第二十八話 空白の言葉
「此処にいらっしゃったんですわね、お父様」
ミケガサキ城地下室。
窓も明かりもない薄暗い部屋の中央で吉田魔王様はぼんやりと立っていた。
重い扉が耳障りな音を立て開く。入ってきたのは、ノワールとノーイだった。
用件は言うまでもない。
「お父様。今の状況、ご存知ですわよね?此処から離れるか、それとも残って食い止めるか。もし後者なら、優真様が是非助言が欲しいとおっしゃってましたわ」
「まぁ、あの馬鹿を気にすることはございません。貴方様が決めたことに、我々は従うのみです」
気を遣ったのか、ノーイはあくまで私の意見を尊重すると言う。
『…どちらもしない』
はい?とノーイは戸惑いの色を浮かべながら口を曲げ、気の抜けた返事を返す。
ノワールはただ、黙って私を見据えている。私の意見を待っているのだ。私はもう一度繰り返した。
『どちらもしない』
「それは何故ですの?」
『これは、私に対する裁きだ。私は此処に留まり、自らの罪を償う』
灰色の天井を眺めながら、淡々と言った。
明真の息子が私の前に現れたのも、今、マフィネスがこの方法で攻めて来たのも全て定められたことに違いない。此処で終わることが私の運命なのだ。
『お前達は私など気にせず行きなさい。他国なら問題ない。アレに気づき、既に立ち退き始めている』
自業自得の結果がこれだ。
『…正直に言えば、手の施し様がないんだ。しかし、優真はこの国を見捨てようとは思わないだろう?』
その答えに、ノワールは静かに微笑んだ。そして私の手を軽く握って言う。
「…つまり、お父様もまだ諦めてはいないと言うことですわね」
ならば、せめてもの償い。
「「行きましょう」」
二人が声を揃えて言う。
私は静かに頷くと、重い鉄大の扉を開いた。
『あぁ、行こう』
最後まで見届けよう。
****
魔力魂とか言う赤く禍々しいエネルギーの塊は、徐々にその速さを増し、確実にミケガサキ城目掛けて降って来ようとしていた。
その距離が縮まる程に空気がピリピリするというか、妙に息苦しくなっていく。酸素を奪われていると言うより、酸素を吸う事を体が拒絶している様だ。
皆は空を見上げたまま微動だにしない。田中は田中で先程から熱心に何かを地面に描いていた。
声を掛けようか迷っているうちに、田中は作業を終えたらしく溜め息を吐く。
「フレディ、あとどれくらい?」
「大体、五分くらいでしょうか…。徐々に加速している様ですから、早くて三分後ですね…」
「「さ、三分っ…!?」」
俺と金髪少年が同時に声を上げた。互い顔を見合わせる。
「さっ、三分って言ったらカップラーメンが一つ出来るぞ!?」
「最近のは五分掛かるから早く来た場合、二分オーバーだよね」
田中にしては冷静なツッコミを返された。屈辱だ。
「…いや、そんな事はどーでも良いんだよっ!もし、アレが落ちたら被害ってのはどれくらいなんだ?」
『恐らく、地形ごと消滅するだろうな』
階段を上ってやって来たのは、やはり魔王様だった。後からノワールやノーイさんが姿を現す。
『遅くなったな』
「早くても遅くても貴方の出番は無いのに…」
『……………。』
「フレディ、嘘吐かないの」
吉田魔王様に何の怨みがあるのかと田中はフレディをなだめる。魔王様は結構応えた様で、ノワールが励ましていた。
「吉田魔王様、ドッグタイミングだよ!」
「グッドタイミング、な。犬の頃合いじゃねぇんだぞ」
あはは、そうだったねぇと恥ずかしそうに頭を掻く田中に、魔王様が尋ねた。
『…何をすれば良い?』
田中はこくりと頷くと、もう一度手を叩いて皆に注意を呼びかけた。
「これから僕は、アレを止めに入る。此処は危ないから、出来れば皆は離れてほしい」
そう言って、先程自身が描いた足元の陣を爪先で軽く叩く。
「これは、その為のお守りみたいなもので、即席で作ったからちゃんと作用してくれるか分からない。だから、万が一の為にね」
「優真、まさかとは思うが危ないからお前達は指をくわえて事が収まるのを待てとでも言うのか?」
赤毛さんとアンナさんが一歩前に出る。二人とも怒気が溢れ出ていた。田中は頬を引き攣らせると両手を上げて降参のポーズをとると一歩後退る。
「まぁまぁ、落ち着いて。問題はこの後だから大丈夫だって…。
