第二章終話 争いの兆し
すみません、今回はとても長いです。
「何か…、空気変わってねぇ?張り詰めたっつーか、重苦しい気がする。…なぁ?」
俺の同意を求める掛け声に、雪は曖昧に頷いた。
「う、うん。酸素が薄くなって息苦しいというより、酸素はあるけど、身体が吸うことを拒んでる様な気が…」
互いに目を見合わせ、ヴァルベルを見つめる。
ヴァルベルはといえば、先程からずっと空を仰いだまま微動だにしない。
ようやく俺等の視線に気付いた様で、呆れと疲労を混同させた表情で俺等を見つめ返した。そして、ぶっきらぼうに言い放つ。
「…何よ」
「何かあったんだろ。…田中に」
問い掛けと言うより、確認の様だった。ヴァルベルは自嘲気味に微笑む。
何かあったのは、明白だった。
ヴァルベルは静かに溜め息を吐く。それが回答だと言わんばかりに。
何だか答えをうやむやにされている気がして二の句を次ぐ。
「このままじゃ、マズいんだろ?」
「…そうね」
何だか投げやりな返答だった。そう言って、毟る様に銀の髪をすくと、ヴァルベルは手入れされた爪を噛んだ。たちまち光沢のあるマニキュアに歯形が残る。
それは、田中の失態からなる苛立ちではなく、その場に行く事の出来ないもどかしさだろうか。
「俺等は、正直足手まといにしかならねぇ。だから行きたいなんて駄々はこねねぇよ」
「…え?」
ほうけた様にヴァルベルは聞き返した。頻りに目をしばたかせる。
「俺達の事は気にしなくて良い。自分の身くらい自分で何とかする。…行ってくれ」
その一言に雪は同意する様に静かに頷いて、ヴァルベルは困った様に微笑む。
馬鹿ね、とその唇が動いた。そしてくすりと笑う。
「流石、主様の友人だけあるわね。救い様の無いお馬鹿さんだわ」
「なっ…」
そんな言い草はないだろうと続く言葉を遮って、ヴァルベルは言う。
「ありがとう。折角の気遣いを無下にするようで悪いけど、私一人が今更のこのことでしゃばっても何の解決にもならないわ」
「じゃあ、その、待…」
「…でも、何もしないよりマシだと思わない?当たってナンボの人生よ。
だから、どうせならね。結果オーライって事で、潔く決行した方がトクよね」
ヴァルベルは同意を求める様に俺達を見て、くすぐったそうに笑う。
「おうっ!」
「はいっ!」
同時に声を上げる。
こんな状態なのに、今はただ可笑しくて楽しかった。
ヴァルベルは目尻に浮かぶ涙を片手で拭うと指を鳴らす。
黒い影が俺達を包み、未知なる世界に誘う。
仄暗い空間は、まるで不安を表した様だ。
だから、そんな思いを振り切る様に俺は思い描く。
―何処までも似ていて、何処までも異なる幻想的なこの世界。
学生時代の青春を取り戻すかの様に、俺は期待に胸を高鳴らせ希望に目を輝かせるのだ。
此処で出会った、変わり者の友人達と共に。
****
魔王の如き格好をした黒騎士は、自ら作った血溜まりからゆっくりと体を起こした。即座に起こった黒騎士を軸に放たれる魔力の波に周辺で銃を構えていた兵が吹き飛んだ。
黒騎士が軽く地を蹴ると、まるで無重力の様にその体がふわりと浮き上がる。
「これは…。参ったなぁ…」
目の前で暴走し出す義子の様に、苦笑しながら呟く。焦げ茶というには色の薄い錆色の髪を払い、陽一郎は困った様に顔を覆った。
空気は何だか濃度が高くなり、思う存分に酸素が吸えなくなってきている。
―負傷者の内、軽傷が二十名程で、重症が約四十名。到底、持久戦には持ち込めない…。優真君の方も限界が近いとなれば、可哀相だけど一気に決めるしか手はないな…。
陽一郎はちらりと横目で唯一戦力となりうる二人を確認した。
ダグラスは僕との戦闘もあり、疲労で動きにキレが無くなってきている。アンナ・ベルディウスはまだ使えそうだが、相手が相手だけあって攻撃を躊躇う節があるから、いざという時に命取りに成り兼ねない。
今回は、相手の悪あがきが功を成した。
今の彼が相手なら、不意をついての奇襲も無意味に終わるだろう。ましてや、いくら頼りがいのある強者でも、負傷しているとなれば一気に畳み掛けるのは不可能に近い。
あと、あと一度だけだ。
今は一旦退くべきか否か。いや、そんなことをしたところで何の打開策にもならない。時間は限られているのだ。
いくら彼が不老不死でも、精神には適応されない。このまま感情エネルギーを消滅出来なければ、優真君が感情エネルギーに完全に取り込まれて死ぬだろう。今の状態はその予兆だ。確かに呑まれかけているが、まだ完全じゃない。だが、軽傷とはいえ負傷したこの三人で片をつけるには余りにも荷が重い…。
「陽一郎、来るぞッ!」
「…っ!!」
ダグラスの怒号とも取れる叫びに、思考が一時的に遮断された。顔を上げば、長剣を天に突き上げた優真の姿が映る。辺りからどよめきと悲鳴が上がった。
突き上げた剣に、もう一本の手が添えられた。
「…ッ皆、僕の後ろに下がって!」
その声に、まだ息のある兵達がドタドタと後ろに下がる。それを確認すると同時に、素早く十字を切ると、目を閉じ祈る様に手を組んだ。ふわりと髪が浮かぶ。
陽一郎を軸に、周りから金色の光の粒子が生まれ、辺りを漂う。
すっと彼の瞳が開かれる。
その様に陽一郎の側に立っていた二人は息を呑んだ。
金色の双眸には、五芒星が浮かぶ。
「貴様も、『魔眼』だったのか…」
そんなアンナの呟きは、陽一郎には届いていない様だった。
その時、宙に浮かんでいた黒騎士は剣を空間そのものを断ち切るかの様に勢い良く振る。
陽一郎の周りに集まった粒子が透明なドーム状の膜となり広がって行くのと、黒い剣の切っ先から風圧と共に黒い斬撃が放たれたのはほぼ同時だった。
