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無能教師と呼ばれた俺は、見捨てられた問題児たちを卒業させる。だが彼らは全員、次代の化け物だった  作者: 井芹蒼


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第23話 うちの教室と呼ぶまで

比較演習の翌朝、旧校舎の扉の前で最初に聞こえたのは、後ろから近づく工具袋の音だった。


振り向くと、エリオが肩から提げた袋のほかに、細長い木板まで抱えて立っている。


その横で、扉にはまだ昨日の紙札が残っていた。


質問がある人。

 座りたい人。

 まだ信じ切れない人。


紙の端は少し湿気を吸って、朝の風でめくれている。

 その上、もっと古い紙が半分だけ覗いていた。


臨時隔離教室。


最初にここへ来た日から貼られていた紙だ。

 汚れて、端が黄ばんで、もう文字も少し薄い。

 でも、こういう嫌な紙ほど、なかなか剥がれない。  セレナが言った 助けを求めていい場所 が本当に形になったかは、こういう翌朝を見るのがいちばん早い。


「朝から何だ、それ。旧校舎で工作部でも始めるのか」


「え」


エリオは一瞬だけ固まって、それから木板を持ち直した。


「あ、あの、昨日の白札、壁に立てるなら」

「その、板があった方が、倒れにくいかなって」


言い訳みたいに早口だ。

 でも、わざわざ朝から持ってくる時点で、ただの思いつきじゃない。


木板は古い棚の横板らしい。

 角が少し欠けているが、表はまだ使えそうだった。


「それだけか」


訊くと、エリオは視線を泳がせた。


「……ついでに」

「扉の紙、もう、読みにくいので」


「読みにくいままだと、また誰かが 入っちゃだめな場所 だと思うので」


そこで言葉が切れる。

 こいつは最後まで言わない。

 でも、言いたいことは分かる。


俺は半分めくれた 臨時隔離教室 の紙を見る。


「中入れ」


「はい」


扉を開けると、教室の中はもう完全に昨日までのままではなかった。


窓際には赤札と白札、青札。

 セレナが作った休息用の布は、畳まれずにそのまま残っている。

 黒板の端には、ノアの書いた 観察席 / 止まる線 / 戻る場所 がまだ残っていた。

 消されていない。

 今日の予定より先に、昨日の正解が残されている。


それを見て、少しだけ気分が良くなった。


教卓へ書類を置いたところで、また扉が鳴る。


今度はリタとミオだった。

 リタは紙袋を両手で抱え、ミオは小さな丸椅子を二脚、腕に引っかけている。


「何だ、その荷物」


「返しに来た、じゃなくて」


リタが慌てて言い直す。


「置いていっても、いいかなって」

「昨日、足りなかったので」


紙袋の中身は紙コップと安い茶葉、雑巾、それに白チョークが何本か。

 ミオの持ってきた丸椅子は、どう見てもF組の予備倉庫から引っ張ってきたやつだった。


「勝手に持ってきたのか」


ヒナの声が窓際から飛んだ。

 いつの間にか来ていたらしい。


「ばれたら怒られるよ、それ」


「い、一応、補習室の古い方です」


リタが肩を縮める。

 ヒナは呆れたような顔をしたが、追い返しはしなかった。


「じゃあ壊れても文句言うなよ」


「壊す前提で言わないで」


セレナが小さく言いながら、紙袋の中を覗き込む。

 白チョークを見つけた途端、少しだけ嬉しそうな顔になった。


「黒板、昨日ほとんど使い切ってたので……助かります」


その言い方が、もう 借りる 側じゃなくなっている。


ノアが遅れて入ってきた。

 今日は紙束ではなく、昨夜描いたらしい図面束を抱えている。


「先生、昨日の沈下線、描き直した」

「あと、C組とE組の比較用」


「朝から本気だな」


「比較のあとが一番覚えてるから」


言いながら、彼は教卓の上の白チョークへ視線を止めた。


「増えてる」


「リタ」


「……ありがとう」


言い慣れていない声音だった。

