第三章 プロローグ
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轟音と誰かの怒号。崩れ落ちる大地。
その崩れた世界の中心に立つ黒衣の青年を見た瞬間、何とも禍々しい気を感じると共に、自分の中にもかつて芽生えた事のない感情が沸き上がるのに気付く。
嫌悪感、嘔吐感、恨み、猜疑心…様々な負の感情が芽生えて来る。
早く現実に戻りたくて、水からはい上がる様にもがきながら目を開けた。
ギィィ…と腰掛けていた椅子が悲鳴を上げる。
他人から見れば、その部屋は常軌を逸した異空間に違いない。
埃を被った腐りかけた木製の床には血で描かれた巨大な魔法陣。天井の隅には蜘蛛の巣が掛かり、壁には蜘蛛が縦横無尽に渡り歩く。机の上には水晶の髑髏や、色とりどりの宝石の数々が散りばめられていた。
箪笥には蛇の紋章が彫られており、締まりきっていない引き出しからは白骨化した手がはみ出ている。
老婆が両手で顔を覆えば、皺の増えた目尻から零れたのは驚く程透明な涙。
夢だ、これは夢なのだ。
唯の…、ほんの少し先の未来の夢。
闇に目配せして、老婆は痩せて骨張った手で壁に掛けてある、先端の髑髏が水晶を飲み込んでいる黒い杖を片手に握り、床を叩く。
杖から生み出された魔力の波動が『召喚の陣』を形成し、発動した。
「…あれ?此処、何処だろ?おかしいな〜。僕、家でゲームをしていたはずなのに…」
召喚されたのは拍子抜けするような、あまりに無防備な中性的な顔立ちの…少年だろうか。
闇が揺らぐ。明らかに動揺していた。
しかし、老婆は違う。射る様な目で目の前の少年を見た。少年はその視線に気付き、へらりと笑った。
「あははっ、何か枯木の様な見ていて胸糞悪くなる皺くちゃのババアが睨んで来るんだけど…。困ったなぁ」
闇が動く。シュッ…と鋭い音が鳴った。少年は動じない。唯、素早い動作でポケットから折り畳み式のナイフを取り出し、両手で構える。そして目の前の老婆を睨む。
「…止めい」
しゃがれた声で老婆が言うと、二人の動きが止まる。静かな憤りが二人に向けられていた。
「成程…。今回の勇者は随分と賢く、愚かな小童だ。お前がそこの小童を襲えば小童はそのナイフでわしを襲う…。小童は歪な児戯を嗜んでいると見た。戦闘においての冷静な判断と対処…、何より、殺す事に躊躇いが無い…」
「あのぉ〜…、褒めてます?貶してます?」
「魔王を殺せ、勇者…」
「話が全然見えないんですけど…。老ボケ?脳みそ取り替えて出直して来て下さい」
「…魔王、田中優真を殺すのだ」
「へ…?たなか…、ゆうま…?」
少年が驚きに目を見開く。何度もその名を静かに連呼していた。
知り合いなのだろうか?
闇は少年を注意深く観察しながら思いに耽る。
少年の瞳が、狩人の様な獰猛な光を燈す。
気が高ぶっているのか、頻りに折り畳みナイフを畳んだり、伸ばしたりを繰り返している。
「永い…、永い永劫の刻を移ろう私の身も限界が来た…。理と無縁のこの魂…。次こそは必ず…、必ず」
老婆は皺の刻まれた手を摩ると、机に置かれた柄に巻き付く蛇が彫られたナイフを鞘から抜き放つ。
「必ずや…魔王の首を…、この手に…」
躊躇うことなく、老婆はナイフを自らの心臓に突き立てた。
くぐもった苦悶の声をあげながら、老婆はゆっくりと膝を折り、床に倒れた。
流れ出た老婆の血を吸い、陣が光る。
円の無い魔法陣は、目も眩む様な黒い光を発し部屋全体を包む。
「な、何だぁっ…!?」
「あのあばら屋…。ほら、例の魔女の…。また怪しげな魔術やらで人を呪い殺している最中なんじゃないか…?」
「おっかねぇ…。騎士団は?魔女狩りを行わないのか…?」
「しっ…!お前、軽々しくそんな事を言っていたら、何れ呪い殺されるぞ。
数百年前に流れて来た婆さん…。奴は、依頼を受け金で人を呪い殺す魔女だったらしい。何度もこの村外れに住むあの魔女を何度追い出そうとした事か…。その度に原因不明の疫病やら、首の無い赤子やらが生まれたりしてな…。しかも、魔女の呪いで村から出られない以上、騎士様にも頼めやしない。障らぬ神に祟り無し…。黙って暮らしてる分にゃ、身の安全は保障されるだろ…」