二つの対照的な力がぶつかり合う。
「……………。」
「まるで矛盾の話の様じゃないか。片や破壊を司る力を持ち、片や守護を司る力を持つ。…結果、こうなるんだね」
陽一郎の言葉に、黒騎士は表情を変えず黙って地を見下ろしていた。
二つの力がぶつかり合り、山と海、天と地を表す様にくっきりと差異が分かれていた。まるで線を引いたかのように。
守護の力が及んだ範囲外、全て砂塵と化していた。
風がそよぎ、日が差す。黄金色の太陽が顔を覗いていた。
「凄まじいな…。しかし、陽一郎よ。お前が『魔眼』を持っていたとはなぁ。
何故金色なのだ?」
「それは…」
「それは、陽ちゃんが書の使い手だからよ」
ダグラスの問いに、陽一郎の影が喋る。影は立体となって浮かび上がった。
「はぁ〜い。久しぶりね、陽ちゃん」
「ヴァルベルか。あぁ、二人も一緒なんだね」
困った様に笑いながら陽一郎は言う。
「田中は…?」
「あの通りだよ」
岸辺は友人の姿を確認し、安堵した様に息を吐くが、次に砂塵の化した辺りを見て身震いする。
一度視線を落としたが、何かに気付いた様に空を指差した。
「あれは…鳥…か?」
岸辺が指差した方には、二つ黒い影が並んで空を飛んでいる。
「この魔力…。ノーイ達か」
アンナは空を仰ぎ、顔を綻ばせた。
二翼の白黒の竜は徐々にその姿を表す。朝露に濡れて輝く花のように神々しい様で悠々と翼を広げ下降する。
ふわりと翼の羽ばたきによって風が鳴った。
乗せていた人を降ろすと姿を変えた。
「ニアッ!」
「ふぅ…。遅くなって申し訳ない。国民を避難させるのに思いの外手間取りまして…」
ノーイが申し訳なさそうに弁解し、ノワールは仕方がないですわと宥める。
白い竜から降りたカインはげっそりした顔でアンナに駆け寄った。
「あれから姿が見えないと思ったが、民の護衛に行ってたのか」
「…ついでに王子の護衛もな。移動出来るとはいえ、いつまでも城に篭ってる訳にはいかないだろ?万が一火の粉がこっちまで飛んで来たら、俺一人じゃどうしようもない。
避難させてる最中に、三人に出くわしてな。手伝ってもらってたんだ。だから、もう少し早くこちらに到着出来ると踏んでたんだが、皇子が来る気満々だったからな…。説得するのに苦労した…」
「途中でメアリさんが来てくれなければ、小一時間は間違いなく掛かったでしょうね…」
ノーイとカインは揃って溜め息を吐く。
吉田魔王様はそれまで黙って空を仰ぎ、砂塵と化した大地を見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
『―しかし、此処まで破壊力のある攻撃をよく防げたものだ。色はある程度戻り、日は差し、音も復活した。これも陽一郎殿の力なのか…?』
「半分正解で、半分ハズレね。陽ちゃんは主様と同じ契約者よ。…主様と相反する力のね」
ヴァルベルはそう言って、陽一郎を見た。
陽一郎はただ黒騎士を見ている。
「…随分昔の話よ。この世界は暗澹たる闇が支配していたわ。神の気まぐれか、単なる偶然か、はたまた誰かの陰謀かしらないけど、それじゃ成り立たない。世界として機能しないって思ったのかしらね。世界は一度終わったわ。そして新しく創り直された。
そして、世界を法則の一部として二つの書が生まれたわ。主様は沈黙の書と呼んでいるけど、私の認識は『禁書』と『聖書』ね。
…私達の書は一般的に知られているけど、かの書名は知らないのよ」
」
「生憎、僕も知らないんだよ。突然、夢に出てきてね。押し売りセールの如く契約にこぎつけられてしまったんだ」
「えっ、マジですか?」
「あはは、もちろん嘘」
岸辺の問いに、屈託ない笑顔で陽一郎は笑うと、視線を元に戻した。ふぅ…と息を吐き、肩の力を抜く。
「君達、ちょっと手を貸してくれる?」
「何かまだ手伝える事があるなら、何なりとやりますよ」
カインの言葉に、陽一郎は満足そうに頷いた。
「それは良かった。まぁ、無理しない程度に頑張ってくれれば十分なんだ。
…聖剣を知ってるかい?」「聖剣エクスカリバーのことですか?あの、アーサー王の伝説に出て来るやつ…だっけ。ゲームとか、漫画とかに出て来る魔法の剣…」
「まぁ、そんなのだよ。岸辺君の言う通りかな。それさえ『召喚』出来れば大丈夫。威力は保証するけど、よっぽどの事が無いと出て来ないから、今回も時間が多少なりとも掛かっちゃうと思うんだ。でも召喚さえしちゃえば、いくら優真君でも木っ端み…ううん、倒れて元通りさ」
「あの、陽一郎様。陽一郎様が聖剣を持っているということは、優真様も似たようなものを持っているのでは?」
「勿論、持ってるよ。今持ってるアレがそう。でもあの子、どちらかと言えば短剣とかの方が使い慣れてるし、魔力も大分消耗してるから、一国を潰す程の力はどうやら出せないみたいだね。いくら不慣れと言えど、魔力が万全だったら今の僕ではとても太刀打ち出来ないなぁ」
「笑い事で済みませんよ、陽一郎さん。仮に私達が時間を稼ぐとして、非戦闘員の二人も庇いながらとなると、私達の身が持ちません」
ノーイが呆れながらも半ば本気で言い放つ。
彼の言い分も至極尤もなことで、岸辺と雪の二人は肩を落としていた。
「ど、どうするよ、雪」
「うーん、大人しく陽一郎さんの後ろにでも隠れてる…とか?」
「成程、それなら負担を軽減…出来ねぇよ」
見兼ねたヴァルベルが溜め息を吐きながら言った。
「…坊や達のお守りは私がするから大丈夫よ。けど、陽ちゃん。主様がアレを放って来たら、どうしようもないわ」
「そうだね…。その時は、君達の影の世界にお邪魔するしかないよね」
