第六話 蝉の声が止むころ
夏の終わりが近づくころ、教室の一角には、しばらく空席のままの机があった。
そこに視線が向くたび、胸の奥が、かすかにざわついた。
誰も口には出さなかったけれど、その空席には、形の見えない「罪」のようなものがまとわりついている気がしていた。
菜月の母が謝罪したと聞かされた、その週が明けた月曜日。
その机に、ようやく持ち主が戻ってきた。
菜月だった。
久しぶりに見た菜月の顔は、どこか前とは違って見えた。
うつむいているわけではない。
かといって、以前のように明るく笑っているわけでもない。
母に謝らせてしまったという自責の念を、胸の奥に封じ込めているかのような――
そんな、静かな強さみたいなものが、表情の端に宿っていた。
一皮むけた、という言葉が頭をよぎった。
けれどそれは成長というより、何かを無理やり飲み込まされた人の顔つきにも見えた。
凜子たちは、もう菜月に近寄ろうとしなかった。
「おはよう」と声をかけることもない。
視線が合えば、さりげなくそらす。
けれどその態度には、どこか妙な余裕があった。
菜月の母に謝らせたことで、自分たちが一段「上」にいる――
そんな、いびつな優越感のようなものに、彼女たちは包まれているように見えた。
満足したのだろう。
凜子たちの虚栄心やプライドは、あの出来事でそれなりに満たされてしまったのだと思う。
それからの菜月は、休むことなく登校を続けた。
朝になると当たり前のように席に着き、授業を受け、ノートをとり、チャイムが鳴れば立ち上がる。
必要なとき以外は、あまり余計なことを話さなくなった。
けれど、それでも教室から消えることはもうなかった。
菜月が久しぶりに登校したその日、最初に話しかけたのは、意外にも真帆だった。
「……久しぶり」
休み時間、筆箱を閉じながら、真帆がぽつりと言った。
菜月は一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑って、「うん」とだけ答えた。
それからというもの、休み時間になると、二人で話している姿をよく見るようになった。
教室の隅で並んで座っていることもあれば、廊下の窓際で、外を眺めながら言葉を交わしていることもあった。
いつの間にか、菜月の新しい友だちは真帆になっていた。
真帆は、以前、菜月から嫌味なことや意地悪なことを言われたことがある。
そのとき、真帆がどんな気持ちになったのか、私は少しだけ見てしまっていた。
だから、二人が並んでいるのを見るたびに、不思議な気持ちになった。
何があったのか、詳しいことは分からない。
けれど、きっと何かがあったのだろう。
菜月の中で、何かが変わったのだと思う。
あの夏を境に、彼女の心のどこかが、大きく向きを変えたことだけは、想像に難くなかった。
そんな二人の様子を、メルさんたちのグループは、静かに――けれど鋭く見ていた。
休み時間のたびに、教室の中央あたりから、彼女たちの視線がふとそちらへ向かう。
雑談をして笑っているようでいて、
誰が誰と一緒にいるのか、
どんな顔をしているのか、
しっかり観察しているようだった。
その目の鋭さが、どんな意味を持っていたのか。
今でも、ときどき考える。
あれはただの好奇心だったのか、それとも、このあと起こることの、静かな前ぶれだったのか――。
菜月と真帆がすっかり一緒にいるのが当たり前になったころ、教室には、表面的な平穏が戻っていた。
空席だった机は、もう空ではない。
埋まるべき場所には、ちゃんと人が座っている。
廊下にはいつも通りの足音が響き、チャイムが鳴れば、みんな一斉に立ち上がる。
何もかもが、元に戻ったように見えた。
けれど、あの夏の出来事が消えたわけではない。
母親に頭を下げさせたこと。
その場で、黙ってそれを見ていたこと。
誰も、止められなかったこと。
あのとき教室に漂っていた冷たい空気は、見えないまま、私たちのどこかに沈殿していた。
きっとそれは、この先、別の形で姿を変えながら、何度も私たちの前に現れてくるのだと思う。
リエさんの話が、その一つだった。
夏の終わり、校庭から聞こえていた蝉の声が、ふと弱くなった。
気づいたときには、あれほどうるさいと感じていた鳴き声が、もう耳に届かなくなっていた。
あの夏の終わり、蝉の声が止むころ――
私たちの教室には、まだ言葉にならないままの罪と、見て見ぬふりをした記憶だけが、静かに残っていた。




