第9話 王国を揺るがす書簡
血の色は、広間の白に容赦なく浮いた。
王妃は肩を押さえ、しかし膝をつかない。侍医が駆け寄り、包帯が白から紅へ、瞬く間に色を変えてゆく。
セリーナは床に手をついたまま、震える視線でその赤を見つめていた。喉の銀の輪が砕け、首筋に粉光が残っている。微笑の形は、もうどこにもなかった。
「王妃殿下に矢を向けるとは何者だ!」
殿下の怒号が天蓋に反響し、議員たちのざわめきが引く。
上段の回廊、陰に弓の影が揺れ――しかし射手は既にいない。矢を放った者は、波のように人の陰へと紛れた。
私は王妃の側へ膝をつき、包帯を押さえる侍医の手を支えた。
「動脈は外れてる。持ちます……殿下、王妃様は大丈夫。私たちは先へ進むべきです」
殿下が頷く。瞳の奥に、怒りと恐れと、それでも進む者の光。
そのときだ。広間の隅から、濡れた革袋を抱えた男が押し出されるように現れた。
港で私に合図を送った、粗衣の男――“渡し役”。彼は騎士二人に肩を掴まれながら、私を見つけると声を張った。
「届けろと言われた! “議会の火の前に”と!」
男は革袋を私の方へ放り、兵に押し伏せられる。袋は床で重く鳴り、口が開いて束ねた封書が転がった。
封蝋は鷹。黒い翼――“漆黒の鷹”。
私は一番上の封書を取り、殿下に差し出す。殿下は王の視線を真っ直ぐ受け止めたまま、封を切って広げた。
「『議会の諸卿へ。書簡を以て、神託の機構と増幅陣の図を提出する。王位継承の決を、“声”ではなく“目”で行われたい』――ハーラン隊長の筆跡だ」
ざわめきが戻る。
私は次の封を破り、羊皮紙を掲げた。
金のインクが光る。祈りの間、広間、玉座――三重の導管と節点。それらを束ねる調整輪。
そして端に小さく、供物と寄進の台帳が写されていた。
「“聖光の十字”が管理する寄進金の流れ。ここから神託装置の維持費が出ている。差出人は……“高司祭ヴァレン”の署名」
議席の列の一つで、肥えた男が顔色を変えた。
「笑止! 偽造だ!」
殿下は紙の裏を返し、金糸の透かしを見せる。
「偽造は難しい透刻だ。王城の文庫でしか使えない。“漆黒の鷹”は内部の記録庫から写しを持ち出していた」
彼は更に一枚を取り上げ、読み上げた。
「『装置の起動句は“祈り”ではない。恐れを起点にした同期だ。恐れを減衰させる“沈黙”は対抗位相となり得る』――学匠エレム・サイの覚書」
言葉の意味を完全に飲み込めない議員にも、絵は伝わる。
臓腑のような導管、輪、節点。
“神”の正体が、線と輪で出来た装置だという残酷さ。
「黙れ!」
上席で杖を鳴らしたのは、巡礼騎士団の長――灰髭の男だ。胸に白銀の十字、肩には黒羽の飾り。
「神託を汚す讒言だ。渡し役とやらを即刻処刑に――」
「騎士長アストラム」
私は遮った。声は高くせず、だが遠くまで届くように。
「あなたは左利きですね。主に短弓を使う。それも“灰鴉工房”の弓――弦に黒い松脂の匂いが残るから。上段の回廊に、その匂いが残っていたわ。
この矢羽も、灰鴉の刻印。王妃を狙ったのは、巡礼騎士団の誰か。命じたのは――あなたでしょう?」
空気が、薄く凍る。
騎士長の目に、刹那の細い影が走った。
「女の言葉遊びに、議会を惑わせるな」
「言葉だけではありません」
私は革袋の底から短い書き付けを抜き出し、掲げた。
「昨夜の“濡れた鷹亭”で押収された注文書。『携行型神託輪×十 受領人:巡礼騎士長アストラム』。印章は“聖光の十字”。あなた方が持ち込んだ武具は、神託装置の子機です」
議員の何人かが立ち上がり、口々に叫ぶ。「審議だ!」「王家に対する反逆!」