陽一郎は腕を組み、頬に手を当てて暫く考え込んだ後、初めからそのつもりだったかの様に平然と言った。その発言にヴァルベルは頭を抱える。「陽一郎ちゃん…。さも当然の様に言わないでちょうだい。ウチは緊急避難所じゃないんだから。貴方も知っての通り、主様は部外者大嫌いなのよ〜。移動くらいなら目をつぶってくれるけど、怒られるのは私なんだから」
「おや、駄目かい?いくら事が急を要するとしたって君達のリーダーは僕等の許可なく勝手にこっちの領域に具現しているのに。
貸しを返すと思えば、随分安上がりだと思うんだけどなぁ」
「だ・か・ら!…あぁもう分かったわよ。脅し付けなくてもいいじゃないの。人間は人間でも、陽ちゃんみたいな人は敵に回したくないわね…」
脱力した様にヴァルベルは言い、陽一郎はそうかい?と、にっこり微笑んだ。
そして、挑む様な眼差しで黒騎士と対峙する。
「…でもまぁ、確かにそう何度も攻撃されて影に潜っていては、確かに困る。何度も妨害されてちゃ、優真君の精神が死んでしまうからね。だから、そうだなぁ…。ダグラス、その斧は明真さんのだったね。貰って良いかい?」
「な、何故だ?」
『―依り代、か』
了承も得ずに勝手に漆黒の巨大斧を奪う陽一郎に、ダグラスは目を白黒させて慌てている。
ダグラスの問いに答えるわけでもなく淡々と準備を進める陽一郎に、誰に言う訳でもなく吉田魔王様が呟いた。
「依り代と言いますと、神様などが憑依する対象物のことですわよね?でも…」
吉田魔王様の呟きを聞いたノワールの意図を汲んで、ノーイが言う。
「この場合の依り代は、また別の意味合いを持つのだと思いますよ、姫様。
初代勇者である明真様は既に故人となっています。
仮に、彼が生者であるならば依り代は不要ではないかと。なれば『召喚』すれば済む話なのですから。
恐らく、相手が死者であるならそれを特定する為の物が必要となるのでしょう。それこそが『依り代』と呼ばれるものなのでは…と思いますが、如何でしょうか?」
「ノーイ君の言う通り、死者を『召喚』するのは本来なら禁忌だよ。何でも、生死の境というのが曖昧になってしまうかららしい。確かに、そうほいほい死者を召喚されては、生きる有り難みとか、死への恐怖なんてものがなくなって、生きているのか死んでいるのか分からない奴らが増えちゃうからね。
話が逸れたけど、所謂、死者蘇生と同じ意味合いになってしまうんだ。
まぁ、相手は死んだ魂。だから具現は出来ない。だからその為の依り代という魔力が電池の様な一時的『器』を用意するのさ。一時的なら死者蘇生の禁忌にはなりはしないから。
さて、まあそういうことだよ。だからコレを依り代に使う。
…異論、ないよね?」
有無を言わせぬ笑顔で陽一郎は言うと、手描きで贄の陣を複雑化した様な陣を形成する。そしてその中心に斧を置いた。陣から離れ、唄う様に朗々と祝詞を唱える。すると、何処からともなく現れた光の粒子が、漆黒の斧を包んだ。
「…なぁ、明真さんって、アレだよな。田中の…。何、あの人初代勇者になってんの?しかも故人なのか?」
「「「アレ?」」」
雪とカインとアンナの三人が、珍しく声を揃えて聞き返した。
「あれ?そっか、知らなくて当然だよな。明真さんは田中の親父なんだよ」
「えええええっ!?あ、明真さんが?」
「「どちらにも似てないな…」」
「ま、まぁ、それは色々あるんだよ。昔の田中なら目つきは由香子さんに似てるぞ」
そんな四人を余所に、陽一郎は意識を集中させると再度手を組み、祈りのポーズをとった。また光の粒子が彼の周りを金色に彩る。粒子は集まって、陽一郎の足元に陣を形成しようとしていた。
それにあわせて各自、陽一郎の周りを取り囲むと、武器を構える。
同時に、黒騎士も攻撃態勢に入った。重力など存在しないかの様に体勢を斜め逆さにし、屈む姿勢となる。『魔眼』が赤く光った。
空気が滲む様にして陣の形を成す。空気の陣が形成された。
「まさか…、空気に含まれる魔力を利用したというのですか!?」
「つまり、どうなるんだ?」
驚愕するノーイに、岸辺が問う。
「銃弾より殺傷能力の高い…そうですね、空気を圧縮した銃弾サイズのロケットが発射されると言えばお分かりいただけますかね。
しかも、空気の弾ですから、魔力があるだけ無限に発砲されるんです」
その言葉に、岸辺はさっと青ざめた。雪と岸辺の前にヴァルベルが立つ。
同時に、空気の弾がマシンガンの様に無数に降ってくる。
「皆様、お下がりください。此処は私が…」
「いけません!ノーイ、貴方の怪我はまだ癒えてはないでしょう!?例えプラチニオンであったとしても、今の状態では防げませんわ!」
「―しかしっ!」
この数では避けようも、防ぎようもないとノーイは声を荒げようとした。
「真昼間から痴話喧嘩たぁ、羨ましい限りだ。まっ、そう声を荒げなくても解決するぜ」
場違いな、緊張感のカケラもない声が響く。何処か自信に満ち溢れた恐れを知らぬ猛者の声だ。
名は体を表すと言うが、魔力もまた同様である。
かの者の魔力は、正義という焔の様に煌々とほとばしり、その癖、日だまりの様な包み込む暖かさが感じられた。
その魔力に当てられた、あるいは予期せぬ登場人物に注意を払っているのか定かでないが、とにかく攻撃は止んだ。
「田中の奴、明真さんだって分かったのか?」
「いんや、俺の特殊能力で元の空気に戻しただけだ。分かっちゃいねぇさ」
そう言って、明真は空を仰ぎ見る。
『しかし、明真。特殊能力は譲渡したんじゃなかったのか?』
「まぁ、細かい事は気にしねぇの。長いこと特殊能力を使ってれば、その力が魔力に染み付くことだってある。これでも、大分効力は薄まってるぜ?