「魔女だったのか、あの婆さん…」
「あぁ…、お前も帝都からの流れ者だから知らないのも無理はないか…。此処にはあまり近付くなよ」
「帝都っていう程の大それたものじゃねぇよ。ごくごく普通の平和な国の都からだ。騎士の仕事も録なもんじゃないからな、すっぱり辞めて、土を弄っていた方が性に合う。
…だが、あの婆さん。何処かで見たことあるような気がするなぁ…」
「んな訳ねーだろ?あの婆さん、百年以上も此処にいるんだぞ!?お前は、この土地の者ではねぇ。だから、それはありえねぇ」
そうかなぁ…?と不満げに呟き、流れ者はうなじを掻いた。
村人に促され、しぶしぶ退散する。
「誰かに、雰囲気が似てるんだよな…。誰だっけ…?」
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「若輩者ですが、新たな王として精進して参ります」
女神に代わる新たな王の演説をウンザリしながら聞く。
人が良いことを証明するような明るい笑みを浮かべて、これからのミケガサキ国はどう言った方針で進んでいくかを身振り手振りを交えて熱弁する国王を嘲るように見て微笑む。
「腹黒いのまる分かりだよ。あんなのに国を統治なんてさせちゃったら、この先どうなるんだろうね。つか、そんな大役があいつに務まるのかねぇ?」
ノンアルコールのカクテルを片手に誰に言うわけでも無く呟いて見る。グラスの中の薄桃色の液体がくるくると揺れた。それを一気に飲み干すと、近くにいたボーイにグラスを返す。オレンジジュースを勧められ、内心腹わた煮えくり返る思いだったが、大人の余裕というスキルを発動させ丁重に断った。
この滑稽な茶番劇も、これっぽっちも思っていない虚構の演説もそろそろ飽きた。
アレは自分の都合通りに国を動かしたいだけなんだよなぁ。まぁ、どうでも良いけど。
「おっ、雪じゃねぇか!」
背後から声がしたので、慌てて近くのカーテンの影に隠れた。
足音が近づいて、遠ざかる。しかし、足音とは裏腹に声はすぐ近くから聞こえてくる。
息を殺してそっと心の中で溜め息を吐いた。
――おっと…。危ないな、見つかったら絶対怒られるじゃないか。あー、早く終わんないかな。
そっとその場を離れ、演説場の裏方に避難する。
「あまり、表に出るなと言っただろう」
いつの間にか演説を終えた高慢ちきが眉を寄せて僕に言う。
気の利いた嫌味が思いつかなかったので仏頂面で黙っておく。こいつ嫌いだし。
「出番まだ?僕だって暇じゃないんだよ。ダイジョブだって。誰にも見つかってないさ。仮に見つかったとしても、何とも思わないと思うけどなぁ。随分、神経質なんだね、アンタ」
「…社会を知らないチビが。身長の代わりに態度をデカくしたところで惨めなだけだぞ」
はやく死なないかな、こいつ。
口元を引きつらせ、怒りを堪える僕に、ゼリアは辺りをキョロキョロと見渡した。
「…勇者は来たか様だな。では、そろそろこの茶番劇を終わりにしようか」
ゼリアは不敵な笑みを浮かべるとマントを翻し、表に設置された演説台に立つと手を叩いた。
観客の目が王に注がれる。
「…皆様。今宵の宴もそろそろ終いとさせていただきたく、最後に重大なお知らせを皆様にお聞かせしたく存じます」
僕の口元が不自然につり上がる。
これも一種の悪癖で、興味を引かれることや興奮した時にこの笑みが浮かんでしまう。
「この国に」
一歩前へ歩み出す。
「新たな勇者が」
真っ赤な絨毯を踏み歩き、ゼリアの隣に立つ。
「誕生しました」
笑みが。勇者の青ざめた表情が、観客の好奇心溢れる視線が。
「一国に勇者が二人…。何故だと思われますか?」
王の偽弁。熱心に耳を傾ける観客。
ゼリアには、大衆の興味を惹かせるカリスマ性がある。それがあの仰々しい身振り手振りによるものなのか、本来の性質であるのかは別にどうでもいいが。
「―残念なことに、ある勇者は魔王の手により堕落しました。彼女は今、そうなったが故に『勇者』の力を失っているのです」
周囲の視線が僕から、堕落した『勇者』に注がれる。