仮に僕がアレを抑える事が出来たとしよう。すると、さっきまで帰ろうとしていた二ヶ国は再度攻めて来るでしょ?フェラは皇子様が国に帰るよう命令すれば帰るだろうけど、ラグドは陽一郎さんがどう言おうともそうもいかないじゃない。マフィネスの残党だっているかもしれない、カイン達にはそこを何とかしてほしいね」
「それ、何とかなる問題か?」
「何とかする問題さ」
まぁ、最終手段として移動手発は陽一郎さんが整えてくれてるから問題ないでしょとあっさり田中は言ってみせた。
「…で、一番の問題が残ってるんだけど」
「まだ何か問題があるんですの?」
ノワールの問いに、田中は暫く間を開けて目をしばたかせた。
「…いや、何とかするから大丈夫。やっぱり何でもない。さて、解散っ!」
パキンッと田中は指を鳴らした。
俺達の足元に陣が形成されると共に、一人また一人と姿を消して行く。
「…お、おいっ!田中っ!」
「ん?」
田中の上には既に赤い球体が迫って来ている。
必死に指差すが、首を傾げるばかりで後ろを見ようともしないのだ。
「う・し・ろ!」
「…牛はモゥ!?」
あぁ、心底殴りたい。あそこの馬鹿と過去の自分を。マジで消滅してくれよ。頼む、百円払うから。
「影の王、後ろです…」
「あぁ、後ろね…って、アレ?思ったより近くない?百メール以内に入ってるんじゃないかな?」
あれまーと飽きれを通り越して感心する田中は、敬礼する様な手を額の前に持って来て目を細めた。
「しかし、影の王…」
「ん?」
唐突に、フレディは俺を指差し言う。
「あのご友人は何故移動されないのですかね…?」
「そんなの僕が聞きたいよ」
「見たところ、魔術回路が断たれていますね…。『商人』が魔術使用不可なのは聞いた事がありますが、此処まで影響のあるデメリットだとは知りませんでした…」
その言葉に田中の動きがぴたりと止まった。
「ちょっと待って。えっ、じゃあ、さっき描いた陣は…?」
「まだ無事です…」
「はぁ、良かった…。しかし、色んな意味で岸辺は邪魔だな。…ヴァルベル」
「はいは〜い」
田中の影から何かが出て来た。白に近い銀髪の、フレディと同じ蒼白の肌の女性だ。何やら奇抜な化粧をしているが、けして彼女の品を損なってはいない。
しかし、田中の影は一体どういう内臓になっているんだ。四次元空間にでもなっているのか?
驚くべきはこの先だった。
ヴァルベルの手先が急に黒ずんだかと思うと、次には身体が溶けていく。いや、黒い光…蝙蝠の大群となったのだ。
逃げる間もなく、蝙蝠の大群に包まれる。
田中め、ドサクサに紛れて俺を亡き者にする気か!?
そんな疑惑が頭を掠める。
蝙蝠達の隙間から、先程いた城の屋上が見えた。どんどん遠ざかって行く。
どうやら、落下しているらしい。浮遊感を感じないのは蝙蝠達、もといヴァルベルの好意なんだろうか。
「おいっ、田中は!?」
空が。空が出血している。それくらい、気味の悪い程に赤い。
羽の隙間から魔力魂が見えた。城にぶつかるかそうでないかの際どいところだ。その境には恐らく田中がいるのだろう。何をどうやってせき止めているのか知らないが、赤い球体はそれより先に進めない様だ。
赤い球体は中で何かが蠢いていた。視力には自信があるから間違い無い。
「うっ…」
それを見た瞬間、俺は酷く後悔する。胃から込み上げてくる吐き気を何とか飲み込んだ。
馬鹿ねぇ〜と呆れた様に蝙蝠の群れが鼻で笑った。
ムンクの様な顔が、あの中で蠢いていた。みっしりとぎゅうぎゅうに詰まりながら。どれも悲痛な表情で痛々しい程の声に鳴らない悲鳴を上げている。
首から上は普通に顔があり、そこから先は霧の様になっているのだが、問題は顔だ。
白い塗料でも塗られたかの様な肌に、悲鳴を上げ続けている真っ黒な口がある。目を潰されたのか、底無しの眼窩からは赤い血がダラダラと流れていた。それがあの肌を滴って、やがては霧散する。
その過程を何度も繰り返しながら、首はぎゅうぎゅうの空間の中で蠢き、叫ぶのだ。
「…何をするか知らないけど、主様、大丈夫かしらね〜?」
地上に降り立ったヴァルベルは直ぐさま人の姿に戻ると開口一番にそう言った。それも、意識的にではなく口から滑り落ちた正直な感想だった。
それ程危険な賭に田中は賭に挑んでいるのだ。