…ところで、」
そこで明真は片手を首に当てて言う。
「お前等誰だ?」
『忘れたか、私だ』
「あぁっ!柾木の所で匿われてた研究員か!名前は、確か…ゴッドファザー」
「何ですか、その名前は。違います。――こいつ、本当に勇者なのですか?」
恐らく、吉田魔王様の本来の名を言おうとしたのだろう。しかし、彼は二三度口を開閉させると疑念の言葉を発した。
『残念ながら、こんなのでも勇者だ』
「うわっ、ヒデー言いよう…。しかし、随分様変わりしたなぁ。あんたも国も。ちゃんと、良い方向に向かってんのな」
嬉しそうに明真は笑った。幸せを感じた時のくすぐったそうな笑みだ。そんな明真にカインとアンナが歩み寄る。明真は二人に気が付くと一層破顔し、片手を上げた。
「…ほ、本当に明真なのか?」
「おうよ!カインもアンナも随分デカくなったな!元気そうで何よりだ。
しかし、カイン。男らしくなったな。アンナは…相変わらずみたいだな。うん、良いことだ!
さて、召喚者…も誰だか存じあげないが、間違ってたらすまない。会ったことないよな?」
カインとアンナに肩を組みながら明真は陽一郎を見た。陽一郎は、にっこりと微笑んで手を差し出した。
「初めまして、田中陽一郎です。優真君のお父さんやってます。貴方の次の勇者ですから、後輩に当たりますね」
明真は面食らった様な表情をしたあと、顔面を押さえた。申し訳なさそうに握手を交わし、再度。
「あちゃー…、やっぱそうなるよなぁ。息子が世話になってます…。由香子の奴、どうですか?」
「貴方のせいで、とんだアバズレになってしまいましたよ。金を持って、巧眞君と夜逃げされました」
「うわっ、荒みに荒んだな由香子の奴…。苦労と迷惑をかけてホントすみません」
腹黒い陽一郎の発言を気にする風でもなく、明真は素直に謝る。それを見て、つまらなそうに、こっそりと陽一郎は嘆息を漏らす。
イジメ甲斐が無い、これ以上は無駄と判断だろう。
「まぁ良いや。では皆、後は頼んだよ」
再度、陽一郎は手を組む。胸元に陣が浮かび上がり、白い書物が現れる。かの唇が祝詞を口ずさめば、白い書物は自ら項を捲り、光り輝いた。
黒騎士は何かを考え込むようにずっと黙って様子を窺っていたが、次には持っていた長剣をバキリと折った。刃が手に食い込み、黒い血が流れ出す。
折った剣の刃先の部分以外を放り捨てると、短剣程の長さになった刃を握り締めた。
血で手が滑らない為の確認なのか、一振りする。黒い血が空気中に飛び散った。刃が肉に食い込んだのをまじまじと見る。そしてもう一度強く握り締めた。
「…来るぞ」
誰かが、そう低く呟く。
皆に向けた言葉と言うより、自分に言い聞かせる様な呟きだ。
黒騎士は、暫く宙に浮いていたが、唐突に消えた。
辺りを緊張が包む。
武器を構える些細な音が絡まって、より一層顕著になる。
「皆、陽一郎の周りに固まれ」
明真が指示を出す。
皆、指示に沿ってじりじりと陽一郎の周りに後退し始めた。
「…っ!?」
カインの頬に何かが掠る。つぅ…と血が滴った。
手の甲でそれを拭うと、べっとりと血がこびり付いてる。
つい手の甲を凝視し、歩みを止めた。
「カイン、後ろだッ!」
明真の怒号が飛ぶ。
黒い刃が鈍く輝く白銀の鎧を砕き、肉へと到達する。血飛沫が甲冑を赤く染め上げた。
霧の様に現れた黒騎士は、素早く刃を引き抜き、ゆっくりと驚愕の表情を浮かべる彼等を見た。
苦悶の表情で地をはいずり回るカインに止めは刺さないつもりなのか、彼は何もしなかった。どうやら、既に眼中に無いようだ。
「…カインッ!」
駆け寄ろうとするアンナを明真が片手で制す。慎重に一歩踏み出した。腕に裂傷が刻まれる。
