第二十六話 争いの血路
「ぅん……?」
静かに降り注ぐ雨。その滴が頬に当たり、岸辺太郎はうっすらと目を開ける。天を仰げば、鉛の様な灰色の重々しい雲と銀の糸の様な雨が視界に広がる。視線を下げると自分の膝頭が映った。相変わらず毛布に包まり、うずくまった姿勢のまま。新品の迷彩柄の戦闘服には汚れ一つ無い。
「……夢、だったのか……?」
一人茫然とそう呟き、立ち上がると伸びる。パキポキと骨が小気味よく鳴った。溜め息と共に頭を振る。あんな夢を見たせいか、なかなか疲労感が拭えず、執拗に纏わり付いて離れない。
――戦争が始まって、此処も戦地と化す時が遠からず来る。そこから負けるのではないかという潜在意識が夢に表れた結果だろう。
「ったく、シャレになんねー夢見てんじゃねぇよ。いくらなんでも全滅とか、有り得ねーだろ……」
ボリボリと頭を掻き、毛布を畳むと邪魔にならないよう、隅に置いておく。軽く準備運動をして体をならし、早撃ち練習としてホルダーから拳銃を抜き、構える動作を繰り返す。
事情が事情なだけに、戦闘訓練など満足にさせてもらえないまま戦闘に借り出されたのだから、僅かな時間の間でも必要最低限のことはやっておくべきだ。
一通り繰り返したあと、雨粒と汗を拭い、狙撃用のライフル銃を抱えた。
「おー、早いな。……もう一人は?」
ギィィィ……と錆び付いたドアが悲鳴を上げながら開いた。若干の驚きと感心の入り混じった声でナギ・ソーシングが岸辺に声を掛ける。
ぽたり。
「いや、見てないっす……よ……」
ぽたり。
後ろを振り向き、岸辺は硬直する。悲鳴が喉の手前まで出かかった。すぐ後ろにいたはずのナギはいつの間にかドアの手前に突っ立ている。二の腕は力無く垂れ下がり、俯いたまま。その様に岸辺は思わず固まり、後ずさる。
「せ、せんぱ……」
ぽたり。
ナギの戦闘服が徐々に深紅に染まり、弾痕が刻まれていく。すっかり真っ赤に染まった服からは吸収しきれなかった血が滴り落ち、雨と一緒に地に落ちる。不意にナギが顔を上げた。死人の様に真っ青な顔である。そのままゆっくりと岸辺の方へ歩いてきた。浮かべられた笑みは徐々に曇り、やがては無表情になる。紫に変色した唇からは呪詛の様な呟きが漏れた。雨音に掻き消えそうなその呟きは、不思議と岸辺の耳に一字一句漏れることなく届いた。
「なぁ、岸辺……。味方を撃つなんて酷いじゃないか……。俺はまだ、生きていたのに……」
「ちがっ……。お、俺は……。こ、殺す気なんて、無かった……」
ガシャンっと抱えていた銃が落ちる。
雨に打たれる寒さより、精神的な悪寒で全身が粟立ち、唇がわなわなと震える。膝は今にも崩れてしまいそうだ。
「魔力を使えば、あんなドア、手を使わずとも開けられるんだよ。俺はラグドの兵に脅され、あんな真似をしただけで……」
撃つなんて酷いじゃないか、とナギは繰り返した。
「俺には妻や息子……、家族が俺の帰りを待っていたのにっ……! なぁ、何で撃った?何で撃った!? 俺らは味方じゃなかったのか? お前の疑心暗鬼のせいで、何で俺がお前に殺されなきゃいけないんだ? 何でお前が、お前だけが生き残っている……? 理不尽だろ、皆死んだってのに……」
「お、俺は…、おれは…」
震える声で自分の両手を見た。
――この手は確かに引き金を絞り、ナギ先輩を撃った。確かに、魔力を使えば簡単にドアは開く。そもそも、あれは完全に疑心暗鬼に陥った俺が見せた幻かもしれない。そうじゃなくたって、陽動目的なら、魔力で先輩を操り、隙を生ませることは容易いだろう。ましてや、俺のように最初からチキッているような奴は先輩の不自然な動作に完全な恐慌状態に陥り、発砲する…。
そうして先輩を殺させ、完全に無防備になった俺を、一悶着ある内に忍び寄ったラグドの兵が殺す。
つまり、俺のやったことは…。
完全なる同士討ち…。
「そんな…。俺は、どうしたら…」
「―死ぬんだよ」
背筋が凍る様な声が背後から聞こえ、振り向く間もなく、剣が足に突き刺さる。体勢を崩し、そのまま水溜まりに突っ込んだ。服に水とナギの血が染み込む。血だらけのナギと、名も知らぬラグドの兵が冷やかに岸辺を見下す。さらに、そんな彼の周りを青白い顔をしたミケガサキ兵が取り囲んだ。