 リタの方が驚いたみたいに目を丸くしている。


その時、扉の外で複数の足音が止まった。


ユノ。

 カイル。

 それに、アイラまでいる。


三人とも手ぶらじゃない。

 ユノは細い紐と木杭の束。

 カイルは背の低い箱。

 アイラは何枚かの厚紙と、ちゃんとした定規を持っていた。


「何だ、今日は寄り合いか」


俺が言うと、ユノが少しだけ口角を上げる。


「寄り合いです」

「昨日の続き」


「何の」


「戻る場所の」


ノアがその答えに反応して、黒板の 戻る場所 を一度だけ見た。

 何も言わない。

 でも、消さなかった理由はたぶんそれだ。


アイラが持ってきた厚紙を机へ置く。


「C組で使っている運用表の余りです」

「見取り図を貼るなら、紙だけより曲がりにくいので」


厚紙を机の端へ、他の紙と揃えて置く。

 置き場に迷いがない。


「カイル、それは」


「工具箱」


短く答える。

 蓋を開けると、釘、蝶番、短い紐、古い札留めまで入っていた。


「扉の札も、仮札も、曲がったままは嫌いだ」


「フェン先生が、昨日の札を固定するなら使えって」


あの人は、こういう時に余計な言葉を足さない。


「あと」


ユノが細い紐を机へ置いた。


「通路札、吊るした方が見やすいので」

「昨日みたいに人が増えるなら、床だけだと踏まれます」


ヒナがそこで、ふんと鼻を鳴らす。


「ほんと、みんな勝手」


「だめ?」


ユノが訊く。

 ヒナは少しだけ黙って、それから窓際の自分の席へ鞄を投げた。


「だめなら、入れてない」


その返しで、教室の空気が少しだけ緩んだ。



午前のうちに、旧校舎の教室は小さく形を変え始めた。


エリオは昨日の白札を立てるために木板へ溝を彫った。

 カイルが横で板を押さえる。

 リタとミオは雑巾で丸椅子を拭き、セレナは壁際の休息角へ布を掛け直した。

 ユノは細紐を窓枠から壁へ渡し、札が天井から下がる位置を測る。

 アイラはノアの図面を、誰が見ても分かるように線を整理していた。


ヒナは最初、ずっと文句だけ言っていた。


「そこ、邪魔」

「その高さじゃ低い」

「丸椅子ぐらついてる」

「釘、斜め」


口だけなら一番うるさい。

 だが、自分で気付いたぐらつきは自分で直す。

 斜めだと言った釘は自分で打ち直す。

 結局、今日いちばん大きな音を立てているのはこいつの金槌だった。


「ヒナさん」


ミオが少しおずおずと声をかける。


「その板、押さえた方がいいですか」


「指挟むからやめとけ」


「じゃあ、何したら」


ヒナは打ちかけの釘を一度止めて、教室の中を見回した。


「……あの紙、真っ直ぐ切って」


顎で指したのは、アイラが持ってきた厚紙だった。

 ミオはすぐ頷いて、定規と小刀を借りに走る。


「優しいですね」


セレナがぽつりと言う。


「誰が」


「ヒナさんが」


「帰れ」


即答だった。

 でも、セレナはちょっと笑っただけで本気では気にしていない。


ノアは教卓の上へ、昨日の演習の比較図を三枚並べていた。


ゼロ組。

 C組。

 E組。


それぞれの進行線、止まった位置、補助生の呼吸が乱れた場所まで書いてある。

 細かい。

 細かすぎて普通なら誰も読まない。


だが今日は違った。


「ここ」


アイラがC組側の図を指す。


「前列が詰まりかけたの、私の声より先に槍が出ていたからですか」


「うん」


ノアは即答した。


「でも、止まる声は間に合ってる」

「遅いっていうより、前に速い人がいた」


アイラは黙って、その線を見ている。


「じゃあ、次は」


「最初に 前に出る人が止まる条件 を共有した方がいい」


「C組で?」


「C組でも」

「ここでも」


その ここでも に、アイラの目が一瞬だけ上がった。


もう、この教室を仮置きの相談所だとは思っていない顔だった。


ユノも自分たちの図を覗き込む。


「E組、綺麗なんですけど……」


「綺麗なのはいい」


ノアが言う。


