第十九話 光の先に待ち受けるもの
三嘉ヶ崎北部裏山。
「岸辺は、もう行った?」
「えぇ、行きましたよ…」
僕の声に応じてフレディが木の影から姿を現す。その視線が僕の足元へと移るやいなや、彼は驚嘆の息を漏らした。
「『魔獣』ですか…。もうそんなものが生み出せるようになったのですね…」
僕の足元にはサッカーボール程の大きさの二匹の黒い獣が丸まっている。
体毛は針のように尖り、漆で塗られたように黒光りしていた。目は毛に覆われて見えないが、もしかするとないのかもしれない。
獣の割にはもふもふのかけらもない。致命的だ。それどころか、触ると粘っこい体液が付くので二度と素手で触りたくないというのが本音である。
―湖に投げたものの、残念ながら地面に転がった石ころは突然獣へと転じた。岸辺には見えていないようだったし、時間を空けて試しにもう一度投げるとまた獣になったのだから流石に焦る。しばらく観察していたが敵意はないらしく、微動だにしなかった。
「これがあの『魔獣』か。しかし、何で今になって生み出せるようになったんだろう?」
「『魔獣』はある一定の条件が満たされた時のみ自然発生する場合と魔王によって作られる場合の二通りがあります…。いえ、それしかないと言った方がいいでしょうか…。まぁとにかく、魔獣は読んで字の如く魔の獣。魔の王、すなわち魔王である貴方は魔を支配し統べる立場にあるのですから、我々としては何の不思議もありません…。寧ろ、何故今までそれが不可能であったかの方が疑問ですね…。
しかし、今の状態から察するに貴方は魔眼の片方を失っている訳ですから、今まで魔眼に供給していた魔力が行き場を失い、貴方が触れた物に流れることによって発散、そして物に流れた過多の魔力は許容量を超え歪みを生じ、結果、魔獣に転じたというところでしょうか…」
「つまり、魔力を制御しきれてない訳か」
「そういうことになりますね…。同じ眷属ならこちらに害することはないでしょう…。因みに、生命体ではないので餌は必要ありませんよ…」
知恵の悪魔とその眷属である彼等死霊は、いわゆる思念体―言わば幽霊のような実体なき存在であるが故に『器』が無ければ物に触れるどころか人に認識されることすらままならない。中には魔力を仮初めの器とし、実体化する奴もいるのだそうだが、それも時間が限られる。
対して魔獣は思念体でもなければ生命体でもなく、ロボットのようなものらしい。…魔王により生み出された魔獣の場合は、だが。
その魔獣には脳や心臓がないから生命も知恵もない。ただ主の命令に従うだけの存在なのだ。
知恵もない彼等がどのように命令を理解し行動しているのか疑問だったが、フレディ曰く、彼等独自の知恵がないというだけで、主である僕の意思や知恵を共有しているから問題ないとのことである。
「召喚した訳じゃないから送還は不可能か」
「生みの親は貴方ですし、彼等にとって主の命令は絶対のもの…。存在を否定すれば簡単に消えてくれますよ…」
「それは嫌だ。可哀相じゃないか。故意でないとはいえ、勝手に生み出しておきながら都合が悪いから消すなんて自分勝手にも程がある」
「ご自身の二の舞は御免ですか…」
「フレディ」
語気を強めて窘めると、フレディは肩を竦めながら彼にしてはやけに素直にすみません…と謝った。
「で、これからどうするのですか…?」
「即刻向こうの世界に行きたいのは山々だけど、岸辺に釘刺されたからなぁ…。長い付き合いだと、色々見透かされて困るね」
「分かりやす過ぎるんですよ、貴方は…」
「エスケープしたってバレるかな?」
「そんなのは彼女に確認すればすぐでしょうよ…。どれだけ嫌なんですか…」
フレディは呆れ返りながら嘆息を吐き、こめかみを押さえる。