「物理凍結か…。大気中に飛び散った血で攻撃するたぁ、中々、洒落た攻撃じゃねぇの。しかも、黒血となりゃ、かすり傷程度じゃすまねぇだろう。
…なぁ、優真。俺としてはまぁ、今生の別れを覚悟して別れの挨拶したんだよ。また会えたのは勿論嬉しいが、まさかこんな再会になるたぁ、皮肉なもんだな。落ちこぼれ勇者に対する神様って奴の最後の慈悲なのか知らねぇが、随分残酷なもんだ」
「大丈夫です。今、貴方に酷な事を強いらせているのは神ではなく、そこの一般人ですよ」
明真の呟きに、ノーイが茶々を入れる。吉田魔王様とノワールが同時にノーイを打っ叩いた。
黒騎士は何も答えない。
人形の様な感情の無い表情の、硝子の様な透明な瞳が明真をただ映す。
明真がもう一歩前へ踏み出す。黒騎士は切っ先を明真に向けると、腰だめに構えた姿勢で足に力を入れるとバネの様な素早い動きで明真の懐に突っ込んで来た。
明真は素早く反応し、後ろへ飛ぶ。横薙ぎに振られた切っ先が明真の胸部を掠った。
黒騎士は追撃しようとそのまま前へ踏み込む。
「………………」
黒騎士の動きはそこで止まった。
「…あれ?田中の動きが止まった?」
「今、私が幻術を見せていますわ。ノーイ、今のうちに空間固定を」
分かりました、とノーイは即座に複雑な構成の陣を描き上げた。黒騎士の姿が見えなくなる。
「やるねぇ、嬢ちゃん!これでどのくらい時間が稼げるかだな…」
口笛を吹いて褒める明真をよそに、アンナはカインに駆け寄り、鎧を脱ぎ捨て、衣服の裾を破ると急いで止血する。
「…急所は外れているみたいだ。見た目よりは酷くねぇが、安静にした方が良いな」
岸辺が横から覗き込んでそう判断する。
「外れたんじゃなくて、態と外したんだよ…。精神の方はまだ完全に呑まれてないみたいだぞ」
油汗をかきながら、カインはにやりと笑った。アンナはそんなカインの頭を容赦なく叩き、同じ様に微笑んだ。
「…当たり前だろう、馬鹿者…」
「同じ事…、優真にも言ってやれ…」
「分かってる。もう喋るなよ。怪我に響く」
カインは小さく頷くと、目を閉じた。
「いくら何でも、此処は危ないよな。猫モドキ、カインさんを運ぶの手伝ってくれ。城まで運んでくれると助かる。
…そういう訳で、俺行きますね。此処に居ても足引っ張るだけだと思うんで。田中の事、頼みましたよ」
「じゃ、じゃあ私も…」
そう言って駆け寄る雪を、岸辺は首を振って止めた。肩を軽く叩き、真剣な眼差しで言う。
「雪は残ってくれないか?お前の声なら、田中に届くかもしれねぇからな。ヴァンルベルも頼む。
…とにかく、お前は此処に居てくれ。良いな?」
「う、うん…」
よしっ!と岸辺は無邪気な子供の様に微笑み、竜の背に乗る。
「坊や、本当に一人で大丈夫なわけ?」
「これくらい一人でやれなきゃ駄目なんだろ?なら、熟してみせるさ。何たって、その為に来たんだ。何もせずおめおめ帰れねぇし、田中に顔向け出来ねぇだろ?だから、俺が行く。それくらいの役には立つさ」
猫モドキが憤慨したように一鳴きする。
一人ではないと抗議しているようだ。岸辺がその背を撫でてあやす。
やがて、プラチニオンがそのシルクの様な翼を一度羽ばたかせば、あっと言う間に彼等の姿は空の彼方へと消えた。
「…さっき、あんちゃんが言ってたことだが」
「えっ?」
突然声をかけられて戸惑う雪に、明真はにまにまと嫌らしい笑いを浮かべ小指を立てた。
「つまりは、優真のコレってことかぁ〜?」
「えっ、えっと、何と言うか…。ま、まだ彼女じゃないんですけど…」
赤面したまま俯く雪に、感慨深そうに明真は頷く。
「ほほ〜う。しっかし、我が息子ながら、優真の奴も隅に置けねぇなぁっ!