―何で、お前が。何でお前だけが生きているんだ…。酷い。酷いじゃないか。
「ち、違うんだ…。俺、おれは…。うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
…………………………………………………………。
「うっさいわねぇぇぇぇっ!!!」
叫ぶと共に藻掻く様に身を起こす。すると拳撃が顔面に飛来した。鈍い音と痛みが顔面を襲う。
「っ〜〜〜〜!!いってぇなっ!」
「耳元でわんわん煩いからでしょう?悪夢にうなされる人間の寝顔って、中々見れないもの〜」
「やっぱ、夢だったのか。はぁ…」
「あら。悪趣味だーとか何とかツッコミを入れると思ったけど。そんな余裕もないほどの悪夢だったのね〜」
思わず脱力する俺に、ヴァルベルは物珍しげに目をしばたかせた。
「酷い汗なの…、大丈夫?」
唯一心配してくれたのは、アリスという治癒専門とかいう堕天使の少女である。ポケットからレースのハンカチを取り出すと、俺の額に浮かんだ汗を優しく拭っていく。
年下の少女にこうも甲斐甲斐しく世話をされると、無条件に妹の早苗の面影を重ねてしまう。一度そう思うと何となく照れ臭くなり、頬を掻いているとヴァルベルと目が合った。
「坊や、ロリコンな上にシスコンなのね。顔面がゲシュタルト崩壊してるわよ。具体的に言うと、好みの幼女を見付けた変態の顔」
「んな訳ねーだろ!」
溜め息を一つ。雨は相変わらず降り続いたまま。血の臭いも、服にこびりついた血潮も全てそのままだ。
痛いほどの現実が波となって押し寄せてくる。
「…本当に、皆死んじまったのか?」
手の甲で顔を覆う。涙で震える声が雨音と相まって、とてつもなく情けない。
「えぇ。何を責任を感じてるか知らないけどね、弱けりゃ死ぬのよ。そればかりは自分の責任ね。
第三区で無駄に騒ぎを起こして、戦力を割くほどあいつらも馬鹿じゃないわよ。戦闘狂だけど、ちゃんと頭は使うわ。
そこを見限った坊や達に過失がある。全滅も然るべき結果ね」
「だったら、俺は…」
「坊やは運が良かった。ただそれだけ。坊やはラグドの侵入に気付いた。それだけで既に明暗を分ける結果に繋がったの。私だってこれでも助けるつもりだったわよ、坊やを含めて。開き直るつもりはないけど、これが現実ってものね。第二区の戦闘員が坊やを除いて全滅したのも、ナギ・ソーシングが死んだのも、坊やのせいじゃないわ。ちなみに、彼は窒息死だったから、坊やが撃った時には既に死んでたわよ」
さりげなく、気を遣ってくれているのだろうか。ホッとすると同時に感謝の念が込み上げてくる。
礼を述べようと口を開きかけた時、ヴァルベルはそれを見越したかの様なタイミングで話を切り出した。
酷く真面目なその表情に、ごくりと唾を飲む。
「…さて、感傷に浸っている暇はないの。坊やに選択肢を与えてあげるわ。ズバリ行くか、行かないか。行けば、これよりもっと残酷な地獄を見る。正直、安全は保証出来ない。行かないなら、私は坊やに絶対の安全を保証出来る」
「…ざけんなよ。行くに決まってんだろ。役には立たねぇけど、一人安全圏で皆の帰りを待つほど女々しくねーよ」
ヴァルベルは小さく微笑みながら、そう、と素っ気なさを装う。そしてふと思い出した様に、悲しそうな笑みを浮かべる。
「お願いだから、短気を起こさないでちょ〜だいよ」
「何だよ、それ…」
坊やは正義感が強いから、ちょっと心配なのよとヴァルベルは釘を刺した。
「ヴァル…、行くなら早く…」
彼女の服の裾を引っ張りながら懇願するアリスに小さく頷き返すと、ヴァルベルは指を鳴らす。
パキンッ…と甲高い音と共に、視界は暗転した。
****
目を開けると、まず最初に映ったのは、
「あー…、眩しいぜ。後光が差してやがる」
光輝く太陽だった。
否。
ハゲ頭だった。
半裸の、ケンタウルスの姿の男が何故かフレディ達三人の側に立っている。
「おや、ようやく来ましたか…。無能に加え、出ぐずとは良いご身分ですね…」「ちょっとぉ〜、それ、私達も入ってる?」
「まさか…。ご自分でそうお思いになるとは、無能でぐずな自覚がおありなんですか…?」
きゅっ、きゅっ…とそのハゲ頭をタオルの様なもので磨いていたフレディが俺達の存在に気付き、開口一番にそう皮肉る。