「―吉田さんは良い人だ。例え見知らぬ他人でも悪さをしたら必ず怒る。野良猫には絶対餌をあげない。野生のカンが鈍るし、繁殖されると魚屋が赤字になるから」
「何ですか、いきなり…」
「善人なんだよ。だから悪人が嫌い。犯罪者になる前に芽は潰す。なのに雪ちゃんが僕を好きになった。予想外だっただろうね。もう少しで死ぬはずの僕にまさか自分の娘が恋をするなんて。
設定を狂わしてまで僕の相手…勇者を自分の娘にしたのは、雪ちゃんの手でその恋に幕を引いた方が気持ちの整理がつくという優しさ、みたいな感じなのかな」
尚且つ、それで岸辺が雪ちゃんを慰めて恋に発展すれば万々歳だっただろう。
まぁ、そんな漫画チックな展開を吉田さんが期待していたかは疑問だが、とにかく強制的に目移りさせたかったのは間違いない。
「逆に言えば、貴方が本当に彼女を愛しているなら、好きな人に引導を渡させてやるからとっとと死ねという風にも取れますね…。
それで、お人よしの影の王はその善人の気持ちを汲んで、いや或いは親友の恋路の邪魔になるのを嫌って潔く身を引くと…?」
「成程、それだと聞こえが良いね。けどそんな殊勝な理由じゃない。
まぁ、それはそうと僕が言いたいのは雪ちゃんのことじゃなくて吉田さんのことだよ。あの人は善人だ。だから、あの人が…」
言いかけて、不意に視界にちらついた赤色に視線を移す。
品を損なわない程度の鮮やかな赤の着物に、艶やかな朱の口紅が陶器のような白い肌によく映えている。
吉田雪との距離。僅か十メートル。何故、今まで気付かなかったのか。恐るべし雪ちゃんのストーカースキル。
「忍者かよ…」
どうやらフレディも全く気付かなかったようで、ぼそりと呟く。
「フレディ」
「はいはい…。席を外しますからご心配なく…」
そう言って彼は二、三歩下がると魔獣を引き連れて影の中へと消えてしまう。別に彼女にフレディの姿は見えないのだから会話が耳に入らない距離まで離れて貰えれば十分だったのだが。
「優君の家が燃えてるって連絡が入ったから、まさかと思って行ってみたら燃えてて。でも優君の姿が見当たらなかったから急いで探しに…」
「おおっと聞き捨てならないことを聞いたな。てっきり『呼び戻しに行った岸辺君も中々戻って来ないから、来ちゃった』的な感じを想像していたんだけど。
現在進行形で家が燃えてるらしい状況の僕が言うのもなんだけど、着物でこんな所来て大丈夫?吉田さん、怒るんじゃない?」
「大丈夫、まだ放心状態だから。着物が汚れてなければセーフ。あと、岸辺君が優君との逢瀬をチクらなければ無敵だよ!」
それは色々な意味で大丈夫じゃないと思うのだが。
そんな僕の心など露知らず、ぐっとガッツポーズを決めながら雪ちゃんは熱弁していた。
「逢瀬って…。僕等は別に恋人同士でもないし、僕はフッたはずだけど?」
「じゃあ、あらびき?」
ラブorミンチ。迫り来る究極の二択。
「…逢い引きの間違いであってほしいよ」
「そうそう、逢い引き!ランラン・ブー」
即死の呪文か何かか?区切る必要性は?ブーがランランしてるのか?…それ以前にふざけているのかと疑う余地もないほどに素晴らしい天然ボケっぷりである。まさかボケの僕がツッコミに回らざるおえないほどの破壊力があったとは知らなかった。
一分ほど経過した頃、ようやく荒ぶる心の水面が沈静した状態に戻ったので、ようやく僕は解答を口にすることが出来た。
「ランデブー、ね」
「…私、何て言ってた?」
あえてもう一度羞恥の上塗りにかかるという勇気、まさに勇者。
「雪ちゃんの尊厳を損なわせないためにも、口が裂けても言えないな」
「つ、ついでに忘れてもらえると助かるかな…」
「ガッテン」
羞恥で顔が真っ赤になった雪ちゃんを慰めるべきかかなり迷って結局、何もしなかった。