だが待てよ…、岸辺って子も恐らく…。いやぁ〜、青春だねぇ〜」
嬉しそうに顎を摩る明真にノーイが注意を促す。
「呑気に話してる場合ですか?余談を許さない状況…」
「まっ、そうだな。しかし、優真の特殊能力ってやつは、恐ろしい代物だな。
…『否定』、か?」
結界が黒い粒子に包まれ、溶け消えたかの様に無くなった。黒騎士はその中で平然と立っている。
辺りを、黒い粒子が守る様に囲っていた。
「おいおい、陽一郎さんよ…。いくら何でもこの能力相手じゃ、どう足掻こうにも無駄ってもんだぜ?」
「そんな事は無いさ。まだ優真君の精神は残ってるんだろう?なら、それに賭けるだけだ」
にこりと陽一郎は微笑んだ。その手には、金の装飾が施された神々しい光を放つ剣が握られている。
余程、大量の魔力を消費したのだろう。額には汗が浮かんでいた。息が荒く、肩が上下に揺れている。
『それが、聖剣…』
「皆、後ろに下がって。ヴァルベルは万が一に備えて影に還った方が良い」
「はいは〜い」
ヴァルベルは素直に頷き、影に入った。
黒騎士と陽一郎が対峙する。
陽一郎は肩幅に足を開き、両手で柄を握り直すと、高々と剣を掲げた。
片足を後ろに引く。
黒騎士もまた、持っていた刃を軽く手でなぞらえると元の長剣へと姿を変えた。彼も陽一郎と同様の動作をする。
「―――――――」
「―――――――」
互いに何かを叫んだ気がした。あまりの気迫に、幻聴を聞いたのかもしれないとノーイは思う。
剣が、風を斬る。
双方の斬撃は直線を描き、地を穿つ。黒と白の光が埋め尽くしていく。
光と闇が交差した。
徐々に迫り来る光線に圧倒され、誰もが息を呑む。
黒騎士もまた、同じだった。無防備に突っ立ち、光線が迫るのを眺めている。
不意にその手が動き。
―黒騎士は笑った様な気がした。
パキンッ…と乾いた音が鳴った。
黒い影が視界を塞ぐ。
「間一髪ね〜。この人数じゃなきゃ、間に合わなかったわ。後は、無事成功したことを祈らなきゃ」
「連れね〜な、もう出るのか?せめて、大ちゃんに一言挨拶したかったんだが…」
「明真には悪いけど、そう長居も出来ないのよ。貴方は依り代で一時的に具現している霊体。此処に長く居れば、魂が穢て地獄に堕ちるわよ」
溜め息混じりにヴァルベルは言って、もう一度指を鳴らす。乾いた音が、空虚な世界に響いた。
「…優君、無事かな?」
「無事じゃなくちゃ、こっちも困るなぁ」
そう言ってガリガリと明真は頭を掻いた。
そして、目の前の景色を見て凍り付く。
「陽一郎君、陽一郎君」
「……やり過ぎちゃいました」
あははと苦笑を浮かべて陽一郎もまた頭を掻いた。
「成程、確かに木っ端微塵ですね」
「優真様は、砂塵に還ってしまわれました…」
辺りには、何もなかった。砂埃が風に舞う。
「まぁ、過ぎた事を悔やんでも仕方が無いよね。優真君は優しいから、きっと許してくれる」
「おいおい…、そんな真の優しさはいらねぇぞ?」
「―あの時、僕の技の威力は全然で、優真君なら防げたと思うよ。明真さんを『召喚』するのに、大分魔力を消費してたから」
「優君、あの時、剣を折りましたよね?あれは、優真君の意思なのか、向こうの意思なのか分からないけど…」
「両方じゃ…ない、みたいだね」
言い淀む雪に、陽一郎は陽一郎は両方がないかと言おうとして、途中で変えた。そのまま引き攣った笑みを浮かべる。頬に当たった液体を、甲で拭い取った。
「――――――――ッ」
声にならない音でそいつは吠える。喉が潰れているのか、最早、人の声ではない。
片腕は無くなり、体が腐敗したかの様に、今にも落ちてきそうな肉塊と化した手足からは、ぼたぼたと大量の血が流れていた。
最早、人の形をした化物同然の姿だ。彼の頭上には、血の様に赤黒い光が渦を巻いて小さな球体が出来上がっていた。
「皆様、今すぐ退いて下さい…」
「フレディ…。アンタ、今まで何処に…」
ヴァルベルの問いに答えず、フレディは陽一郎を見据える。
ただ一言。
もう手遅れだと呟いた。
「先程の感情エネルギーの比ではありませんね…。皮肉にも、影の王の魔力と感情エネルギーの相性がとても良い…。このままでは、ミケガサキの国土もろとも塵になりますね…。例え残っても、汚染された大地です…。マフィネス同様、到底人の住める環境ではないでしょう…。
結局、集めた『国宝』も、何の役にも立ちませんでしたね…」
五つの金の装飾と美しい赤の宝石で彩られた装飾品は、フレディの手から滑り落ちて地面に転がった。
それを雪が慌てて拾い集める。
「ま、まだ大丈夫だよ!優君はまだ…」
「先程から、魔力反応が途絶えています…。それに気付いたから、誰も何も言わないのですよ…」
雪は『国宝』を抱えたまま辺りを見渡す。
誰も地面を見たり、雪から視線を逸らしたりした。
キュッときつく唇を結ぶ。皆、此処から離れる気はないようだが、誰もが優真の精神の消滅を半信半疑…いや、信じてるに近い。
―魔力反応が途絶えたから死んだと決め付けるの?だから、何だというのかしら。そんなの、初めから信じていないのと同じことじゃない。
雪はそのまま宙に浮かぶ思いの人を見た。そのまま陣を形成する。
―仮に、本当に優君の精神が死んでいたら…。
そう思うと、胸が締め付けられる思いだ。仮にそうなら、私の命は無いだろう。…でも、何もしないで死ぬよりはずっとマシだわ。
私には、分かるよ。
君は、まだちゃんと居る。ちょっと迷子になっているだけなんだよね。
跳躍する。
誰かが声を上げて止めた。その制止を振り切って手を伸ばし、傷だらけの体を両手で包んだ。