「でも、支えがユノに寄りすぎてる」

「ユノが崩れたら止まる」


「ひどい」


「事実」


そう言われて、ユノは少しだけ笑った。


「次は、カイルにも糸の見方、覚えてほしいです」


「覚える」


カイルが短く言う。

 それだけで十分だった。


教卓の周りでそんな会話が進んでいるのを、リタは少し離れた位置から見ていた。

 入っていけるほど強くはない。

 でも、遠すぎもしない。

 昨日までの彼女なら、その距離すら取れなかったはずだ。


「リタ」


呼ぶと、びくりと肩が揺れる。


「何だ、今の札」


彼女が胸の前で抱えていた厚紙へ視線を向ける。

 そこにはまだ鉛筆下書きだけで、文字が並んでいた。


先に座る人。

 道を聞きたい人。

 見学じゃなくて、練習したい人。


「増えてるな」


「……増えたので」


彼女は下を向いたまま言う。


「昨日のあと、F組の子が」

「見て終わりじゃなくて、次にどうしたらいいか聞きたいって」


「それで?」


「ここで、次を聞いていいのかなって」


その一言に、教室の何人かが反応した。

 大げさじゃない。

 でも、聞こえていた。


セレナがゆっくり頷く。


「いいです」


「ここ、次を聞きに来ていい場所にしたいです」


ノアは答えない。

 代わりに、リタの下書きを覗いて、小さく一つだけ指摘した。


「ここ、見学じゃなくて は要る」


「要る?」


「うん」

「違いが分かるから」


リタは何度か頷いて、文字を少しだけ濃くなぞった。



昼前、扉の外でわざとらしい咳払いがした。


学院の備品管理係だった。

 年配の男で、何でも帳面の都合で話す顔をしている。


「失礼」


失礼だと思っている声ではなかった。


「共用備品の確認に来ました」

「比較演習後、旧校舎側へ椅子、丸机、案内札などが一時的に流入していると聞きまして」


言い方だけなら丁寧だ。

 だが、目は教室の中を 余分なもの として数えている。


「で」


俺が訊く。


「何が言いたい」


「本来、ここは臨時隔離教室扱いです」

「過剰な備品の常設は認められません」


その言葉で、朝から半分めくれていた紙が頭に浮かんだ。


臨時。

 隔離。

 管理係の帳面では、その二つでまだ十分なんだろう。


「過剰って、どれ」


ヒナが打ち直した釘の上から顔を上げる。

 声がもう喧嘩の温度だ。


「これ?」


足元の丸椅子を蹴って見せる。


「それも含めてです」


管理係が帳面を見た。


「丸椅子二、簡易札数枚、休息布、追加紙コップ、厚紙、工具」


「紙コップまで数えるんだ」


ユノが呆れたように言う。


「帳面上は」


「帳面上は、って便利ですね」


アイラの声が冷たく入る。

 管理係は少しだけ目を細めた。

 C組の制服を見ると、露骨に態度が変わる人間は多い。


「C組生が関与する件ではありません」


「ここに置いた厚紙は私が持ち込みました」

「C組の余りです」

「回収する理由があるなら、私の名前で聞いてください」


綺麗な返しだった。

 言い方まで整っている。

 だが、内容はきっちり庇っている。


ユノが続いた。


「紐も私物です」

「E組備品じゃないので」


「工具は西棟保守からの貸しです」


カイルが短く言う。


「フェン先生確認済み」


管理係の眉がわずかに寄る。

 数えやすいはずの 余分 が、少しずつ自分の帳面の外へ逃げていく。


「丸椅子は」


今度はリタが小さく手を挙げた。


「F組補習室の、古い方で」

「私が借りました」


「許可は」


「……口頭で」


そこは弱い。

 弱いが、その前にヒナが立った。


「じゃあ返す?」

「返して、また足りなくなったら誰が座るの」


「それは」


「見に来たやつ?」


「授業参加対象外の生徒を常時受け入れる前提は」


「来ます」


セレナが珍しく、相手の言葉を途中で切った。


教室が一瞬、静かになる。


彼女は少し青ざめていた。

