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校舎の靴音【第二部】  作者: 翠川
第二章 夏の残響

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第五話 担任の憔悴

 

 菜月の家を訪ねた日の翌日、

 凜子たちはさっそく担任の青木先生に報告していた。


「ちゃんと行ってきました」

「菜月のお母さんに嫌なこと言われたんですけど」


 先生は、まだ二十代半ばの若い女性だった。

 担任を受け持つのは今回が初めてだと、最初の自己紹介で言っていた。

 そのせいか、どこか頼りなげで、凜子たちの勢いに押されることが多かった。


 凜子は、その日もいつになく早口だった。


「“大きいのだから”って言われたんです。なんか……嫌味な感じでした」


 由加と雅美が頷く。

 三人の表情には、妙な正義感のようなものが宿っていた。


「菜月のお母さんに、謝ってもらうべきじゃないですか?」


 青木先生は目を瞬かせた。

 困惑と戸惑いが混ざった表情のまま、しばらく黙り込んでしまう。

 何かを言おうと開いた口が閉じられる。

 それを二度、三度と繰り返したあと、凜子たちの勢いに押されるように小さくうなずいた。


「……わかりました。私から話してみます」


 絞り出すようなその声は、どこかかすれて聞こえた。


 その後、先生と菜月の母のあいだでどんなやり取りがあったのか、私たちは知らない。

 ただ、菜月の母が娘のために、きっと何かを飲み込んだのだろうということだけは想像できた。


 そして先生もまた、登校できない菜月にさらに負担をかけてしまったことに、申し訳なさを感じていたに違いない。


 ◇


 数日後の昼休み、教室の空気が妙にざわついていた。

 凜子と雅美が、机を囲んで声を上げていたのだ。


「やっぱり言ってよかったよね」

「大人にだって、ちゃんと謝らせるべきだよ」


 彼女たちは、どこか誇らしげだった。

 自分たちは間違っていない、と言い聞かせるように。


 由加は笑わなかった。

 机の上を見つめたまま、無言でペンを回していた。

 それでも、凜子たちに逆らうことはできなかった。

 同調しなければ、次に自分が何を言われるか分からない――

 そんな怯えが、教室全体に薄く漂っていた。


 ◇


 その日の放課後、再び菜月の家へ行くことになった。

 凜子、由加、雅美――そして、やはり私も。


「前にも一緒にいたんだから、今回も来なよ」

 凜子はそう言った。

 断る理由など、最初から許されていないような口ぶりだった。


 菜月の家の扉が開くと、前回と同じように菜月の母が現れた。

 その顔には、かすかな疲れが見えた。


 居間に通されると、冷たい麦茶が出された。

 けれど、誰も口をつけようとしなかった。


 凜子はすぐに切り出した。


「前に“大きいのだから”って言いましたよね。あれ、すごく嫌でした」

「とても傷つきました。ちゃんと謝って欲しいです」


 その口調には怒りと、自分でも抑えきれない苛立ちが混ざっていた。

 菜月の母は疲れたように小さく息をつき、頭を下げた。


「……傷つけるつもりはなかったの。ごめんなさいね」


 その声は静かで、どこか苦しげだった。

 きっと、娘の前で謝ることが、どれほどつらかったか。


 前回は姿を見せなかった菜月が、この日は部屋の奥から出てきていた。

 母が頭を下げる光景を、ただ黙って見つめていた。

 その表情に、感情の色はほとんどなかった。


 私はその場にいるのが、つらかった。

 もし私が菜月の立場なら――そう思うと、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。


 凜子と雅美は、満足げに頷き合っていた。

 自分たちは正しいことをしたのだと信じて。


 けれど、私にはその光景がどうしても正しいとは思えなかった。


 人を傷つけておいて、その痛みに気づかないまま誇らしげに笑う――

 それを「正義」と呼ぶのだとしたら、あまりにも残酷だと思った。


 それでも心のどこかで、私は思ってしまった。


 ――自分じゃなくてよかった、と。


 人間は、おそろしいほどに自分勝手だ。

 そのことを、あの日ほど強く感じたことはなかった。


 ◇


 後日、凜子たちは再び青木先生のもとへ行き、

 菜月の母から謝罪を受けたことを誇らしげに報告した。


 先生は机に手を置いたまま、しばらく黙っていた。

 やがて顔を上げて、静かに言った。


「そう……よかったわね。これでもう気持ちの整理はついたかしら」


 その静かな笑みは、笑顔には見えなかった。

 ひどく疲れた表情だった。


 その顔を、私はいまでもはっきりと覚えている。


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