その隣では、ノワールとノーイが気まずそうに立っていた。
「お前、何、敵を懐柔してんだよっ!危険だぞ!」
「おや…。別に懐柔はしていませんよ」
「というか…。あの、その…岸辺様、違うんですの。その人は…」
歯切れ悪くノワールは伏せ目になりながらドレスの裾を掴む。その言葉を遮って、俺はハゲを指差した。
「つか、そこのハゲっ!モブのくせに、何、序盤から居ましたみたいなレギュラーの雰囲気醸し出してるんだよ!モブのくせに!」
『いや、こっちの台詞だぞ、それは。中盤から出て来て今も大した役に立ってないというのに、レギュラー気取りか』
ムッとしたようにハゲが腕を組みながら、俺の前に立ちはだかる。
バチバチと火花を散らす俺達に、まぁまぁとノーイさんが宥めに掛かった。ノワールはそんな俺等をやはり気まずそうに見て、口を開く。
「その…、お二人とも。お止めになって下さいな。その、ビジュアル的に、お父様の単なる八つ当たりですから、岸辺様もお気になさらないで下さい」
「えっ…、お父様ってことは…。まさか、魔王様なのか?」
「ははっ…。長毛と無毛による醜い争いでしたね…」
「誰のせいよ、誰の」
乾いた笑い声をあげるフレディをヴァルベルが小突いた。
「というか、アンタ、主様の手伝いしなくて良いの?そのために召集掛けたんでしょ?」
「やれやれ…。現状を見てから言ってくださいよ、ヴァルベル様…。加勢が必要に見えますか…?」
そう言って、フレディが少し体を逸らすと、そこには死屍累々の山々が広がっていた。
「うっ…!」
鼻をつく血の臭いに込み上げてくる吐き気を何とか飲み込む。
「流石、我等が主様ね」
「えぇ…。特訓の甲斐あって、『死』は克服出来た様です…」
「あのね、気持ちは分かるけど急かしちゃ駄目よ?また、昔の二の舞になるわ。主様の場合は特によ」
そんな光景を見つつも、ヴァルベル達は平然と訳の分からない話を進めていた。
「おい…」
「何ですか…?」
俺は積み重なる死体の山々を指差す。
「あれ、全部田中がやったのか?」
「全部ではありません、ラグドの兵だけです…。気にすることはありませんよ、まだ生きている方もいますし…。貴方達を召集したのは、単に彼等の治癒の方をアリスに頼みたかっただけです…。それ以外に特に用はありませんよ…」
やや面倒臭そうにフレディは淡々と答える。
その淡々とした様が癪に触った。唇を強く噛みながらその胸倉を掴み上げる。
「田中は…、戦争を止めたいって…。犠牲は出来る限り最小限に留めたいって言ってた。なのに何でこうなる!?ラグドを殺したら戦争が止まるならそれで良いのかよ!?」
「小心者が…。私にそれをぶつけられても困りますよ…。まさか、私がそれを唆したとでも言いたいんですか…?」
「どうにか出来ただろっ!」
不意に、胸倉を掴まれ、視界が反転した。灰色の空が視界に広がる。その端で髑髏の死神は冷ややかに俺を見下していた。そのまま容赦無く踏まれる。
「出来たらこんな惨状にはなってませんよ…。何もしていない、何も知らない奴が、口出ししないでいただきたい…。全く、これほど腹立たしいことはありません…」
「フレディ、怒っちゃ、駄目…。『器』、少し治しておいたから、もう大丈夫…」
苛立たしげに舌打ちするフレディに、くいくいとアリスは彼の服の裾を引っ張って宥めすかすと、フレディは溜め息を吐きながら足を退けた。
器を取りにフレディが行っている間、ノワールが弁解するように話し始める。
「…その、惨状の激化には私達にも非がありますの。私達は東裕也に斬られ、今の今まで操られ、優真様を手に掛けようとしていましたわ」
「ちょっ、ちょっと待て!おかしくないか?なら、何で俺は無事でいられるんだ?俺も東裕也に斬られてるんだぞ?」
ノワールは少し首を傾げたが、直ぐに原因に思い当たった様だ。すぐさま、口を開いた。
「岸辺様は、魔術が全く使えませんでしたわよね…。多分、魔力の有無に関わらず、魔力回路が完全に遮断されているんだと思いますわ。つまり、岸辺様は魔力を使えない代わり、如何なる魔力の影響も受けないんだと思いますの」
羨ましいですわ、とノワールは悲しそうに笑って話を続ける。
