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婚約破棄された瞬間、泣き崩れたのは殿下のほうでした  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環


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第5話 “聖女”セリーナの微笑

 ローデンの港は、潮の匂いの向こうに鉄の匂いがした。

 網を打つ音、樽を転がす音、遠くで鳴る鐘。

 夕闇に灯る無数のランタンの下、魚を抱えた少年が走り抜け、行商人が喉を張り上げる。

 王都より雑多で、王都より生きている。

 ここなら、少しは息ができる――そう思ったのも束の間、私はすぐに錯覚だと知る。


 広場の中央に白布の壇。

 “聖光の十字”の旗がひるがえり、その前で白衣の巡礼騎士たちが人垣を整えていた。

 誰かが囁く。「聖女様が……来られるらしいぞ」


 心臓が、小さく跳ねる。

 レオナルド殿下は外套のフードを深くかぶり、広場の外れで足を止めた。

「……セリーナが、ここに」

 彼の声は低い。

 私は周囲を見渡す。逃げ道、影、狭い路地。

 港町の路地は、潮風に削られた岩のように複雑で、抜け穴が多い。

 追っ手が来ても散れる――はず、だった。


 「殿下、今なら回り道ができます。裏手の倉庫街から――」

 「いや、見るべきだ」

 殿下はゆっくりと首を振る。

 「彼女が“神”を名乗るやり方を、この目で」


 そのとき、ざわめきが波のように広がった。

 白いローブが風に揺れる。

 セリーナが、壇に上がった。


 遠目には、完璧だった。

 柔らかな金の髪。少し伏せられた睫毛。

 祈るときにだけ上がる頬の角度に、計算の匂いはない。

 けれど私は知っている――あの微笑は、武器だ。


 「航海の守りと、病の癒やしが必要と聞きました」

 セリーナの声はよく通る。

 「神は慈悲深く、求める声に必ず応えてくださいます」

 言葉ひとつひとつが水のように滑り込み、人々の肩の力を抜いていく。

 彼女は手を掲げ、ゆっくりと微笑む。

 その瞬間、周囲の空気がほんのわずか震え、私の腕に柔らかな痺れが走った。


 ――始まった。

 私は息を詰める。

 殿下が気づくほどではない微かな振動。

 けれど“真実を見る瞳”の光は、微笑の裏で回転する薄い輪――喉元に隠された魔具の歯車――をはっきり捉えていた。

 光。音。人の目線。

 それらが一定のリズムで重なったとき、群衆は一斉に呼吸を合わせる。

 支配の起動は、祈りの形をしてやって来る。


 私の隣で、小柄な老婆がぽつりと呟いた。

 「ありがてぇ、ありがてぇよ……」

 その目は涙で濡れ、セリーナの指先に釘付けだ。

 老婆の肩が震えるのを見て、私は歯を噛む。

 祈りたい気持ちを否定するつもりはない。

 でも、祈りで心を奪うやり方は、赦せない。


 セリーナがゆるやかに壇を降り、列をつくる病人たちの額に手を触れていく。

 「痛みが引きますように」

 そのたびに小さなうめきが歓声に変わり、広場は熱を帯びる。

 巡礼騎士が囁く。「ご寄進を。聖女様は決して対価を求められません。ただし神の家は、皆で支えるもの」

 布袋に落ちる硬貨の音。

 熱狂は、音を餌に育つ。


 「アリシア」

 殿下がかすれる声で呼んだ。

 私はうなずき、彼の袖を引く。

 「長居は危険です。裏へ」

 私たちは群衆の波を裂くように路地へ滑り込んだ。

 その瞬間、肩に固いものが当たる。

 振り向くと、粗末な外套を着た若い男が立っていた。

 彼は目だけで素早く周囲を確かめ、私に一枚の紙片を押しつけると、人波に紛れて消えた。


 紙片には短い文。

 ――「濡れた鷹亭。灯台の下。夜半。独りで。」

 その下に、黒い小さな印。

 “漆黒の鷹”。


 喉が鳴る。

 密書の差出人が、こちらを見ている。

 「殿下」

 私は紙片を握りしめ、小声で伝える。

 「会えます。母の印です」

 殿下は一瞬だけ目を細め、頷いた。

 「行こう。だが――独りでとある。俺は影から護る」


 私たちが路地を抜けたとき、遠くで角笛が二度鳴った。

 合図だ。

 広場に巡礼騎士が増え、人々の熱はやがて秩序に変わる。

 セリーナの微笑が、町を一枚の薄い膜で覆っていくのが分かった。

 彼女は群衆を掌で包む。

 優しさの温度で、自由を奪う。


 ◆


 夜半近く、潮が満ちる。

 “濡れた鷹亭”は、灯台の影に寄りそうように建っていた。

 表戸は固く閉ざされ、側面の勝手口だけに小さな灯り。

 私は外套のフードを目深におろし、静かに扉を叩く。


 二度、間を置いて一度。

 母に教わったやり方だ。


 錠の音。

 覗き窓が少し開き、乾いた声が落ちた。

 「潮の匂いは、どちらから来る?」

 「北から。白波は、星を砕いて運ぶ」

 短い沈黙。

 それから、閂が外れる。


