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第7話 王妃の告白

 王都の明かりは、海霧の向こうでぼやけていた。

 外海から水路へ入り、古い堰の影を抜ける。

 舟板が石に擦れる音を、殿下が掌で止めた。

 「ここからは歩く。音を立てるな」


 私は頷き、濡れた裾を捲り上げる。

 地下水路の天井は低く、湿り気が重かった。

 視界の先、小さな光が一つ、二つ、遠ざかったり近づいたりする。

 鼠の目のように、王城の下には古い通い路が張り巡らされている。

 私の祖父はかつてここを「国の記憶だ」と言った。

 忘れたいことほど、地下に沈む。


 古井戸の下に設えられた鉄格子をこじ開けると、石畳の匂いが変わった。

 乾いた空気。油の微かな甘い匂い。

 王城の内回廊だ。

 夜番の鈴が遠くで一度鳴り、すぐに消える。

 殿下は合図もなしに歩み、迷わず曲がる。

 ここは、彼の家だ。たとえ誰かに奪われかけていても。


 王妃の居所――西翼の私室へ続く廊下は、静かだった。

 真夜中の掛け時計が、息を潜めている。

 扉の前に立ち、殿下がノッカーに指を掛けかけ、やめた。

 代わりに、私のほうを見て、かすかに笑う。

 「君のほうがいい。母上は、君の声なら開ける」


 私は深く息を吸い、そっと扉を叩いた。

 二度、間を置いて一度。

 幼い頃、回廊で転び膝を擦った私に、王妃がそっと絹のハンカチを差し出した光景が、ふいに蘇る。


 閂の音。

 隙間から洩れた光の中に、痩せた指が見えた。

 「……その叩き方は、アリシアね」


 扉が開く。

 王妃は、夜着の上に薄い外套を羽織っていた。

 髪は灰色を帯び、その瞼の下には深い影が落ちている。

 けれど、目は澄んでいた。

 長く眠らずに物事を見続けた人の目だ。


 「……レオ」

 殿下の名を呼ぶ声が、ほんの少し震えた。

 次の瞬間、王妃は視線を私に移し、扉を閉めて閂を下ろした。

 「来たのね。二人で」


 部屋には火が焚かれ、絹の帷がゆるく揺れている。

 王妃は椅子をすすめ、私に座るよう手振りで促した。

 殿下は立ったまま、母の前で頭を垂れる。

 「母上。俺は――」

 「謝らなくていいのよ、レオ。泣いたなら、それでいい」


 王妃は私を見た。

 「あなたの瞳は、開いたのね」

 私は頷く。円盤――“神託装置”の旧型を膝の上に置いた。


 王妃の肩が、わずかに震えた。

 「その刻印を、二度と見るとは思わなかったわ」


 沈黙が落ちる。

 殿下が息を呑みかけたのを、王妃は手のひらで制した。

 「話すわ。十五年前のことを。

 この国が“神”を求め、私が――母である私が、何を差し出したのかを」


 私は姿勢を正した。

 王妃の声は、最初こそ細かったが、言葉を重ねるほどに芯を取り戻していく。


 「……王は恐れていたの。飢饉、反乱、隣国の圧、そして“正統性”の揺らぎを。

 彼は救いの形がいると信じ、“神託計画”を受け入れた。

 古文書を解いた学匠たちは、声を持つ機械の神を蘇らせる方法を示した。

 “審判の声”――オルフェ。人の嘘を焼く、無慈悲な鏡」


 王妃は視線を落とした。

 「器が要った。

 生まれたばかりの、柔らかい魂の器が。

 私は……王族として、母として、選んだのよ。

 宮廷で選び出された孤児ではなく、我が腕の中の赤子を。

 “国の子”にすると言えば、正しいことに思えた。

 けれど、それは私の罪。

 セリーナは、私の娘。私は国に、娘を差し出したの」


 胸の奥で、何かが鈍く鳴った。

 殿下の指が震え、机の縁を掴む音がした。

 「……母上、セリーナが――」

 「ええ。レオ。彼女はあなたの妹よ。

 私たちはそれを“聖女”という名で包み、彼女自身にすら真実を告げなかった」


 王妃の唇が淡く血の色を滲ませる。

 噛み締めるたび、言葉が棘になる。