堕落した勇者――吉田雪は驚愕の表情で僕とゼリアを交互に見ていた。
「哀れな勇者を、救済しようではありませんか。彼女に非はありません。…悪いのは、全て『魔王』なのですから」
ゼリアは僕を見た。僕は奴を見なかった。僕の目には、気丈に振舞う吉田雪しか映っていない。
足に力を入れ、跳躍する。間抜け面を浮かべる観客を飛び越えて、彼女の前に立ちはだかる。
「――ごめんね、雪ちゃん」
その口調に、吉田雪の小さな唇が何かを言おうとして少し開く。
それを遮って、僕は隠し持っていたナイフで彼女の首筋を断つ。真っ赤な血が噴水のように吹き出た。
周りから悲鳴が上がる。這いつくばって逃げる奴、腰を抜かしてその場から動けない奴と実に色々いる。
どさっと、血を失った蒼白の体がレッドカーペットに倒れる。
瞳に光は宿っていない。口を少し開いたまま吉田雪は息絶えていた。
せめて、最期の言葉くらい聞いてあげれば良かったとちょっと後悔する。
「苦情なら、君を惑わした『魔王』に言うといいよ。まぁ、それは無理だろうから、僕が言っておいてあげよう…まぁ、冗談だけど。さようなら、吉田雪。あはははははっ!あははははっはははっははは…」
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「――いや、どなたか存じ上げないけど止めて」
布団を跳ね飛ばし起き上がる…つもりだったが、実際は目を開けるに至っただけだ。
ピッピッ…と規則的な機械音が薄暗い部屋に響く。
バクバクと煩く鳴る心臓を落ち着けるように、深く息を吐き出す。
「…おおぅ。まさかの夢オチ」
「一人でボケて、ツッコミを入れる…。虚しくありませんか、影の王…」
辛うじて首だけは動かせたので、横を向く。ゴキッ…と嫌な音が鳴るが、気にしない。
「フレディ…。居たの?全っ然!気配を感じなかったよ!ごめんね!?」
「勿論、私は死霊ですし、万が一見つかったらどうなるかわかったもんじゃありませんから、常に気配は消せるんですよ…。えぇ、プロですから…」
「あれ?そうなの?天性の才能じゃないの!?」
フレディは溜め息を吐いて、鬱陶しそうに僕を見た。そして、急に哀れむような表情になったかと思うと、諭すような口調で僕に言う。
「影の王…。いい歳なんですから、そんな子供染みた発言止めてもらえます…?」
「い、言い返せない…!」
くぅ…と悔しがる僕をよそに、フレディは憂うような目で遠くを見た。
「もし、影の王が見た夢が本当なら、大変な事になりますね…」
「『式典』って本当に開かれるの?」
「えぇ。そのような催しが近々開かれると小耳に挟んでいます…」
「………………………。」
「………………………。」
何も言わなくなった僕に、フレディは小首を傾げて問う。
「どうかされたんですか…?」
シュー、シューと酸素マスクから聞こえる息づかいだけが響く。
「…いや、この音、悪の親玉のあの息遣いみたいでちょっと嬉しかった」
「………………。ちょっと、脳に支障が出ているのでしょうか…?一度、精密検査を受けた方が…」
「マジ顔で言うなよっ!」
「あぁ、そうでした、元々でしたね…。因みに、外見は軽く包帯男ですよ…」
「マジでっ!?」
「まだ、体が損傷していますかね…」
悲鳴を上げる体を無視し、そっと腕に巻かれた包帯を解く。
皮膚は内出血しているのか、黒ずんでいる。頬に触れると、こちらも念入りに包帯が巻いてあった。どうなっているのかは予想がついているので、少しだけ解く。
「これでよしっ…と。それにしても、何でこの姿なんだろうね?力使ってないのに」
力を使った訳でもないのに、背中まで黒髪は伸び、身長もでかくなっている。
「損傷が大き過ぎた為、その姿でなければ回復しないんですよ…。実際、今の貴方の体は半分細胞が壊死しているのですから…」
「ふーん。まぁ、何でもいいや。さぁ、城へ急ごうか。僕も言う事があるしね」
ぺたぺたと素足のまま床を歩く。
半分解いた包帯が少し邪魔だ。ついでに言うなら、髪も邪魔。
「…影の王」
「?」
「その格好じゃ、城に入れませんよ?仮装パーティじゃないんですし…」
「だよね」