 でも、目は逸らしていない。


「来ます」

「比較演習のあと、怖くなった人も、聞きたい人も、練習したい人も」

「ここに来ます」


「それは正規運用では」


「でも来る」


今度はもっと小さい声だった。

 それでも、管理係は言葉を失った。


ルールの説明より先に、もう実際に来ている。

 それが一番厄介だ。


「備品の正式継続可否は、今日中に上へ確認します」


男は咳払いをして帳面を閉じた。


「ひとまず、無断撤去はしません」

「ただし、扉の表記については現状維持を」


そこだけ妙に強かった。


現状維持。

 要するに、あの 臨時隔離教室 の紙のことだ。


管理係が去ったあと、しばらく誰も話さなかった。


やがてヒナが、扉の方を見たまま言う。


「感じ悪」


「感じ悪いで済んでるだけ、今日はまし」


俺が言うと、彼女は舌打ちした。


「あの紙」


ノアが扉を見たまま呟く。


「もう、実態に合ってない」


ユノが苦笑する。


「朝からそう思ってました」


「同意します」


アイラまで言う。


教室の中にいる人間が、誰も 臨時隔離教室 だと思っていない。

 それなのに扉だけがそう書いてある。


変なのは、そっちだ。



昼休みの終わり頃、フェンがふらりと現れた。


教室の変化を見て、一歩目で少しだけ眉を上げる。

 でも何も言わず、まず白札の立て板、吊るした通路札、壁際の布、増えた丸椅子を順に見た。


「……思ったより進んでるな」


「備品管理に嫌味は言われた」


俺が言うと、フェンは鼻で笑う。


「だろうな」


「で」


「今日のうちに、教室の継続運用確認が入る」

「正式決定はまだ先だが、少なくとも明日いきなり閉められることはない」


教室の空気が少しだけ緩む。

 完全な安心じゃない。

 でも、明日があると分かるだけで全然違う。


「あと」


フェンが工具箱の横へ小さな包みを置いた。


「西棟の廃材箱から拾った。好きに使え」


包みの中には、細い金具と、小さな金槌、それに削りやすい薄板が入っていた。

 扉の名札にちょうど良さそうな大きさだ。


「先生」


リタが控えめに訊く。


「これ、使っていいんですか」


「廃材だ」

「帳面に乗らない」


その一言で、ヒナが笑った。


「それ、今日いちばん好き」


フェンは肩をすくめるだけだったが、口元は少しだけ緩んでいた。


フェンが帰ったあと、エリオが朝の木板と今の薄板を見比べて、遠慮がちに言った。


「あの」


「何だ」


「扉の、紙」

「現状維持って言われたのは、分かるんですけど」


「うん」


「その、剥がしてはないので……」

「前に板を付けるだけなら、現状維持かなって」


一瞬、教室が静まる。

 そして次の瞬間、ヒナが吹き出した。


「最悪」


「褒めてる?」


「褒めてる」


ノアはもう定規を持っていた。


「作るなら幅これくらい」

「扉の蝶番に被らない方がいい」


「早い」


ユノが呆れる。


「朝から考えてた?」


「少し」


少しなわけがない。


セレナが薄板へ指先を置く。


「……何て書きますか」


誰もすぐには答えなかった。


今のこの教室に要るのは、たぶん一番単純なやつだ。


「ゼロ組」


最初に言ったのは、リタだった。


言ってから自分で驚いたみたいに、肩をすくめる。


「ご、ごめんなさい」


「何で謝る」


ヒナが言う。


「それでいいでしょ」


ノアが頷く。


「他にない」


セレナも、小さく頷いた。


「私も、それがいいです」


ユノが笑って、アイラも異論はなさそうに板を見ている。

 ここにいる人間の誰も、その名前を軽く扱っていない。


「じゃあ決まりだ」


俺が言うと、エリオは少しだけ目を見開いた。


「ほ、本当に」


「言い出したのお前だろ」


「ぼ、僕は板の話で」


「同じだ」



午後の終わりまでかけて、扉の名札は出来上がった。


板を切ったのはエリオ。

 寸法を見たのはノア。