「お父さんは、優真君のこと嫌いみたい。理由は知らないけど、多分、犯罪者の子供だから」
何も言わなかった。言うまでもなかったから。
「岸辺君のことは好きみたい。正しいから。…私はそんなお父さんが嫌い。優君はお父さんが善人だって言ってたけど、私はそうは思わないよ。この人は正しいとか、悪いとか、そういうのは差別。本当にいい人は差別なんかしない」
血反吐を吐かんばかりに憎々しげに雪ちゃんは肩を抱きながら湖を睨む。
その様を隣でぼんやりと見ながら、同様に視線を湖へと移した。
「…僕は、雪ちゃんのこと嫌いじゃないよ。恋に恋するって訳じゃないけど、そこから先は望まない。僕の幸せはそこにないから。
僕の幸せは、雪ちゃんと岸辺が幸せになってくれること。二人の気持ちを踏みにじるようだけど、それで充分なんだ。だから…」
ごめん、と言いかけて口をつぐむ。それでは本当に雪ちゃんの気持ちを踏みにじってしまう。
雪ちゃんは無言で抱き着いてくる。それをぎこちなく抱きしめた。
雪ちゃんが吉田さんのことを善人じゃないと言い張るように、僕もまたお人よしなどではない。自分勝手で、他人の気持ちを何の躊躇いもなく無下にする最低最悪の奴だ。
何が二人の幸せが自分の幸せだ。幸せになってほしい人を自分勝手な理由で不幸にしているのは僕自身なのに。
「優君は、これからどうするの?」
「…ちょっと世界を救いに行ってくる」
おどけたように肩を竦めて笑ってみせると、雪ちゃんも少しだけ微笑んでくれた。僕はゆっくりと雪ちゃんから距離を取る。
「僕を好きでいてくれてありがとう。…そして、さようなら」
僕は、貴女を。
「愛しています。永遠に」
****
影の世界は不気味なほど静まり返っていた。先程の魔獣や死霊の姿はおろか気配さえ感じない。そして何処か窮屈に感じる。
堕ちるほどにその念は増していくばかりだ。まるでパイプの中を進んでいるようである。
「おかしいですね…。先程までは何の変わりも起きていなかったのですが…。そう言えば、さっき何を言おうとしていたのですか…?ほら、吉田雪が現れる前…」
あぁ、と返事をしつつ思いを巡らし、ようやく何を言おうとしていたのか思い出す。
「―…あの人が、第二の神崎氏になるかもしれない」
その言葉にフレディはやや狼狽したような素振りを見せながらも相槌を打つ。
「それは…。私は彼のことをよく知らないので有り得ないとは言い切れませんね…」
「吉田さんであれ、ゼリーさんであれ、先手を打たれる前にケリをつけたかったんだけど…ごめん、一足遅かった」
目の前に小さな光が見える。まるで此処がトンネルだと錯覚させるような出口を示唆する僅かな明かりだ。此処は影の世界。光など存在しない。
「我々の世界はリンクシステムの対象にはなっていないはずなんですがね…。
別に何が目的で、何処の誰だろうとどうでもいいことですが、此処を私の許可なく土足で踏み荒らすとはいい度胸をしている…」
静かな怒気を漲らせながらフレディは鎌を構える。
この光の先に一体何が待ち受けているかなど皆目見当もつかないが、確実にミケガサキではないだろう。改変した意味がない。単なる嫌がらせなら別だが。
そんなことを思いながら光のその先へと導かれるままに進む。
その先に待ち受けていたものは―。
三嘉ヶ崎とミケガサキを足して二で割ったような不可思議な世界。
アスファルトの道路、電信柱、車庫にはワゴン車が止まっている。空には有り得ない大きさの鳥が炎を吐きながら飛び交い、建ち並ぶ家々にすっかり溶け込んだテンマデトドクミミナガウサギがひなたぼっこをしていた。
そして何より驚くべきは―。
「………ぇ?」
「おや…」
「やぁ、僕。フレディ。待ってたよ」
勇者の剣を携えたもう一人の田中優真の存在だった。