「田中は今何を?」
「あら、案外鈍いのね〜。まぁ仕方がないか。貴方、『商人』なんだもの〜。その様子じゃ、魔力の感知も出来ないみたいね?早く終わらせて、元の世界に還った方が身のためよ〜」
「今、俺が聞いてるのはそんな事じゃ…」
「聞かなきゃ分からない様な低俗はさっさと帰れって言ってんのよ」
俺の言葉を遮り、ヴァルベルは言い放つ。その瞳は怒りに燃えていた。射るような視線で俺を見る。
「良い?よく聞きなさいよ。アンタの心配してんじゃないの。アンタみたいなお荷物が居ると、主様も余計気を回さなくちゃいけないのよ。自分の身も守れない奴が、軽〜い気持ちで友を救うだの助けるだの御託を抜かしてんじゃないわよ。アンタはね、正義のミカタぶった唯の無力なガキ。
無欲なのは悪いことじゃないし、道徳だって勿論大事よ。それは力の劣りとは全く関係ない。
私はね、現実を見ろって言ってんのよ。そして、それが出来ないなら還れって言ってるの」
全て言い切ったヴァルベルはいつもの口調に戻って、分かる〜?とからかう様に俺の顔を覗き込む。そしてネイルケアされた美しい爪で俺の頬に触れた。
「…俺は、どうすれば良いんだよ」
その言葉にヴァルベルは艶やかに微笑み、口を開く。俺に何かを告げようとした時、轟音が轟いた。
世界が黒く変わる。
まるで白黒写真に入り込んだ様だ。漫画の様に時間が止まったかと思ったが、そうではないらしい。
「くそっ!次から次へと一体何なんだっ!?」
いきなり白くなった自分の体と、黒い地面や空を見て声を荒げた。それを気にする以前に、俺の存在など眼中に無いといった様子で、唖然としながらヴァルベルは呟く。
「ま、まさかとは思うけど…主様、」
その呟きはしっかりと俺の耳に届いた。
『食う』つもりじゃないでしょうね、と。
そして、その『まさか』は恐らく現実になった。
…恐らくと言うのは、俺がその『食う』ということについてよく分かっていないからだ。
田中の影が立体の様に膨れて伸びる。
それは幽体の癖に、見ていると鳥肌が立つ。あまり好感の持てない何かだった。それは巨大な人の形を取ると、その細い両手が球体を掴む。球体は悲鳴を上げるかの様に大きく震えた。
黒い奴の頭の部分が果実を喰らう様に噛り付く。ゆっくりと租借する様に、徐々に徐々にと胎内に取り込んで行く。
ゆっくりと、ゆっくりと。少しずつ、少しずつ。
潮の満ち干の様に、じれったく。
端から見れば、それは一つの芸術作品の様だった。
気味の悪い程に魅力的で美しい光景だった。
完全に魅入っている俺をヴァルベルが揺すり起こす。酷く真剣な表情だ。
先程までの気は何処へ行ったのか、まるで狐に摘まれた様な顔をして俺は彼女を見返す。
完全に呑まれていた。
それが一体どちらの作用によるものか分からないが、きっと同じ光景を目にしている人々は皆そうなのではないだろうか。
当事者は、田中はどうなのだろう。平気なのか。
「良い?よく聞きなさいよ」
放心状態の俺に、ヴァルベルの爪が肩に食い込んだ。その僅かな痛みで意識は覚醒する。
「…―――、 」
雑音が鼓膜を震わす。
ヴァルベルが何を言っているか分からない。
それはとても大切な事で、ちゃんと聞いておかなければならないことのはずなのに。
「ヴァルベル、お前、今何て…」
ヴァルベルは呆れと、悲しみの混じった曖昧な笑みを浮かべてもう一度俺の頬を撫でる。咎める風でもなくただ惜しむように、悲しみを孕んだ艶やかな声色で言った。
「別に、大した事じゃないわ。聞こえなかったのならそれはそれで良いんじゃない?」
嘘つけ。大事なことに決まってる。
モノクロで表されるヴァルベルの悲しげな表情が、鮮明に俺の脳裏に焼き付く。後悔が胸を抉った。
「さぁ、坊や。商人なら、今は商人のやるべきことをやりなさいな。良い?これは未来を賭けた戦いなのよ?当然、より多くの武器が必要になるわ」
いつの間にか、アンタから坊やに昇格している。
本日何度目かの諭しに半ばウンザリしながらも聞いていたが、今度ばかりは、はい、そうですかと聞き流せる内容では無かった。
「ちょ、ちょっと待てっ!武器を売るって俺が!?それ以前に何処で仕入れるんだよ!」
「そんなの、自分で考えなさいよ〜。面倒くさいわね〜。私は知らな〜い。