 位置を決めたのはユノとアイラ。

 文字の下書きはリタ。

 縁取りの線を整えたのはセレナ。

 最後に釘を打ったのはヒナだった。


乾ききらない白い文字が、古い木の上で少しだけ浮いて見える。


ゼロ組。


派手じゃない。

 けれど、扉の上に掛かった瞬間、朝までそこにあった 臨時隔離教室 の紙が、急に古く見えた。


「曲がってない?」


ミオが少し下がって訊く。


「真っ直ぐ」


カイルが言う。


「一ミリだけ右高い」


ノアが言う。


「分かった。次に掛け直す時は、そこまで合わせる」


アイラがすぐに言って、それから少しだけ口元を緩めた。


「でも、今はそれでいい」


やり取りが妙に自然で、笑いそうになる。


扉の外では、また人の足が止まり始めていた。

 昨日より多い。

 でも、覗き込むだけの顔が少し減っている。

 名札を見て、それから中を見て、そこで足が止まる。

 昨日と順番が違う。


最初に入ってきたのは、昨日の比較演習で補助生だったサエだった。


「あ」


扉の名札を見上げて、少しだけ笑う。


「これなら、来やすいです」


セレナがその一言に、はっきりと安堵した顔をした。


「よかった」


次に来たのはC組の一年二人。

 その次に、E組の補助役志望。

 そのあとから、F組の補習線。

 アイラとユノはもう普通に中へ入って、昨日の比較図の続きを始めている。


リタが新しい紙札を扉の内側へ並べた。


質問がある人。

 練習したい人。

 少し座りたい人。


そして、一番下にもう一枚だけ増えていた。


うちの教室が気になる人。


「何これ」


ヒナが見つけて笑う。


「誰が書いた」


リタが目を逸らす。

 ミオも逸らす。

 セレナまで少しだけ逸らした。

 共犯だ。


「消す?」


俺が訊くと、ヒナはしばらく黙った。


扉の外には、まだ入りきらない人がいる。

 中ではノアが図を広げ、アイラが線を足し、ユノが糸で視線の高さを示している。

 セレナは紙コップへ湯を注ぎ、リタは席札を置き、エリオは壁の札が傾かないか見上げていた。


どこを見ても、もう最初の 掃きだめ じゃない。


「……別に」


ヒナがそっぽを向いたまま言う。


「間違ってないし」


その言い方を聞いたノアが、図面から顔も上げずに言った。


「ヒナ」

「丸椅子、もう一個」


「自分で運べ」


「窓際の席、ずらさないと入らない」


ヒナは露骨に嫌そうな顔をした。

 でも、立ち上がる。


「分かったよ」


丸椅子を持ち上げて、窓際の自分の位置を少しだけ奥へずらす。

 それは小さい動きだった。

 けれど、窓際のヒナの場所が、今ちゃんと動いた。


「そこ」


彼女がサエへ顎をしゃくる。


「先に座れ」

「立ったままだと邪魔」


「は、はい」


サエが慌てて座る。


リタがその様子を見て、少しだけ笑った。

 セレナも笑う。

 ユノは完全に見ている。

 アイラは見ないふりが下手だ。


「見るな」


ヒナがまた言う。

 でも今度は、教室の何人かが普通に笑った。


外ではまだ、面白くなさそうな声も残っていた。

 それでも扉のこっち側には、もう戻ってくる理由が並んでいる。


「先生」


リタが次の札を持って訊く。


「扉の外、まだ列あります」

「どう分けますか」


見ると、札には四つ書いてあった。


質問がある人。

 練習したい人。

 少し座りたい人。

 また来たい人。


喉が少しだけ緩む。


「そのままでいい」


そう答えると、ヒナが丸椅子をもう一つ動かしながら、何気ない顔でぼそっと言った。


「うちの教室、また椅子足りない」


誰もすぐには何も言わなかった。

 言う必要がなかった。


扉の列のいちばん後ろで、見慣れない事務服が新しい名札と古い紙を見比べてから、無言で去っていく。  うちの教室と呼ばれ始めた場所へ、次は帳面の側から手が伸びる。

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