第6話 真実の手紙
波の音が、眠りの境を撫でていた。
夜の海は黒い鏡。
空に散った星々をそのまま映し、風のひとすじで砕けてゆく。
私は舟底に身を伏せたまま、胸の上で両手を組んだ。
殿下の息は、もう落ち着いている。
聖女の光の傷も、潮の冷たさが癒やしたのか、熱は下がっていた。
「……どこまで来たのかしら」
誰に言うでもなく呟く。
舳先のほうで、殿下が身を起こした。
「星の配置からして、ローデンの沖を離れたばかりだ。もう少し行けば、潮の分岐線を越える」
「分岐線?」
「王国と連合領の境だ。追っ手もそう遠くまでは来られない」
殿下の声は静かだった。
けれど、その静けさは疲れや諦めではない。
嵐を抜けた船乗りが、風の向きを知るときの静けさに似ていた。
「殿下。これを見てください」
私は懐から円盤を取り出し、月明かりに翳す。
刻印が淡く光り、表面に浮かび上がったのは、ひとつの紋章だった。
“神の眼”を模した印。その中心に、刻まれた名。
──Orphe。
殿下はそれを見て、目を細めた。
「この名を、どこで?」
「セリーナの“鍵”です。彼女の装置はこの名に反応して停止しました」
「……なるほど。古い伝承の名だな。神託以前、王国がまだ神話を語っていた時代の“最初の神”。」
殿下の手が円盤を受け取り、指で縁をなぞる。
「オルフェは、真実を語る神だったという。嘘を語る人間の舌を焼き、沈黙の中でしか言葉を許さなかった」
「沈黙の神……皮肉ですね。彼女はその名で人の声を奪っている」
「そうだ。だが、まだ“鍵”は完全には壊れていない」
殿下の言葉に、私の胸が跳ねる。
「つまり?」
「君の瞳――“真実を見る瞳”は、装置を止めたが、壊してはいない。セリーナは再起動できる。
つまり、まだ終わっていないということだ」
私は拳を握った。
「終わらせましょう。母が残した密書の続きを読めば、きっと……」
殿下が頷く。
「読もう。あの木箱の底に、もう一通の封書があった」
彼は外套の内ポケットから濡れた封筒を取り出した。
封蝋には鷹の紋。ハーラン隊長のものだ。
殿下が慎重に封を切り、紙を広げる。
塩水で滲んだ文字を、月明かりが照らした。
『これを読む者へ。
我らが守ったものは、神ではない。
人の“恐れ”そのものだ。』
殿下が読み上げ、沈黙が流れる。
『十五年前、王家は民を統べるために“信仰の形”を求めた。
それが“神託計画”。
神を創り、言葉を与え、支配を正当化する。
我々“漆黒の鷹”はその警護を担ったが、儀式の真の目的を知らされてはいなかった。』
『だが儀式の夜、王妃が祈りの間で泣いていた。
“この子をどうか救って”と。
彼女の腕の中には、光を浴びた赤子――セリーナがいた。』
『その光を閉じ込めるために作られたのが、“神託装置”だ。
装置の中には一つの魂の断片が封じられている。
その名を、オルフェという。』
私は息を詰めた。
「……魂の、断片?」
殿下が続きを追う。
『オルフェは、人の罪を数える“審判の声”と呼ばれた。
王家の祖が封じた古代の人工知性。
人の嘘を検出し、嘘をついた者の脳を焼く。
その力を、王は“神託”と呼んだ。』
『セリーナの中で眠るオルフェは、今なお動いている。
だが、制御権は一人の人間に預けられた。
“真実を見る瞳”の継承者――エルフォード家の血筋。』
私の手が震えた。
母がなぜ真実を知っていたのか。
なぜセリーナが私を恐れるのか。
すべてが繋がる。
殿下が読み進める。
『もし、この計画が暴走したときは、“瞳”の継承者に告げよ。
オルフェを呼び覚まし、命じるのだ。
“もう眠れ”と。』
文字は、そこで途切れていた。
波の音が戻ってくる。
風が紙をなで、塩を乾かしていく。
殿下が深く息を吐いた。
「……つまり、君だけが止められる」
「でも、“命じる”ってどうやって?」
「オルフェは言葉を聞かない。心の形――“感情の波”で反応する。
君がその瞳で、心から望んだときだけ、装置は沈黙する」
私は拳を握りしめた。
「母も、そう願っていたのね。だからあの手紙に、“幻を壊せるのはお前だけ”と」
殿下が紙を折り、火打ち石で燃やす。
炎が短く揺れ、灰になって風に流れる。
「証拠は、もう十分だ。だが王都に戻らなければならない」
「戻る……?」
「王家の議会で、セリーナは“神託による王位継承”を宣言するだろう。俺が死んだことにして、彼女が第二王子を操る。
このままでは、国が嘘の神に支配される」
私は頷いた。
「行きましょう。私の瞳で、その嘘を暴きます」
殿下が微笑んだ。
それはほんのわずかな、けれど確かな笑み。
「ありがとう。……君は、本当に強いな」
「殿下も」
「俺は弱い。泣いてばかりだ」
「泣ける人は、強い人です」
波が打ち寄せ、小舟が大きく揺れた。
遠くで雷が鳴る。
嵐が来る。
まるで王都の行く末を映すように。
「アリシア」
殿下が静かに私を見た。
「この嵐が明けたら、俺はもう一度、君に言うよ」
「え?」
「婚約を、やり直してくれと」
思わず、息を呑む。
潮風が頬を打ち、胸の奥が熱くなった。
けれど、私は首を振る。
「今は、それを受け取れません。
まだ、国も、殿下も、私自身も――“真実”を取り戻していないから」
殿下は少し笑って、「それでいい」と言った。
「嘘で始まった関係は、真実で結び直さないとな」
舟が波を越える。
嵐の向こうに、うっすらと灯りが見えた。
王都。
セリーナが待つ場所。
私は円盤を胸に抱いた。
母の声が耳の奥で囁く。
――“もう眠れ”。
“幻は、いつか目を閉じる”。
潮の匂いが濃くなる。
雲が裂け、稲光が夜を照らした。
その一瞬の光の中、殿下の瞳が、あの夜の涙と同じ色に輝いた。
「行きましょう、殿下。
泣いた夜を、終わらせるために。」




