け、もう一方の剣を振り下ろすが、雪は素早く後ろに跳んだ。
しかし、すかさずアンナは前へ踏み込むと雪の胸板に当て身を食らわせる。
「うっ…!」
打撃を受けよろけた雪の手から剣を蹴り飛ばし、その首に曲刀を当てがった。
「…こ、降参です」
アンナは頷くと、曲刀を下ろし雪に背を向ける。
「まず、動きが鈍い。斬撃を回避したので気を緩めたのが敗因だな」
「はい…」
悔しそうに俯き、拳を握る雪に、アンナは少し顔を曇らせた。
「今日はもういい。よく休んでくれ」
「…で、でもッ!」
「雪、焦りは隙を生む。領土戦争までまだ六日もあるんだ。焦る必要はない」
「分かり、ました…」
…………………………………………………………。
稽古場の近くにある空き部屋が騎士団休憩室として宛がわれた。
ミケガサキ城の休憩室とさして変わりない広い空間。差異を挙げるとするなら、清潔感に溢れているといったところか。
ミリュニス城の構造は何処かミケガサキ城に似通ったものがあるなと思いつつ、近くの椅子に座ると流れ出る汗をタオルで拭う。
他の兵士達はまだ訓練中なのか珍しいことに誰もいない。
「アンナ」
差し出されたスポーツドリンクの入ったペットボトルを受け取り、キャップを外すと一口飲む。
そして、向かいに腰掛けたカインに静かに告げた。
「…雪は、今回の領土戦争に出陣させるべきではないと思う。そっちはどうだ?」
「岸辺は射撃のセンスがあるな。あのまま行けば、職業に限らず出陣を余儀なくされる。確かに、狙撃兵はウチの騎士団にとって喉から手が出るほど欲しい人材だ。…だが、今回は俺もアンナと同意見だな」
ふぅ…と溜め息を吐く。
しかし、どんな理由があろうとも二人の領土戦争参加は最早決定事項である。
二人とも優真の為に人肌脱ごうと躍起なのだ。
何とも友人思いな奴らだと感嘆しながら稽古をつけてきたは良いものの、成人とはいえ、戦争経験のない二人のメンタル面を考えれば中々厳しいと言えよう。
「向こうの、あいつ等が住んでた地域は殺人は起きた事がないし、犯罪も極稀でしかないらしいからな。だからこそ、いくらタフだろうと相当応えるだろう」
「そう言った意味では、やはり優真は凄いな。前に戦った時にも思ったが、躊躇がない」
「それはあの東裕也も同じだ。…正直、一番危惧すべきはあいつだな」
今回の領土戦争の発端は東勇者による開戦宣言。
何が目的か知らないが、彼が王座に居座るのはやはり危険だとあの場にいた二人は確信した。
「―で、僕をどうやって王座から引き落とすつもりなんですか?カイン隊長に、アンナ騎士長は」
おどけた声に弾かれるようにして振り向けば、笑顔で後ろに引きずりながら勇者の剣を持った東裕也の姿がある。
不覚にも、二人とも気配を消した東裕也の存在に全く気づかなかったのだ。
カインは笑みが引き攣るのを自覚しがらアンナを守る様に彼の前に立ちはだかった。アンナも警戒しながら立ち上がる。
「別にどうこうするわけじゃないですよ、東国王。お聞きの通り、ただ単に愚痴を零していただけです」
「ふーん…?」
東裕也も笑みを崩さずに応じる。
「失礼ですが、東国王様は何故此処に?」
「うーん、何て言うのかな…、こういうの。宣告命令というか、強制というか…」
遠くを見るように呟き、東裕也はゆっくりとこちらに視線を戻す。
突如、何かの砕ける音と肉に異物がめり込む感触。
「え…」
少し俯いた視界には丸い頭部と黒髪が映る。
「まぁ、大丈夫。ちゃんと急所外したから、手当てすれば死なないよ」
鎧を突き破り、右脇腹を貫いた剣から深紅の血が滴り落ちて血溜まりを作った。
「き、貴様ぁぁぁぁっ!!」
爆風の様な鋭く強い殺気が部屋を満たす。
アンナの怒号を冷ややかに笑って受け流すと、東裕也はカインの身体から剣を引き抜いた。
その反動でカインの身体が傾ぎ、よろつきながら後退する。アンナが急いで彼の身体を支えた時だ。
突如、背中に焼ける様な痛みが走った。
