第8話 再会と拒絶
王城大広間の天蓋は、まだ夜の色を少しだけ残していた。
高窓から差す朝の光が、議席の金縁を冷たく撫でる。
玉座の背後には王家の旗、その下に“聖光の十字”。
椅子が擦れる音、咳払い、衣の擦過音――すべてが小さな潮になって押し寄せ、中心の渦へ吸い込まれていく。
その渦の中心に、私はいた。
白布の祈祷衣の下で、指先が汗ばむ。
円環の床は、銀の細線で編まれた一枚の網のようで、私の足裏の体温すら拾ってどこかへ流してゆく。
祈りの間で見た増幅核と同じ構造。
ここは“声の舞台”だ。
扉が開く。
王が入る。
蒼い外套は重く、歩みは思ったより遅い。
その背後に王妃。
王妃は私と目を合わせ、かすかに頷いた。
時間は、買われた。
さらにもう一つ、別の扉が開く気配がした。
白衣の一団。
その先頭で、セリーナが立ち止まる。
彼女は私を認め、ふっと微笑した――舞台の幕を引く直前の役者のように。
「神は見ておられます。正しき継承、正しき誓いを」
声は柔らかく、遠くまで届く。
喉奥で銀の輪が回転する音は、ここからでもわずかに聞こえた。
微笑の角度、瞼の落とし方、指先の掲げ方――すべてが練られている。
人は“整っているもの”に安心し、安心したときに最も騙されやすい。
議員の一人が立ち上がり、巻物を読み上げた。
「――第一王子レオナルド殿下失踪のため、第二王子テオドール様を以て王位継承すべし。神託、かく定む」
ざわめき。
“神託”という言葉が、議場の空気を一段階低くする。
恐れが音階を下げ、思考に鈍い膜を張った。
そのとき、別の扉が開く音が響いた。
重く、しかしためらいのない足音。
私は、知っている音だった。
「――俺は、ここにいる」
低い声が、膜を破るように広間を渡った。
振り向いた議員たちの間に、黒い外套の青年がまっすぐ進む。
フードを払えば、誰もが知る顔。
整いすぎた王子の顔は、傷跡と疲れで少しだけ乱れている。
それが、かえって真実を濃くした。
「レオナルド殿下……!」
どよめきが波になり、次の瞬間には怒号が混じる。
「反逆だ」「なぜここに」「神託は偽りなのか」
王は立ち上がろうとして、椅子の肘を握りしめた。
その指の白さに、私は一瞬だけ目を奪われる。
――恐れているのは、王も同じだ。
セリーナの微笑が、わずかに深くなった。
「殿下。ご無事で何より。神は迷える者を導かれます」
その言葉と同時に、銀の輪が一段、速く回転する。
音が見える――微かな振動が議場の壁で反射し、天蓋から落ち、床で重なる。
呼吸がそろう。
恐れが増幅される。
私は一歩、前に出た。
王妃から授かった通行札が、祈祷補佐の立ち位置を許す。
セリーナの斜め前、増幅核の縁。
銀の細線の交点に、私の足が触れる。
世界の線が、わずかにずれる。
「セリーナ」
私は名を呼んだ。
彼女の視線が、ほんの一瞬だけ私に向く。
“名”の呼び声は、装置に届く。
喉の銀輪が、きい、と鳴って、刻印の一画がわずかに止まる。
彼女はすぐに微笑を整えた。
「アリシア。あなたは祈祷衣を纏いながら、祈らないのね」
「祈りと服は、別のものよ」
言葉を選ぶ。
ここで罵倒すれば、恐れの側に自分の声を渡すことになる。
私が届けるのは、恐れではない。
呼びかけだ。
「レオ」
私は殿下の名も呼んだ。
彼が振り向く。その目に、私の姿が確かに映る。
合図はそれだけでいい。
互いの呼吸が合う。
「王位継承の儀を執り行う」
王の声が、儀礼の始まりを告げる。
司祭が書板を掲げ、聖句を読み上げ――
その途中で、セリーナが静かに一歩を踏み出した。
喉の輪が光を帯び、「神は――」という言葉の前に、見えない波が走る。
恐れが膨らむ。
議員の一人が膝をつき、別の者が額を押さえる。
誰かが「神罰だ」と叫んだ。
言葉が恐れに形を与え、恐れが形を拡張する。
このままでは、殿下の声が届かない。
私は胸元の紐を握り直した。
白金の指輪――沈黙の誓印――が肌に冷たい。
使わない。
