第二十六話 紅蓮の獅子
緊迫した空気を表すかのように生暖かい夜風が吹き抜けた。目には見えない存在に直に肌を舐められている様な気味悪さだった。
ジトっとした夏の気温は、この上なくじれったく好きになれない。
やはり夏は嫌いだ。
「…アンナを離せ、今すぐに」
赤毛さんが怒気の篭った声に、俺の思考は遮断され、現実に引き戻される。
赤毛さんは、猫が威嚇するようにツンツンの髪型を逆立たせ、鋭い殺気をリーナに向けた。
リーナは冷やかに、そして悠然と微笑み、白銀に輝くナイフをアンナさんの首筋に突き付けた。
「一歩でも動いてご覧なさい。この美しいブロンドの髪は鮮血で紅く染まり、透き通る様な白い肌は蒼白になり、翡翠の瞳は輝きを失うことでしょう。
あぁ、何て勿体ない事を…」
口調とは裏腹に、リーナは恍惚とした表情を浮かべ、薄ら笑っている。
何だ、こいつは?
俺はその表情に悪寒を覚える。鳥肌が立って仕様がない。本能が拒絶していた。これが、生理的に無理というやつなんだろう。
どうやら、リーナに宿るこの人格はとてつもなく。
「…変態だ」
俺の言葉に、リーナは気を害した様に露骨に顔をしかめ、その場にいたリーナを除く全員が宇宙人でも見るかのような「空気読め」と言わんばかりの表情で俺を見た。
「実に不愉快です。失礼な輩が居たものですね。実に下品な表現だ。狂ってる、という表現が相応しくありませんか?」
「変態紳士め、狂ってる奴に失礼だ」
「貴方の様に野蛮な感性の方には、この甘美なる美しさは分かりません」
はぁ…とつまらなそうに、変態は溜め息を吐く。
どうでもいいことだが、甘美なる美しさって、日本語として成り立つのか?
腹痛が痛いとか、そう言った類に分類されるぜ。
あれか、大事な事は二度言うとかそういうことなのだろうか。
しかし、あんなに清楚でおしとやかなリーナに何故こんな人格が生まれたのか全くもって分からない。
「…で、魔王は何処です?」
「ん?あれ、田中は?」
今更ながらに、確かに田中の姿が見当たらない。
しかし、俺達より先に行ってて何故先に着いていないのか。相変わらず、田中の方向音痴には舌を巻く。
「なぁ、カインさん。田中は?」
「それが…、少し目を離した隙にいなくなったんだ。屋外までは、ほぼ一方通行だから大丈夫だろうと思ったんだが。一体何処に行ったんだろうな」
****
………………………。
……………………。
「…あれ?此処、何処?」
おかしいな、さっきまでカイン達と居たんだけど。
…見知らぬ部屋だった。でも、懐かしい部屋だった。城内の何処かの部屋なのかもしれないが、雰囲気が違う。
幾日も人が訪れていない様だ。宿泊施設の様に必要最低限の家具家電が置かれているが、使われた形跡が一つもなかった。生活感というものが全く感じられないのだ。そんな寂れた雰囲気を放つ部屋だからなのか、何と無く居心地が悪い。
疎外感というのだろうか、何と無く僕の部屋に似ていた。
「…よくやりましたね、優真」
白い天井から、優しい女神様の声が降って来る。
今日は珍しいことに茶化す気はないらしい。
「女神様、あの、この空間は?」
「貴方は宿泊施設も知らないのですか?」
相変わらず優しい口調。
だが、そこに含まれた小馬鹿にした態度を僕は見逃さなかった。茶化す気は無いようだが、馬鹿にする気は満々の様だ。
きっと満面の笑みで言ったに違いない。
でも女神様。それっぽいけど普通の部屋だよ、此処。宿泊宿泊に勉強
「あの、今馬鹿に…」
「無駄な前置きは終わりにしましょう。私には、貴方と無駄口を叩き、無駄な時間を無駄に浪費する暇はないのですから」
女神様は『無駄』という単語を強調し、ただの自己満足という本題に全く関与していない前置きを述べてから話を変えた。
「『国宝』を全て集め終わった様ですね」
「はぁ…」
集めたの僕じゃないけど、とにかく集まった様だ。
「集めたのは良いんですけど、これから何をすれば?」
「直に分かるでしょう」
憂う様な口調で女神様は言う。彼女の視線が僕を捕らえた気がした。
「もうすぐ、災厄がこの地に訪れるでしょう。一刻を争う事態…。しかし、まだそれに気付く者はいません」
「あの、『国宝』を用いて何とかしろって意味じゃないんですか?」
