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校舎の靴音【第二部】  作者: 翠川
第二章 夏の残響

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6/6

第六話 蝉の声が止むころ

 

 夏の終わりが近づくころ、教室の一角には、しばらく空席のままの机があった。

 そこに視線が向くたび、胸の奥が、かすかにざわついた。

 誰も口には出さなかったけれど、その空席には、形の見えない「罪」のようなものがまとわりついている気がしていた。


 菜月の母が謝罪したと聞かされた、その週が明けた月曜日。

 その机に、ようやく持ち主が戻ってきた。

 菜月だった。


 久しぶりに見た菜月の顔は、どこか前とは違って見えた。

 うつむいているわけではない。

 かといって、以前のように明るく笑っているわけでもない。

 母に謝らせてしまったという自責の念を、胸の奥に封じ込めているかのような――

 そんな、静かな強さみたいなものが、表情の端に宿っていた。

 一皮むけた、という言葉が頭をよぎった。

 けれどそれは成長というより、何かを無理やり飲み込まされた人の顔つきにも見えた。


 凜子たちは、もう菜月に近寄ろうとしなかった。

「おはよう」と声をかけることもない。

 視線が合えば、さりげなくそらす。


 けれどその態度には、どこか妙な余裕があった。

 菜月の母に謝らせたことで、自分たちが一段「上」にいる――

 そんな、いびつな優越感のようなものに、彼女たちは包まれているように見えた。

 満足したのだろう。

 凜子たちの虚栄心やプライドは、あの出来事でそれなりに満たされてしまったのだと思う。


 それからの菜月は、休むことなく登校を続けた。

 朝になると当たり前のように席に着き、授業を受け、ノートをとり、チャイムが鳴れば立ち上がる。

 必要なとき以外は、あまり余計なことを話さなくなった。

 けれど、それでも教室から消えることはもうなかった。


 菜月が久しぶりに登校したその日、最初に話しかけたのは、意外にも真帆だった。


「……久しぶり」


 休み時間、筆箱を閉じながら、真帆がぽつりと言った。

 菜月は一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑って、「うん」とだけ答えた。

 それからというもの、休み時間になると、二人で話している姿をよく見るようになった。

 教室の隅で並んで座っていることもあれば、廊下の窓際で、外を眺めながら言葉を交わしていることもあった。

 いつの間にか、菜月の新しい友だちは真帆になっていた。


 真帆は、以前、菜月から嫌味なことや意地悪なことを言われたことがある。

 そのとき、真帆がどんな気持ちになったのか、私は少しだけ見てしまっていた。

 だから、二人が並んでいるのを見るたびに、不思議な気持ちになった。


 何があったのか、詳しいことは分からない。

 けれど、きっと何かがあったのだろう。

 菜月の中で、何かが変わったのだと思う。

 あの夏を境に、彼女の心のどこかが、大きく向きを変えたことだけは、想像に難くなかった。


 そんな二人の様子を、メルさんたちのグループは、静かに――けれど鋭く見ていた。

 休み時間のたびに、教室の中央あたりから、彼女たちの視線がふとそちらへ向かう。

 雑談をして笑っているようでいて、

 誰が誰と一緒にいるのか、

 どんな顔をしているのか、

 しっかり観察しているようだった。


 その目の鋭さが、どんな意味を持っていたのか。

 今でも、ときどき考える。

 あれはただの好奇心だったのか、それとも、このあと起こることの、静かな前ぶれだったのか――。


 菜月と真帆がすっかり一緒にいるのが当たり前になったころ、教室には、表面的な平穏が戻っていた。

 空席だった机は、もう空ではない。

 埋まるべき場所には、ちゃんと人が座っている。

 廊下にはいつも通りの足音が響き、チャイムが鳴れば、みんな一斉に立ち上がる。

 何もかもが、元に戻ったように見えた。


 けれど、あの夏の出来事が消えたわけではない。

 母親に頭を下げさせたこと。

 その場で、黙ってそれを見ていたこと。

 誰も、止められなかったこと。


 あのとき教室に漂っていた冷たい空気は、見えないまま、私たちのどこかに沈殿していた。

 きっとそれは、この先、別の形で姿を変えながら、何度も私たちの前に現れてくるのだと思う。

 リエさんの話が、その一つだった。


 夏の終わり、校庭から聞こえていた蝉の声が、ふと弱くなった。

 気づいたときには、あれほどうるさいと感じていた鳴き声が、もう耳に届かなくなっていた。

 あの夏の終わり、蝉の声が止むころ――

 私たちの教室には、まだ言葉にならないままの罪と、見て見ぬふりをした記憶だけが、静かに残っていた。




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