けれど、ここにある冷たさが、私の熱を冷やし、言葉を澄ませる。
「セリーナ」
もう一度、名を呼ぶ。
今度はその名に、母の声を重ねた。
“眠りなさい”ではなく、“おはよう”に近い、やわらかい響きで。
彼女の眉が、ほんの少しだけ動く。
喉の輪が一拍遅れる。
その遅れに、私は言葉を差し込む。
「オルフェ」
銀の輪が、わずかに軋む。
セリーナの瞳に怒りの影。
「その名を、軽々しく口にしないで」
声に硬さが混じった。
増幅核の縁が微かに鳴り、床の銀線が同時に揺れる。
私は体の中心を下げ、呼吸を深くする。
“真実を見る瞳”が、線の乱れを追い、合致点を探す。
殿下が前に出た。
「俺は生きている。俺は王位を放棄しない。神託は――」
セリーナの微笑が、そこで殿下の言葉を切った。
波が殿下へ集中する。
膝が少し折れかける。
私は即座に踏み込んだ。
「レオ、息を――」
殿下が短く息を吐く。
視線が私と合い、わずかに頷く。
その合図に重ねるように、私はセリーナに一歩近づいた。
増幅核の中心に向かって、声ではなく“沈黙”を押し出す。
(眠りなさい――まだ、言わない。
届く距離に来るまで、呼ぶだけ)
「セリーナ。あなたの名前は、誰がくれたの?」
広間に、少し違う波が広がる。
問いは恐れを増幅しない。
問いは、考えるための空白をつくる。
恐れの膜に、穴が空く。
彼女は答えない。
喉の輪が速度を上げる。
私は続ける。
「それは“神”ではない。母の声よ。
あなたの母は、今ここにいる」
王妃の肩が、僅かに揺れた。
セリーナの視線が王妃を掠め、すぐに戻る。
微笑が硬い。
「私は神の娘。名は与えられたものではなく、示されたもの」
「違うわ。あなたは“示された器”じゃない。生まれた娘」
私は床の線に合わせて一歩。
銀の交点が、喉の輪の刻印と一瞬だけ同調する。
――今。
「オルフェ。彼女の喉で眠りなさい」
言葉は囁きに近かった。
けれど、増幅核を介した沈黙の波は、喉の輪に届いた。
金属が低く悲鳴を上げる。
セリーナの首が、瞬きほど仰け反る。
議場の空気が、ふっと軽くなる――
その瞬間、床下で別の震えが走った。
反響。
別系統の“声”。
私は遅れて気づく。
王が握る肘掛けの下に、細い導管が通されている。
祈りの間から広間へ、広間から王の玉座へ――
“声”は二重化されていた。
セリーナが、私を見て笑う。
穏やかで、しかし侮蔑のない笑み。
「準備がいいのは、そちらだけではないわ、アリシア」
喉の輪が再起動し、床の銀線に別位相の波が重なる。
恐れが、戻る。
議員の一人が椅子を倒し、誰かが祈祷を叫ぶ。
殿下が拳を握る。
「陛下! やめてください!」
王の目が、苦しげに歪んだ。
「私は……正しさを……」
その声は、王のものか、装置のものか。
判別がつかない。
恐れは声を混ぜる。
私は一瞬だけ迷い、指輪を握りしめた。
――ダメ。まだ早い。
誓印を砕けば、王妃は倒れる。
彼女の命を代価にした静寂に、私は寄りかかりたくない。
「アリシア!」
殿下の呼び声が、膜の向こうから届く。
私は頷き、もう一度“名”を呼ぶ。
「セリーナ!」
彼女の足が、ほんの半歩だけ止まる。
微笑がゆるむ。
喉の輪の刻印が、一画、わずかに欠けた。
“名”は、鎖の継ぎ目に触れる。
私はそこへ、自分の“恐れ”ではなく、“願い”を流し込む。
(あなたを憎まない。
あなたの中の娘へ――届いて)
「あなたの母は、十五年前にあなたを“国の子”と呼んだ。
今、私は違う名で呼ぶ。
――セリーナ、娘」
王妃が小さく息を呑んだ。
議場のどこかで泣き声。
セリーナの瞳の奥に、わずかな揺らぎ。
喉の輪の音が半拍遅れる。
床の銀線が、その遅れを掬い上げる。
増幅核の中心で、静寂が広がる――
だが、次の瞬間、玉座の下から低い雷鳴のような唸り。
王が、肘掛けを強く握った。
導管の奥で、別の装置が起動する。
――増幅陣は三重。
祈りの間、広間、玉座。
私は奥歯を噛んだ。
真ん中だけ止めても、両端が“声”を吊り直す。