「私達だけではなく、ミケガサキに召喚された勇者、魔族などがそのような行為に走り、さらにラグドの介入により完全な泥沼と化しましたの。
それでも、不死である優真様に圧倒的な歩がありますから、私達の『殺す』という行為は全く無駄ですわ。それはラグドも既知の事実…。だから、彼等は優真様をターゲットとしかしない私達…主に勇者の皆様方を標的になさいました。
如何に彼等に特殊能力があろうと、所詮は唯の人間。戦闘訓練を受けていないに加え、防御などまるでしない相手をほふるのは簡単ですわ。
リンクシステムがまだ健在な以上、勇者を散らせる訳にはいかない…。そして完全なる支配下に置かれた彼等を安全な所へ行かせるのは難しいでしょう。
だから、優真様はわざと勇者に殺され、彼等を送還することで彼等の身の安全を…。そしてラグドと剣を交えましたの。
ラグドとは一応、片はつきましたが、まだこちらの支配が完全に解けた訳じゃありませんわ」
「じゃあ、まだ主様は誰かと戦ってるってわけ?」
ヴァルベルの問いに、ノワールはこくりと頷く。
「まだカイン様達三人と戦ってますわ」
沈黙が場を覆う。それを打ち破ったのは、甲高い断末魔だった。
「きゃぁぁぁーーーっ!」
パリンっと硝子の割れる様な音が響き、雪が俺達の目の前に吹っ飛んで来る。
慌てて抱き起こすと、雪は既に気絶しており、体の所々に擦り傷が見られた。
「…結界が割れたということは、戦闘に片がついたんでしょうか」
茫然と呟くノーイさんの視線の先には、地に横たわる赤髪と金髪の騎士の姿。
―そして、ただ一人戦場に君臨する『魔王』の姿だった。
長い黒髪が邪魔をして、その横顔から表情は窺えない。田中は、ただうなだれる様に首を垂れていた。
漆黒の外套は緋に染まり、陶器の様に白い肌には点々と血が跳ねている。その手に握られた剣もまた血を吸い、赤みを帯びていた。剣先から滴る滴は、雨と共に大地へと還っていく。
それは極めて異端な光景なのに何処かしっくりくる。その異様な雰囲気に誰も声を発する事が出来ない。
田中はしばらく俯いたままでいたが、ようやく顔を上げ、後方にそびえ立つ城を見た。
突風が吹き、髪を揺らす。そこからかいま見える憎悪に燃える瞳は真っ直ぐに城の頂上に居座る東裕也を捉えていた。
田中の憤怒の激情を乾いた音が頂上から降り注ぎ逆なでる。
「流石、田中先輩。戦争を止めるとかほざいておきながら、結局何一つ守れませんでしたね。敵を殺し、仲間を切り、殺される…。
見てください、この積み重なる屍の山を。全部、先輩のせいです。先輩が彼等を殺したんだ」
「それは違いますっ!」
「大体、お前がこんなこと言わなければ…」
乾いた音がして、口々にそう主張する俺等の横を何かが掠めて行った。頬に一筋、血が流れ落ちる。
見れば、東裕也が立つ塔の一番上の窓から、赤毛の少女が俺を射竦めていた。
窓からはライフルの銃口が突き出し、そこから煙が上がっていた。
一瞬で多数の的を射たというのだろうか。神速と言っても過言じゃないくらいの早業である。
「…黙ってて下さい。次何か言ったら、額に穴が開きますよ。これは僕等の問題なんです」
東裕也は冷ややかに俺らを一瞥すると、田中に向き直る。
田中も剣を構え直すと、足に力を入れ、大きく跳躍。軽々と城の屋根に飛び乗った。
「…今回の事の発端は僕にある。それを認めよう」
雨に晒されながら、ようやく田中が口を開く。
その声は酷く淡々としていて空虚だった。
「今更、許すと思ってるんですか?先輩」
コツコツと足音を響かせ、東裕也との距離を縮めながら田中は首を横に振る。
「そんな簡単に許されたなら、こんな事にはなってない」
「何だ、分かってるじゃないですか」
双方、視線を合わせながら血も凍る様な冷たい笑みを浮かべて微笑む。
先に動いたのは田中だった。まるで呼吸をするかのように自然に剣を構えると、加速。近距離にも関わらず弾丸のようなスピードで剣を振りかざす。
金属同士のぶつかる硬い音と共に、屋根を火花が駆けた。
「…だから、この落とし前は僕が片をつける。来い、裕也」
東裕也はやや面喰らった表情で田中の剣を受け凌いでいたが、その言葉を聞いた瞬間、田中の剣を弾き返し、一定の距離を取ると狂気と歓喜の入り混じった笑みを浮かべた。
「それじゃあ、遠慮無く。…優真お兄ちゃん」