王の顔色が変わる。
セリーナがか細い声で囁いた。「やめて……やめて……」
彼女は耳を塞ぎ、母を探す子のように首を巡らせた。王妃は肩に包帯を巻かれながら、ひとつ頷く。
「セリーナ、私はここにいます」
殿下が進み出る。
「騎士長アストラム。武具の提出、弓の検分、矢羽の刻印の照合を命じる。従え」
騎士たちが一瞬ためらい、アストラムを見た。
“声”が弱まり、命令の重心がずれる――私にも、そのわずかな揺れが見えた。
アストラムは唇を歪め、広間の出口側へ身体を半歩引いた。
逃げる気配。
「止めて!」
私は床の銀線の交点を踏み、喉の底で沈黙を打つ。
増幅核が低く響き、足音が鈍る。
その隙に、殿下の近侍ルシアンが飛び込んだ。
彼は静かに、しかし迷いなくアストラムの腕を捻り上げ、弓を取り上げる。
弦には黒い松脂の光。握りは左。
膝をつかせ、矢筒を翻すと、銀の輪がついた矢が三本、床に転がった。
議場が一気に沸く。
王が立ち上がり、玉座の導管へ視線を落とした。
薄い金の管が、蛇のように肘掛けの下に伸び、床へ消えていく。
王妃が静かに言った。
「陛下。見てください。あなたの“声”の正体を」
王は一歩、二歩と玉座を離れた。
目が、少しだけ人間の色に戻る。
私は書簡の束から最後の一通を抜き取り、広間の中央に掲げた。
「『王位継承は“神託”ではなく“王国律”に基づいて行われるべし。第一王子の生存においては、臨時審問による告白と提出証拠の検分を要す』――これが、先王が制定した“継承慎重令”です。神託よりも古い、王の律です」
古い紙の端に刻まれた先王の印章が、光の角度で赤く生きた。
殿下が呼吸を整え、一段と低い声で言った。
「俺は生きている。
俺は神託ではなく、王国律に従う。
ここに証拠を出し、審問を求める。
――アストラムを拘束せよ。高司祭ヴァレンを議場に」
「無礼者が!」と叫んだのは、議席の端の年配の貴族だった。
だが彼の声は、もう波を起こさない。
恐れの膜が薄くなり、人々は互いの顔を見て、目の高さで声を交わし始めていた。
アストラムは拘束されながら、なお口を開く。
「神の秩序を守るためだ。王妃は“沈黙の誓印”を持つ。あれは国家転覆の秘術。先に潰すのが正し――」
「黙りなさい」
私は遮った。
「誓印は“最後の静寂”です。命を代価にした静けさに甘えるためではなく、誰かを守るためにある。
あなたの矢は、守るための矢ではなかった。恐れを増幅するための矢だった」
セリーナが、ゆっくりと立ち上がる。
膝が震え、目の奥に幼い影が宿る。
「……お母さま」
王妃は微笑む――痛みに滲む、けれど確かな微笑。
「ここにいるわ」
私は増幅核に視線を落とす。
導管の唸りはまだ消えきっていない。祈りの間、広間、玉座――三重のうち、広間は私の沈黙で弱まり、祈りの間は王妃の誓印で遅延がかかっている。
残るは、玉座直下の心臓部。
そこに、最後の硬い輪がある。
「殿下」
私は囁く。
「玉座の下へ。王国律に基づく“公開検分”を」
殿下は王を見た。
父と子の視線がぶつかり、長い歳月の影がその間で揺れた。
王が目を閉じ、ゆっくりと頷く。
「……やれ」
床板が外され、石の蓋が現れる。
巡礼騎士の一隊が蓋を持ち上げようとして、殿下が手で制した。
「騎士団ではなく、文官に。――“声”の手を離れた者に、触れさせる」
書記官たちが青ざめた顔で近づき、四隅の金具に棒を差す。
蓋がきしみ、地下の息が上がってきた。
そこにあったのは、銀の輪。
人の心臓のように、小さく一定に脈打つ輪。
“玉座核”。
私は指輪を握り、しかし砕かない。