赤い光が二人を包む。
…………………………。
………………………。
……………………。
「此処は…」
見知らぬ街中の雑踏。
アスファルトの地面に、灼熱の太陽。大通りなのか、やけに広い。よく見れば十字路になっている。どうやら交差点の様だ。
横断歩道の信号がチカチカと点滅する。
サラリーマンなのか、スーツを着た男性がを鞄を抱えて走り去り、その脇をローブを纏った魔術師が杖をつきながら通り過ぎていく。
灰色と黒髪の子供達は器用に雑踏を掻き分け、何処かへ走って行った。母親とおぼしきエプロン姿の女性が慌てながらその後を追う。
そこは、ミケガサキと三嘉ヶ崎が入り混じった奇妙な世界だった。
雪は、ちょうど交差点の…いや、横断歩道の真ん中に立っている。
人混みは彼女の存在など最初から無いように、彼女に一度もぶつかることなく側を通り過ぎて一方通行に進んでいく。
雪は、焦燥感に刈られた。
何だか此処は気味が悪い。彼等は、この交差点は、点滅を繰り返す信号は何を意味しているのだろう。
考えるより先に体が動く。探し人の姿は見えない。人混みを掻き分け、時に押されたり、流されたりしながら雪は探した。
「あっ…」
見知った人を見付けた気がした。しかし、その姿は直ぐに雑踏に呑まれて消えてしまう。
「待って!」
人混みの流れが早まる。信号がチカチカと点滅する。行ってはいけないと、念を押す様だ。
雑踏を掻き分け、消え行く影の腕を掴んだ。影が振り向く。
「…迎えに来てくれたの?」
「あれ?」
景色はいつの間にか見知った三嘉ヶ崎の公園に変わっていた。
夕暮れの、誰もいない公園。設置された時計が、午後六時半を指す。ブランコが風に吹かれてギィギィと揺れていた。
ベンチには、ぽつんと男の子が一人うずくまって座っている。
雪の手は、見知らぬ男の子の肩に置かれていた。
男の子は膝から顔を上げ、雪を見てそう言った。
泣いていたのか、瞼は赤く腫れていた。
「迎えに、来てくれたの?」
遠慮がちに男の子はもう一度尋ねた。
雪は静かに微笑んで、肩に置いた手を男の子に前に持ってきた。
「帰ろう、優真君」
「……………。うん」
しばらく躊躇った後、男の子は泣きながら微笑んで、その手を取った。
お・か・あ・さ・んとその小さな口が呟く。
景色が変わる。
誰もいない交差点。
赤に変わった信号。
青い空と吹き抜ける熱風。
交差点は、双方を隔てる崖と化した。
渡りきった道には大勢の人が、じっとこちらを笑顔で見ていた。感情のない笑みだった。
雪には、ポールが鉄格子の様に見えた。
彼等は、羊の皮を被った狼だ。あの面の皮には獰猛な表情が覗くのだ。
その時が来るのを静かに待っているかの様に、彼等はただ微笑んでいた。
「…優真君、行こう?」
「ごめんなさい、やっぱり行けないよ」
体の奥底から絞り出すような声で優真は言った。
雪の手を離し、赤信号の横断歩道を渡ろうとする。
車は無いから、轢かれる心配はないだろう。
しかし、向こうに行ってはいけない。
向こうは狼の群れだ。
行ってはいけない。戻れなくなってしまう。それでは向こうの思うツボだ。
優真は既に横断歩道の真ん中まで進んでいた。しかし、そこで歩みを止める。
「…優真。もう良いんだよ。もう十分」
白いワンピースに似た涼しげなドレスを着た少女が、彼の行く手を阻んでいた。少女は、小枝の様に細い手で優真の頬に触れる。
「でも、一緒にいるって約束したよ」
「うん。その約束は、私が代わるから。ね?」
宥める様に少女は笑うが、優真は不服そうに言った。
「でも、いっぱい殺しちゃったよ」
「うん」
「みんなを傷付けちゃった」
「うん」
「だから…」
「皆にちゃんと謝らなきゃ。それをするのは、それが出来るのは君しかいないよ」
一呼吸置いて、少女は昔の失敗談を思い出したかの様に苦々しく笑った。
「私には、もう出来ないことだから。
でもね、君が私にこの約束を果たさせてくれれば、私はね、皆に謝れるんだ」
「うん」
「ちゃんと謝ったら、後は君の好きにすれば良い。君の人生なんだから」
「…うん」
少女は再度微笑む。見た目に似合わぬ大人びた笑みだった。
優真はくるりと向きを変えて、雪の元へ歩み寄る。
ただ一度だけ振り返って。
「さようなら」
それだけを言って、優真は雪の元へ辿り着いた。
その言葉が、少女に向けたものなのか、あの大衆に向けたものなのか、それともそのどちらもか。雪には分からなかった。
「帰ろう、優真君」
「……………。うん」
そして。
「ごめんね、雪ちゃん」
砂嵐が辺りの景色を壊していく。世界が壊れる。崩れていく。彼等と二人を隔つ横断歩道は崖と化した。
足元が崩れて、奈落の底へ落ちていく。しかし、恐怖はない。
「ありがとう」
唐突に優真はそう言った。雪は驚いて彼の顔を見るが、底から沸き上がる光が眩しくて、彼がどんな表情で言ったのか判別出来なかった。
―やがて、白い光に包まれる。
朝日の様だと雪は思った。
****
「それは、田中の夢の世界なんじゃないかって陽一郎さんは言ってたな」
病室のベッドの上、雪は岸部にあの時行った不思議な世界のことを話し、岸辺はそれを陽一郎に話したらしく、そんな回答を述べた。優真の精神が作り上げた、夢の世界。
確かにそうなのかもしれないし、もしかしたら違うのかもしれない。
あの公園は、きっとそうなのだろう。しかし、あの意味深い交差点を思い出す度に、何だかそれでは納得がいかないのだ。
小さく溜め息をついて、雪は窓の外を見る。
―あれから、一週間が経った。