「『国宝』は補助でしかありません。率直に言ってしまえば、どう作用するかは私にも見当がつかないと言ったところでしょうか。
貴方も知っての通り、アレはセシリアなのですから。全て、貴方の行動と彼女の意思次第でしょう」
女神様は一拍置いてこう言った。
「貴方は魔王です。この国を救う義務はありません。だから、見捨てても構いませんよ」
「それは…、僕にこの国を救うなと?」
沈黙が部屋を包む。尚更居心地が悪くなった。
「意地悪な魔王ですね、貴方は」
「あまのじゃく、とは言われますね」
周りの空気が少し緩む。
「この世界の理…、貴方達からしてみればゲームのルールでしょうが、そう理不尽には出来てませんよ。
これが終われば、貴方は元の世界に還る事が出来るでしょう」
「…マジですか?」
「大マジです」
これから話すのは、少し突拍子もない話になってしまいますが…と苦笑しながら女神様は語った。
「もうすぐ、世界が終わるでしょう。
…本来、『魔王』プレイヤーの役目は終わらせる事ですから。どんな人畜無害な者でも、その役割を背負ってしまえば、そのプレイヤーを中心に歪みが生じ、終焉は始まるのです。
『勇者』はそれを阻止します。『魔王』はそれを阻みます。勝った方が還る事が出来、リスクの高い方が後の『特典』が豪華になるでしょう」
成程、根拠は分からないがそういうことなのだと解釈しておく。
一体、この女神様は何が言いたいのか。いまいち釈然としなかった。
「つまり、『魔王』プレイヤーの役割は…」
貴方も察していると思いますが…と女神様は答えを焦らす。
「皆殺すのです」
解答が発表された。何故か命令口調で。
意外に答えは素っ気なく、淡々としていて明瞭で、嫌なくらい分かりやすい。
「今回の事はそれだけ規模の災厄という訳ですね?」
女神様は答えなかった。僕の問い掛けなどなかったかの様に話を続ける。
まるで、最初からそうプログラムしてあった様に。
そう思うと、酷く悲しく、同様に虚しくなった。
「それ、悪の親玉が吐く台詞だよ。女神様が言うことじゃないんじゃない?」
「確かに、私は女神ですからこの世界を救う義務があります。
…それと同様に、公平なる存在なのですよ」
どちらのプレイヤーにも、その機会というのは必ずやって来るらしい。
…僕の場合、それが今だった。
「私はどちらでも構いません。私は私に出来るだけの事をするだけですから。
しかし、貴方はどちらかを選ばなくてはなりません。此処で生きるか、終わらせて新しい世界を創るか。
そのどちらかを」
「因みにそれ、前のプレイヤーさんにも話したんでしょう?どうだった?」
女神様は疲れた様に小さく笑った。そんな気がする。
「皆、そんな事は出来ないと言いましたよ。三番目を除いて。
そして彼は、世界を変えました」
「…とんだ勇者がいたものだ。変えちゃったのか。この世界は一度創り変えされたんだね」
「いいえ。確かに創られましたが、変わってはいません。貴方も訪れたでしょう?その世界に」
僕もその世界に訪れたことがあると言うのか。
「あっ、『みけがさき』?」
「えぇ。あれが三番目の魔王が創り上げた新しい世界なのです。そしてそれと同時に我が世界と向こうの世界は息を吹き返すのです。分かりやすく言えば、元の時間軸に『初期化』したと言えばいいのでしょうか。世界が死ぬ前の時間からまた始まるのです。
そして彼は新しい規則を講じました」
この世界で命を落とした者の魂は、彼が作り上げた世界に転送され望んだ生を送る。
「あの世界では個々の概念によって多少見え方が違うでしょうね。言わば具現した理想郷なのです」
「あぁ、そうか。だから僕は…。何と言うか、嫌な世界だね。
…というか、女神様」
天井を見上げてぽつりと呟く。
向こうも僕の発言を待ってる様だ。
「かえっていい?」
「何処に?」
間髪入れずに返って来た。やや焦燥気味の、上擦った声だ。
「勿論、皆のところに」
かえって良いかともう一度問う。返事はなかった。
だから構わず続ける。
「あの、女神様。僕、結構此処が好きみたい」
沈黙が続く。
「だから、帰るね。女神様のいるミケガサキに…」
「…死語」
「ん?」
部屋の空気が振動する。
「そう何度も帰る帰る連発するなっつーの!