セリーナが、一歩、こちらへ。
距離が縮まる。
目の色が、さっきよりも人間に近い。
微笑が揺れ、言葉が遅れる。
「……あなたの瞳、嫌い」
「私も、あなたの装置は嫌い」
「でも――」
「でも?」
「あなたの声は、少し、懐かしい」
それは、ほんの一滴の水のような言葉だった。
私は息を吸い、その滴を逃さないように、静かに言う。
「眠りなさい、セリーナ。
オルフェ、彼女を離して。
恐れではなく、名で呼ぶ世界に戻りなさい」
喉の輪が、短く悲鳴を上げた。
銀の刻印がひび割れ、粉のような光が首筋に散る。
広間の空気がふっと緩む。
殿下の足取りが軽くなり、王妃の肩が落ちる。
王の手が肘掛けから離れかけ――
その瞬間、上段の回廊から乾いた音。
弦の弾ける音。
矢が、光を裂いて飛ぶ。
矢じりに銀の小さな輪――
“携行型神託装置”。
矢は増幅核の縁に突き刺さり、瞬時に波形を反転させた。
床の銀線が逆流し、静寂が切り裂かれ、恐れが復帰する。
セリーナの喉の輪が、破片を吸収するように明滅する。
私の足がふらつき、手から指輪が滑り落ちた。
白金が石に触れて転がる音が、やけに鮮明だった。
セリーナの瞳が、指輪を追う。
王妃の指から外された形。
娘の目に、その形が映る。
「……それ、何?」
私は震える指で指輪を拾い、胸に押し当てた。
「母が、あなたに渡したかった“静かな場所”の鍵」
セリーナの喉が、ごくりと動く。
彼女の目の奥で、何かが溶け、何かが固まる。
喉の輪が音階を乱し、増幅核が苦鳴を上げる。
議場の天蓋に亀裂のような音が走った。
殿下が叫ぶ。
「アリシア、下がれ!」
私は首を振り、前に出た。
「終わらせる。ここで」
足元の銀線が、最後の交点を示す。
私はその上に立ち、眼差しを上げた。
「セリーナ。
――眠れ」
言葉は、ささやき。
だが、名を呼ぶ母の声を借り、王妃の静寂を借り、殿下の涙の温度を借りて、届いた。
喉の輪が砕け、粉光が弾ける。
セリーナの身体がきしみ、膝が床に落ちる。
広間の音が、どこかへ吸い込まれていく。
恐れの膜が剥がれ、空気が素肌になる。
――静かだ。
ほんの一瞬、世界は、静かだった。
そして。
玉座の下の導管が、最後の抵抗のように唸りを上げ、床下のどこかで何かが焼ける匂いがした。
王が息を呑み、立ち上がる。
彼の目は恐怖で濁り、しかし、その上に人間の色が戻りかけていた。
セリーナが、顔を上げる。
微笑は、もう形にならない。
その唇が、掠れた声で私の名を呼んだ。
「……アリシア」
私は頷く。
「ここにいる」
その瞬間、回廊の影からもう一本の矢。
光る輪は付いていない。
ただの鉄。
矢は一直線に――王妃へ向かった。
「母上!」
殿下の叫び。
私が走るのと、殿下が身を投げるのは、ほとんど同時だった。
矢羽が空を裂き、時間が伸びる。
誰かの祈り、誰かの罵り、誰かの泣き声――すべてが遠のき、一本の線だけが残る。
私はその線を掴むように、王妃の前に腕を伸ばした。
指先で掠める鉄の冷たさ。
軌道が一筋、ずれ――
矢は、王妃の肩を裂いて柱に突き刺さった。
血の色が、白い衣に滲む。
王妃はよろめき、しかし倒れない。
指輪が私の掌の中で冷たく光り、砕けそうなほど強く握られている。
セリーナの嗚咽が、床の上で崩れた。
「……母、さま」
その呼び方を、私は生まれて初めて聞いた。
王妃が涙をこぼし、娘の名を呼ぶ。
「セリーナ」
広間に、恐れではない“音”が満ちる。
呼び合う音。
それは装置の外側にある、人の音だ。
私は大きく息を吸い、増幅核の縁に最後の言葉を置いた。
「終わりにしましょう。
神のふりをする“声”の時代を。
名で、呼び合うために」
遠くで太鼓が鳴る。
巡礼騎士が動き、議員が立ち上がり、玉座の近くで導管が火を噴く。
静寂と騒音の境目で、私は殿下と目を合わせた。
彼は頷き、前へ。
私もまた、前へ。
再会は叶った。
けれど、拒絶はまだ終わっていない。
――戦いは、ここから「選択」になる。