…あぁ、そう。それで、武器が手に入ったなら…」
ヴァルベルは一旦言葉を切って、これが貴方の生き残る術よ。上手くやりなさいねと忠告する。
「どの国の奴らにも分け隔てなく売り捌きなさい」
「はぁっ!?」
今日は簡単付を何度も言っている様な気がするな。
そんなどうでも良いことを何故だか思った。
「はぁ…。頭悪いわね、坊や。今、ヒイキなんて行為は自分の首を絞めている様なものよ?『商人』って言うのはね、唯一両立する事を許された職なの。『特需景気』って言葉知ってるかしら?主様が知ってるんだから、勿論知ってるわよねぇ〜?」
「えっと…、成金になれる可能性があるやつだよな?人生最大のビッグチャンスみたいな…。手が届く宝くじみたいな」
俺の答えに、ヴァルベルは軽蔑の目で俺を見た。そして呆れた様に俺を見る。
「成金って、今の年頃は言わないんじゃない〜?普通は金持ちとかよね〜。そういうちょっと難しい言葉は知ってるのね〜。まぁ、どうでも良いけど。
売り手にしてみれば、そうねぇ…。ざっくり言うとそんな感じよ。
一応、補足しておくけど、特需景気って言うのは、戦争とかが始まると著しく武器の需要というのは上がるものでしょ?需要が多いなら釣り合いが取れる様に供給の方も需要並になくちゃならないわよね。相手が喉から手が出る程欲しいものなんだから、当然、バカ売れするわけよ。つまり、そういうこと」
面倒くさいわね〜を不満を呟くヴァルベルだが、何だかんだで面倒を見てくれている。
しかし、だ。
「何だかんだで、還そうとしてないか?売り上げ次第というか、一攫千金の条件満たしてるじゃねぇか」
「此処に残りたいならそうならない様に頭を使えば良いじゃないの〜。
ほら、時間が無いの。善は急げよ」
ぽんっとヴァルベルが背中を押す。よろけながら俺は前に出た。
「『闇市』なら結構高性能な武器があるから、盗るなり何なりしてちゃんと手に入れるのよ〜」
「お前はどうすんの?」
「ついて行くしかないでしょ?全くもう…、面倒ったらありゃしないわ。それでも主様の頼みだもの〜。あぁ、貴方の影に居るから、何かあったら呼んでね〜?」
言いたい放題言うと、ヴァルベルは俺の影の中に消えた。
と言っても、一面黒いため影と地面の区別が俺には着かないのだが。
「なぁ」
走りながら先程の問いを繰り越す。
世界はまだ白かったり黒かった。剣を交える騎士達は善と悪を表す様に白黒に色付いている。例え一瞬にして滅んでしまう様な災厄が来ようと、世界の景色が変わろうと、侵略を止めるつもりはないらしい。
もし、田中がアレを止めていなかったらどうだっただろう。こいつらは戦うことを止めて本国に帰ったのだろうか?
…きっと、帰っていただろう。
自分に非が及ばなければ、それでいいに違いない。アレが止まるくらいの力を持った誰かがいるからきっと何とかしてくれる。
その程度だ。
もっと可笑しいのは、それを止めているのが、勇者でも英雄でもない、本来滅ぼす側の魔王なんだが。
「田中は大丈夫なのか?」
「…正直、分からないわ。大丈夫じゃないかもしれないけど、貴方達が無事なら多分大丈夫よ」
しみじみと影は言う。
上では、まだ捕食は続いていた。赤い球体は真っ黒な腕に抱かれて黒く染まっている。どうやら丸呑みにするつもりらしい。
此処からではあまりに距離があり過ぎて田中の姿は分からなかった。しかし、あの黒いのが無事なら田中も無事だろう。多分。
「気になってたんだが」
「なぁに?」
「あの黒い人型のは一体、何だ?」
間が空いた。
それでも辛抱強く待つ。
「主様よ」
ずっと走り続けていたが、少しずつ減速し、やがて止まる。
体力にも自信はある。まだ息が上がってもない。なのにこの動悸は何だ?
姿は見えないが、きっとヴァルベルはあの悲しげな表情を浮かべているだろう。
「私達の、主様よ」
「それは、どういう事だ?田中とは別なのか?」
二度目の沈黙。
今度は先程より短かった。
「どちらも、かしらね」
それ以上言う気は無いようで、また沈黙が訪れた。
「なぁ」
何となく寂しくなって呟いた。
「俺ら、皆で元の世界に還る事って出来ないのか?」
あら、ホームシック?と影はからかう。
だから、さっきも言ったでしょ。
「――『 』」
やっぱりそれは、聞こえなかった。