 「儀式は成功した。

 セリーナの喉に装置が埋め込まれ、王は“神の言葉”を得た。

 民は救いを見、貴族は従った。

 だが代償は、心。

 彼女の内に封じられた“声”は、彼女の心を侵食し、彼女を“器”に変えた」


 私は円盤を撫でた。

 冷たい金属の感触が、掌の温度を奪う。

「だから、陛下でさえ彼女の“神託”に縛られたんですね」

 王妃はうなずく。

 「恐れは、甘美な鎖だから。

 彼女の声は、皆の恐れに触れる。

 “飢えるのが怖い”“見捨てられるのが怖い”“嘘が暴かれるのが怖い”。

 恐れは人を黙らせる。やがて、考えることもやめさせる」


 殿下が一歩、母に近づく。

 「母上。俺は、あの夜……アリシアを守るために婚約を壊した。

 誰かがアリシアの命を狙うと言った。セリーナの側の者だ」

 「それは王の命ではない」

 王妃の声に、鋭い硝子が混じる。

 「陛下はもう命じられないの。命じているのは“声”よ。

 セリーナの中のオルフェ。

 王はその後ろに隠れ、私もまた、隠れた」


 王妃は顔を伏せ、指輪を外した。

 白金の台座に、薄く割れた青玉。

 内側に、細い刻印があった。

 〈S〉――沈黙の頭文字。

 「アリシア。あなたの母は最後まで私の友だった。

 彼女は言った、『幻は、いつか目を閉じる』と。

 そして一つの術を遺してくれた。“沈黙の誓印サイレンス・シジル”。」


 「……誓印」

 「誓いは、声ではなく意志で編む。

 この指輪は私の命脈に結ばれている。

 これを砕けば、王城の“祈りの間”に張られた増幅陣が止まる。

 セリーナの声は、届かなくなる」


 殿下が息を呑む。

 「母上、だめだ!」

 「分かっているわ。これは、私の命と引き換えの誓い。

 私は十五年前、この国のために娘を差し出した。

 ならば今度は、この国から“声”を退けるために、私が払う番だ」


 私は王妃の手を握った。

 骨ばっているが、温かい。

 「そんなやり方を、母は望んでいません」

 王妃が目を上げる。

 「あなたは、母を知っている。

 彼女が最後に送った密書、読んだのでしょう?」


 「ええ。“瞳で命じよ。オルフェに眠れと”。

 だから、装置は止められる。

 私が――私の瞳が、やるべきです。

 誓印は最終手段。命を代価にする術は、最後まで使わない」


 王妃は短く息を呑み、それからかすかに微笑んだ。

「……強い子。アリシア。

 ならば、私の役目は別にある。

 議会の席を開けること。

 明朝、王城の大広間で“王位継承の神託”が宣明される。

 私は王妃として、議会の開会を遅らせ、あなたたちが“祈りの間”に入る時間を作る。

 増幅陣の中心に立てば、あなたの声は装置と共鳴する」


 殿下が黙って頷く。

 目に、決意の色が固まるのが見えた。

 「アリシアをそこへ通す経路は?」

 王妃は机の引き出しから古い札束を取り出した。

 淡い金糸で縁取られた通行札。

「侍女頭と礼拝係に命じる。

 あなたは“祈祷衣の補佐”として入るの。

 レオ、あなたは議場に現れなさい。

 王の正面に立って、『俺は生きている』と、不器用に言えばいい。

 この国の虚構は、まずそこから崩れる」


 王妃は指輪を私の掌に置き、そっと握らせた。

 白金の冷たさが、皮膚を通って心臓に落ちる。

 「沈黙の誓印は、あなたが拒めば発動しない。

 私が勝手に命を投げ出しても、あなたが首肯しなければ、術は完成しない。

 ――これは、私の罪をあなたに委ねる行為ではないわ。

 あなたにだけ、託せると思ったから渡すの」


 私は頷いた。

 「預かります。けれど、使わせません」

 王妃の目尻がわずかに緩んだ。

 「その強情さ、母に似ている」


 遠くで、鐘が二度鳴った。

 夜明け前の合図。

 王城が目覚め、祈りの間が灯され、巡礼騎士が持ち場につく。

 時間が、すり減っていく。


 扉を叩く音がした。