陽一郎は、ラグドの重要人物として騎士団に身柄を拘束されている。岸辺と猫モドキによってそのまま城に運ばれたカインは、応急処置を施されてから病院へ移された。
ちょうど、雪の隣の部屋である。
時折、アンナが見舞いに来て説教を言う声が壁際から聞こえて来る度、思わず雪は顔を綻ばせてしまう。
今日も、壁際からはアンナの説教が聞こえて来る。
「アンナさんも、復興作業でストレス溜まってんだろうな…。あぁ、そういや、後で魔王様達が来るって言ってたぞ」
その時、病室のドアが開き三人が入ってきた。
「噂をすれば影ってやつか…。まさにその通りだな」
「おや、お取り込み中でしたか?それは失礼しました」
ノーイの冷やかしに、岸辺は顔を赤くして否定する。そして無理矢理話題を変えた。
「ち、ちげーよっ!…で、田中との面会は叶ったか?」
「残念ながら、無理でしたね。まだ意識不明で、熱も下がっていないらしくて。どちらにせよ、あの頭の固い参謀が首を縦に振らなければ面会は叶いそうにありませんね」
溜め息を吐きながら言うノーイに、岸辺は残念そうにそうか…、と呟く。
「馬鹿は風ひかねぇと言うが、田中でもひくんだな」
『砂漠での戦闘で、神経を一時的に遮断させていたからな。その分が返ってきたというわけだ。
そう言えば、陽一郎殿との面会は叶ったぞ。軟禁生活でストレスが溜まっている様だから、猫モドキを預けて来た』
吉田魔王様の発言に、思い出した様にノワールは手を叩く。
絹のカーテンを退け、病室の窓を開けると、元から設置してある背丈の低い物棚の上に見舞いの品である色とりどりの小さなフルーツが乗せられたバスケットを置いた。
「あぁ、そうですわ。雪さんに見舞いの品を持って参りましたの。…と言っても、フルーツバスケットですけど…」
「私、果物大好きよ。ありがとね、ノワール」
えぇ、とノワールは花の様な可愛らしい笑みを浮かべた。
『いつ、退院予定なんだ?』
「二日後には退院する予定なの。私は唯の過労みたいだから。
そう言えば、ラグドの騎士さん達は?陽一郎と同じ様な目に?」
「いや、ラグドを亡命するつもりらしく、騎士団の元で陽一郎さんよりはマシな生活を送ってるよ。
姉さんの方は毒で右手と両足が動かないらしいから、車椅子で生活してる。と言っても、自分で出来ることは自分でしてるし、車椅子の方も手足みたいに乗り熟してるぜ。
あぁ、今は二人とも炊き出しのボランティアをしてるんだ。それが一段落したら、城で食堂を営むつもりらしい」
「リプテン皇子は?」
その問いには、ノーイが答えた。
「キーナと残りの国民達共に、もう一度、一から国を立て直すつもりらしいですよ。その資金が貯まるまで、暫くはミケガサキに滞在するようです。
しかし、あの『国宝』…。突然光ったと思いきや、消えてしまうとは。一体、何だったんでしょうね?」
「『依り代』だったんじゃないかって、陽一郎さんが言ってたぜ。そういう風にあらかじめ陣が組み込まれて、あの時発動した可能性も無くはないらしい。
…結局、あの後明真さんも消えたし、ダグラス隊長は斧無くして凹むしなぁ。
隊長があの様子じゃ…、トーズさんだっけ?あの人も怪我してんのに大変だ」
そう言いながら、ちらりと岸辺が吉田魔王様を見たのを雪は見逃さなかった。
岸辺に尋ねようとした時、ガラリとドアが開く。
意外にも、訪れたのは深い青みがかった夜色の髪の持ち主、ゼリア参謀長だった。こほんっと、態とらしく咳をする。
「…申し訳ありません。我々はそろそろおいとましましょう。長々とすみませんでしたね?」
「んじゃ、また来るわ」
岸辺とノーイ達はそう言って、そそくさと退散して行った。
ゼリアはそれを横目で見届けると、視線を雪に戻す。
「勇者様、二日後に退院だそうですね。喜ばしい限りです」
「まさか、ゼリア参謀長がお越しになるとは夢にも思いませんでした。お忙しいところ、わざわざ来て下さってありがとうございます」
雪が頭を下げると、ゼリアは不敵な笑みを浮かべた。
「いえ、正直なところ来るつもりはなかったのですが、物はついでということで…。
―ご気分は如何でしょうか?」
「………………。」
雪は何も言わなかった。ゼリアは、態とらしく困った様な表情を浮かべて笑う。
「一週間後、城で式典が開かれますゆえ、ぜひ勇者様にもお越し願おうとこうして馳せ参じたのでございます」
「式典、ですか?」
目を見開いて驚く雪に、ゼリアは嘲笑混じりの表情を浮かべた。
「えぇ。此処だけの話…。まだ国民には伏せてあるので、他言無用でお願いしますよ。
式典の目的は二つ。女神亡き今、実は私が王権を握る事になりましてね」
「…では、その為に?」
それも勿論ありますが、とゼリアは勿体振る様に一呼吸置いた。そっと雪の耳元で囁く。
―新しい勇者様が現れたのです。
それだけ言うと、ゼリアは去って行った。その言葉が延々と頭の中に木霊する。
「どうしよう…」
そのままギュッ…と布団を握り閉めた。
―あれから、一週間。
彼女の、『勇者』の力は今だ失われたままだった。
そんな彼女を慰めるかの様に、心地好い風が吹き抜ける。しかし、彼女の目から滴り落ちる透明な涙を拭い去るには至らなかった。
一章では主人公が頑張っていたので、二章では他の皆様に頑張ってもらいましたよ!…結果、主人公が脇役並の出番になりましたが、後悔はしてません。
次から、新章に突入ということで、まだまだ性懲りもなく続けていく予定です。長くなりましたが、ここまでのご愛読ありがとうございました。