帰れ、帰れ、帰れぇぇぇ!勝手に帰れ、そして死ねっ」
無に帰れだの、星に帰れだの女神にあるまじき茶苦茶な言語を吐き出すと満足したのか黙った。
啜り泣きの様に小さく空気が震える。
「還れっていうのも僕にとっては死語なんだけど。もう還る場所が何処にも無くなるんだ。例え世界が創れても、所詮は偽物じゃない」
ドアノブを捻る。
「あ、女神様」
気になっていたことを聞いてみる。これ次第で事は随分変わるものだ。
「女神って『召喚』出来る?」
困った時の神頼み。
随分短な神様がいるから、この世界ならそれも可能ということで、出来れば使いたい。それが無理なら、せめて呼びたい。
貴方くらいの魔力なら召喚可能でしょうが…と女神様は言葉を濁した。
「貴方にだけは喚ばれたくありませんね」
「ですよね。アレですか、大気が汚染された場所は呼吸が出来ないとか肌が荒れるんですか」
「そんなか弱い生物だったなら良かったんでしょうけど。基本、外には出ない主義なんです」
「俗にいう、引きこもりという奴ですか」
女神がそんなんで良いのか全く。
「私、夢見る乙女なものですから。筋金入りの箱入り娘なのです」
「窒息して死ねば良いと思います」
「今すぐ屋上という天国に送還してやろうか、迷える子羊」
何と無くやり兼ねない雰囲気だったので、そそくさと部屋を後にする。
着いた先が何処かの階段だったからマジで焦った。
****
「おぉっと…。ははっ、参ったな、こりゃ」
召喚した当の本人は、困った様に笑いながら自らが喚び出した生物達の中に埋もれていた。
召喚されたのは、攻撃を躊躇う様な可愛らしい生物達である。
「それで、俺が攻撃を躊躇うとでも思ったか、陽一郎」
「いや、そんなつもりは無かったんだけど。
何せ、数十年ぶりの召喚だったから加減が分からなくてね?僕の願望がまるまる反映されてしまったよ」
悪びれなく陽一郎は言う。
「何と、愛玩動物達に囲まれるのが夢だったのか。陽一郎め、貴様と言えど、人知れずそんな野望を秘めていたとは知らんかった」
「愛玩動物ってねぇ。癒し系と言ってくれないか?
君に秘密を一つでも寄越してみろ、明日にはミケガサキ中に広まってるだろうから嫌なんだ。
ダグラスは今でも国内会議には呼ばれないんだろう?物凄く口軽いから」
陽一郎はそう言って私の方を見た。
確かに、ダグラス隊長は何時も年に一度開かれる国家重要機密会議にだけは呼ばれたことがない。
まさか、その様な事情故のことだとは夢にも思わなかった。
「がははは!何を言っている。守秘義務はちゃんと果たしているぞ?トーズに変な事を吹き込むんじゃない」
「何を言っているはこっちの台詞だよ。君が安易に重要機密情報を漏らすものだから、上層部は大混乱さ。懲戒処分受けたの、忘れたかい?
良いね、単細胞の脳みそは都合よく出来てて」
これは全て唯の会話だが、お互い視線一つ動かしていない。
双方、相手の様子を伺う為の時間稼ぎの様なものなのだろう。
先に動いたのはダグラス隊長だった。
ダグラス隊長は巨大な斧を片手で構え、田中陽一郎に突進する。その様はまるで獅子の様だ。
向かって来るダグラス隊長に対し、彼はやれやれと溜め息を吐くと手元にいた謎の生物を躊躇いなく掴む。プキャッ…と間抜けな音が鳴り、空気の抜けたゴムボールの様に凹んだ生物を田中陽一郎はダグラス隊長に投げ付けた。
「ぬぅっ!」
漆黒の斧が向かって来た生物を一刀両断した時だ。
花火の様な爆発音が轟く。
「ば、爆弾ッ!?」
「僕の召喚するものって、必ず爆発系なんだよね」
何でだろう?と首を傾げているが、視線は煙の一点に絞られている。
「生温いわッ」
煙から紅蓮の獅子が飛び出して来た。その獅子の後ろに並ぶ大砲が同時に火を噴く。
流石の田中陽一郎も、これには血相を変えて生物達の山からはい出る。
しかし、やはり元の体勢が祟った様だ。
はい出た直後、紅蓮の獅子が獰猛なその牙を用いて彼の喉笛に食らい付く。
おびただしい量の鮮血が、獅子の身体を赤く染め上げた。
くぐもった声が上がる。
少し、ほんの少し遅れて大砲から放たれた魔弾がその身体を穿ち、貫く。
そして、先程より派手で一際大きな煙と轟音が上がったのだった。