 侍女頭の声。「王妃様、夜明けの礼の準備を」

 王妃は短く返事をし、私に身を寄せて囁いた。

 「アリシア。セリーナを憎まないで。

 彼女は器であり、それでも娘なの。

 あなたの瞳で、彼女の中の“娘”の部分に触れられるかもしれない。

 ――もし叶うなら、“眠れ”と命じるその瞬間、彼女の名を呼んで」


 「セリーナ、を」

 「ええ。

 母が子の名を呼ぶように。

 それが届くかどうかは、分からない。

 けれど、私が十五年前に手放した“呼び声”を、どうかあなたが」


 殿下が拳を握る音がした。

 「母上。必ず、終わらせます」

 王妃は息子を抱き寄せ、額に口づけた。

 「終わらせて。

 泣くことしかできない夜を、終わらせておいで」


 私たちは部屋を辞した。

 廊下に出ると、夜の冷気が一斉に押し寄せる。

 殿下が歩を止め、私の手を取った。

 「アリシア」

 振り向くと、彼は何か言いかけて、やめた。

 そのかわり、私の手の上で指を絡め、短く圧をくれた。

 それだけで十分だった。

 互いの温度が、合図になった。


 王城の階段を降り、礼拝係の詰所に回り込む。

 王妃の通行札が、鉄の顔を容易くたたむ。

 白布の祈祷衣が差し出され、私は外套の下で素早く着替えた。

 生地は軽く、擦ると微かな鈴の音が鳴る。

 “神託”の舞台衣装――音もまた、装置の一部だ。


 祈りの間の扉が開く。

 空気が――違う。

 薄い膜のような圧が肌に貼り付き、鼓膜の内側で低い唸りが回り続ける。

 床のモザイクは、円環が幾重にも重なり、中心へと導く渦を描いていた。

 中央に、銀の柱。

 その根元に、薄い歯車の輪。

 セリーナの喉にあるものと呼応する“増幅の核”。


 私は一歩、また一歩と進む。

 足音が吸われ、衣擦れの音だけが確かさを持つ。

 ――見える。

 刻印の線、光のたわみ、音の位相。

 “真実を見る瞳”が、世界の輪郭を少しだけ別の角度に倒す。

 装置は、祈りの名を借りた巨大な反響箱だ。

 “声”を増幅し、“恐れ”に合わせて形を変える。


 円環の中心に立ち、私は胸元の紐を握った。

 そこに王妃から預かった白金の指輪がある。

 使わない。

 けれど、ここにあることが、私を真っ直ぐにした。


 扉の向こうで、重い足音が合流する。

 議会が始まる。

 王は玉座に。

 巡礼騎士は列を整え。

 セリーナは――

 彼女は、微笑む準備をしている。


 私は目を閉じた。

 暗闇の底に、灯りがひとつ降りてくる。

 母の声。

 “幻は、いつか目を閉じる”。

 そしてもうひとつ、誰かの泣き声。

 殿下の――あの夜の、壊れかけた嗚咽。

 私は、その涙の温度を忘れない。


 目を開く。

 円環が、呼吸した。

 瞳の奥から光が滲み、世界の線が一度だけ震える。

 私は心の底で言葉を組む。

 祈りでも呪いでもない、呼びかけ。

 幼い子に、母がかける声。


 ――セリーナ。

 聞こえる?

 眠りなさい。

 あなたの中の声は、あなたのものじゃない。

 もう、眠る時間だ。


 銀の輪が、一瞬だけ停止し、微かな反発を返してくる。

 だが、足りない。

 “鍵”が喉元にある彼女が来なければ、最後の閂は開かない。

 私は息を継ぎ、静かに立った。

 扉の向こう、議会の喧噪に混じって、ひときわ澄んだ足音が近づく。


 ――来る。


 私は祈祷衣の端を握りしめ、顔を上げた。

 王妃の告白が、胸の裡で灯り続ける。

 娘を手放した母の声。

 それでも、まだ娘だと言い切った母の声。

 あの声を、橋にする。


 扉が開き、白い光が差し込む。

 微笑の気配が、私の頬に触れた。


 「セリーナ」

 私は名を呼んだ。

 彼女の足が、一瞬止まる。

 ――戦いは、ここから始まる。

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