斬られたと思った時には既に自らの身体も空気の抜けた風船のように力が抜けて前に倒れる。そのまま二人の血が溶け合った水溜まりに突っ伏した。
「アンナ騎士長も、致命傷じゃないから安心してくださいねー。…まっ、聞こえてないと思うけど」
血が滴る剣を何度か振って表面に付いた血を払う。
床に付いた血の軌跡を辿る様にして東裕也は休憩室を後にする。
城内は異様な光景が広がっていた。
何処もかしこも血まみれで、床も壁もそこら中に血痕が跳ね飛んでいた。廊下などには負傷した兵士達が倒れている。
誰もかも、気絶しているのか、はたまた死んでいるのかピクリともしない。
しかし、東裕也は気にする素振りも見せず、廊下から見える青い空に浮かぶ白い雲の数々を仰ぎ見ながら、呑気にもいい天気だなぁと呟いた。
「―東勇者。これは一体…」
やや狼狽した様子で、それでも淡々とした声に横を向けば、ミカ・エバンが立っていた。
「…ミカちゃん。お帰り。えへへ、凄いでしょ?皆が起きたら大掃除させなきゃね」
「死んではいないようですが…。何の為に?」
「だから、城内血塗れだし掃除しないと…」
「いや、そうではなくて!何の為に斬る必要があるのかと聞いてるんです」
東裕也は平然と微笑み、視線を空に戻す。その様は何処か寂しげでもあった。
「…王様の命令をきちんと聞いてもらえるように、だよ。皆、口を開けば優真、優真って…。酷いと思わない?」
「事実、彼の方が彼等と共に歩んで来た時間は長いですから」
「先輩は、甘い汁ばっか啜って生きてきたのに、何で僕だけこんな苦労しないといけないんだろ…?
―ミカちゃんだったらさ、先輩と僕、どっちの許で働きたい?」
どちらも真っ平御免だと言いたいが、東裕也の瞳があまりにも寂しげだったものだから、溜め息混じりに答えてやる。
「貴方の許で。…か、勘違いしないで下さいよ?いくらかマシというだけです」
「へぇ〜?」
からかうようなその口調に何か反論を唱えたかったが、溜め息を吐くだけに留める。目の前に立っている少年が何だか不憫に思えてきて、気付けば抱き留めていた。
「…ミカちゃん?」
感情の篭っていない虚ろな口調。顔を上げれば、目に映るその瞳も同じで…。
「東勇者。私は貴方の事をよく知りませんが…」
自然とその言葉は口から零れ出ていた。
「私は、傍にいますから。きっと、ずっと一緒にいます」
何だろう。これは『告白』なのではないだろうか?
ミカ・エバンは自問する。そう思うと羞恥で顔がカッと赤く火照るのを感じた。
それでも。それでも、彼女は今まで人生の中で一番笑みらしい笑みを自然に浮かべることが出来た。
「…だから、いつか貴方の事を教えて下さいね」
突然告げられた言葉に東裕也はしばらくぽかんと惚けていたが、やがて照れたように俯く。
「僕、今までこういう風に誰かに抱かれた事ってないんだ。…母親、物心がつく前に死んじゃったから。こういうものなのかな?」
「私も、母親はいません。軍人である父は、私をモノとしてしか見なかったので」
「僕もそうかも。憎くないの?お父さん」
「…今では感謝していますよ。彼への憎しみで、私は今日まで生きています。憎しみがあったからこそ、今日があります。
…父は、私がラグドの騎士団に上がる時に射殺しました。今までの自分へのご褒美として。まぁ、結果論ですね」
「へぇ、感謝してるんだ。…じゃあ、今は?やっぱり、自分の為に?」
まるで子供の様に矢継ぎ早に尋ねてくる東裕也に、ミカはくすりと笑った。
「そういう訳でもないんですよ。だから、目下検討中ということで。…だから、手伝いますよ、貴方の復讐」
そのうち、互いに微笑み合って話す内容ではないことに気付き、また笑い声が城内に響く。
白亜の外壁に漆黒の城。その内部は今は血で赤く塗れている。
そんな歪な風景を背に、二人は日が傾くまでいつまでも楽しそうに笑っていた。
―領土戦争まであと五日。
更新遅れてすみませんでした!また一週間に一度になると思います。