ここで命に頼れば、私たちの物語は“贖い”で止まる。
私は、名で終わらせたい。
人の名で。
「オルフェ」
私は輪の上に身を屈め、静かに呼びかけた。
「私の名はアリシア。あなたの“審判”は、恐れを食べて生まれた。
もう眠りなさい。
ここは神の間ではない。人の間。
私たちは嘘と向き合い、名で呼び合って、生きる」
輪がひとつ鼓動を外し、次の瞬間、音が半拍遅れた。
ズレ。
そこへ私は沈黙を重ねる。
胸の奥で、母の声が揺れた。
――幻は、いつか目を閉じる。
殿下の涙の温度を思い出す。
王妃の呼び声を借りる。
セリーナの「母さま」を、そっと載せる。
輪が、静かに止まった。
広間の空気から、薄い膜が剥がれた。
人々の息がばらばらに戻り、誰かが初めてのように大きく息を吸った。
王が手すりから離れ、両足で床を確かめるように立つ。
王妃は、肩で息をしながらも、目に涙の光を宿した。
セリーナは柱に手を添え、子どものようにこちらを見た。
「……静か」
殿下が私を見て、息を吐くように笑った。
「やったな」
「まだです」
私は書簡の束を持ち上げ、議席の方へ向き直る。
「諸卿。これらは“神託”の仕組みと運用の記録です。
寄進の流れ、儀式の設計、装置の起動。
ここに“信仰”を支える“恐れの装置”があったと認めるなら、王国律に従って臨時審問を。
そして――巡礼騎士団の一部と高司祭ヴァレンの不法を糾問してください」
沈黙が、今度は人のためにあった。
長く、しかし恐れではない時間。
やがて最年長の議員が立ち、杖をついた。
「……臨時審問に賛成する者、起立」
椅子が擦れる音が波のように広がる。
半数を超え、さらに増え、やがてほとんどの椅子が空になった。
騎士長アストラムがなおも何かを叫びかけ――床に押し伏せられる。
上段の回廊で、黒衣の書記が走り、鐘が短く鳴った。
王は一歩、前へ出る。
彼の声は、装置なしで広間の隅々まで届いた。
「臨時審問を開く。
神託の名を騙る者を罰し、恐れの装置を封じる。
――そして、わたしは、息子に詫びる」
殿下が頭を垂れる。
王妃が目を閉じ、セリーナが震える。
私は指輪を胸に押し当て、ひとつ息を吐いた。
そのとき、広間の扉が音を立てて開いた。
黒衣の高司祭ヴァレンが、書記と衛兵に挟まれて、ゆっくりと歩いてくる。
白い手袋、痩せた指。
彼は一礼し、薄く笑った。
「やっと、私の番ですね」
殿下が一歩踏み出す。
「ヴァレン。お前が――」
「ええ、私が。ですが、誤解なきよう。私は“信仰”を守った。人々の恐れを、“形”にしてあげたのです」
高司祭は私を見、ほんの少し首を傾げた。
「あなたは厄介ですね、アリシア嬢。名で呼ぶ、とは。
……よろしい。では、名で呼びましょう。あなたが次に向き合うのは“罪”です」
ぞくりと背が冷える。
彼の視線は、私ではなく、殿下の背に落ちていた。
「第一王子殿下。あなたが“神託計画”の存続を求める署名に名を連ねていた、十五の頃の記録がある。王国律の“継承慎重令”を盾にするなら、ご自身の若き日の罪にも向き合っていただきたい」
殿下の肩が硬くなる。
広間が揺れる。
私は書簡の束を抱き直し、殿下の横へ一歩出た。
「向き合います。名を呼ぶ世界は、罪からも逃げない。
――ヴァレン。審問で会いましょう」
高司祭は、満足げに目を細めた。
「ええ。審問で」
鐘が二度、遠くで鳴る。
広間の天蓋に朝の光が溜まり、やがて押し出されるように落ちてきた。
神のふりをした声は止まり、人の声が戻り、にもかかわらず戦いは深まる。
恐れではなく、名で呼ぶために。