 中は暗かった。

 灯りの下に、一人の男が座っている。

 年の頃は四十手前。粗い麻布の服に、漁師の外套。

 けれど、背筋は真っ直ぐだった。

 男は立ち上がり、膝をつく。

 「お待ちしておりました、アリシア様」


 「あなたが……密書の差出人?」

 男は首を横に振る。

 「私は渡し役にすぎません。本当の差出人は別にいる。だが、その人は今、海の底で眠っている」

 低い声。

 「“漆黒の鷹”の隊長――ジーク・ハーラン。十年前に処刑されたことになっている男だ」


 空気が変わった。

 「生きているの?」

 「いいえ。彼は死にました。けれど残した網は、今も潮を掬っている」

 男は卓上に古びた木箱を置き、私に押しやった。

 「開けてください」


 蓋を外すと、中には薄い円盤が一枚。

 周縁に微細な刻印。

 私は息を呑む。

 「これは……セリーナの喉にあった、歯車の……」

 「同じものです。いや、旧型だ。十五年前、王家の命で“神託装置”の試作が行われた。

 ハーラン隊長はその護衛だった。

 だが、装置は人の心に“ひずみ”をつくる。

 試作は破棄された――少なくとも、そう報告された。

 実際は、完成品がひとつ造られ、ある娘の喉に埋め込まれた」


 セリーナの横顔、壇上の微笑、熱に浮かされた群衆――

 全てが繋がる。

 私は拳を握った。

 「それを止める方法は?」

 男は短く息を吐く。

 「二つ。

 一つは装置を壊すこと。

 もう一つは、装置の“鍵”を奪うこと――起動コードを崩す、“真実を見る瞳”だ」


 私を、真っ直ぐに見た。

 逃げ道を塞ぐような眼差し。

 でも、不思議と怖くはなかった。

 「……母も同じことを書いていたわ」

 男の眉がかすかに動く。

 「奥方は、お強い方だった」

 「母を、知っているの?」

 「ええ。あなたがまだ幼い頃、王都の回廊でよく走っていた。

 奥方はいつも言った。“この子の瞳は、いつかこの国の薄皮を剥がす”と」


 胸の奥で、古い風鈴が鳴るような音がした。

 私は円盤を持ち上げ、灯りに透かす。

 刻印の谷間に、淡い光。

 見える――音階、脈動、群衆の呼吸。

 声なき指揮棒。

 微笑は、その開始の合図にすぎない。


 「殿下に、見せなくては」

 私がそう言ったとき、扉の外で足音が止まった。

 打つのは、鉄の靴。

 巡礼騎士の靴音だ。

 男は片手を挙げ、私を奥の戸棚へ促す。

 私が身を滑り込ませるのと、扉が開くのはほとんど同時だった。


 「夜分に失礼」

 入ってきたのは二人。

 胸に白銀の十字。

 先頭の騎士は、薄笑いを浮かべている。

 「ここに“反逆者”が出入りしていると聞いた。……女だ。黒髪で、灰色の瞳」


 男は肩を竦めた。

 「酒と潮しか出ない店ですよ」

 「ならば、店を改めさせてもらおう」

 騎士が一歩踏み出したとき、奥で板が鳴った。

 ほんの小さな音。

 騎士の目が、そこへ向く。

 扉の隙間から、一瞬だけ外の影が揺れた。


 ――殿下。

 私は息を止める。


 次の瞬間、灯りが弾けた。

 男が卓上の油皿を払って床に落とし、片手で窓を蹴り開ける。

 「走れ!」

 叫ぶと同時に、私の腕を乱暴に掴み、裏口へ押し出した。

 潮風。冷たい夜。

 私は濡れた石畳を蹴り、灯台の影へと駆けた。


 背後で金属がぶつかる音がする。

 「捕らえろ!」

 怒号。

 私は角を曲がり、狭い階段を二段飛ばしで降りる。

 その先、石垣の上で誰かが手を伸ばした。

 外套のフード。灰色の目。


 「アリシア!」

 殿下が私を引き上げ、身を翻す。

 彼の腕の中で、私は短く息を呑んだ。

「大丈夫だ、行けるか」

 「ええ」


 灯台の根元。

 暗いトンネルの口が、海へ向かって開いている。

 母の手紙に記された“古い水路”。

 「ここからなら、外海に小舟を出せる」

 殿下の声は落ち着いていた。

 私は頷き、振り返る。

 石垣の上に、巡礼騎士が現れる。

 月の刃が、彼らの剣に宿る。

 その後ろ、灯台の光に一瞬照らされた横顔――セリーナがいた。


 彼女は静かに微笑み、唇を開く。

 声ではない。

 喉奥で回転する銀の輪が、月光を受けて淡く光った。

 見えない波が広がる。

 膝が、少しだけ、笑う。


 「来るな」

 殿下が私の肩を抱き寄せ、低く唸る。

 「目を閉じろ、アリシア。耳を塞げ」


 いいえ、と私は首を振った。

 ――逃げるだけでは、終わらない。

 私は左手で殿下の袖を掴み、右手の指先を目元に当てる。

 光が、滲む。

 “真実を見る瞳”。

 母がくれた唯一の、私だけの武器。


 セリーナの微笑の下で、歯車がひとつ、わずかに噛み損ねた。

 刻印の列に微細なズレ。

 私はそこに言葉を差し込む。

 祈りでも、呪いでもない。

 ただの事実。

 彼女の声帯の外側で、古い名前を呼ぶ。


 「セリーナ、あなたの“鍵”は――“オルフェ”」


 歯車が止まる。

 波が引くみたいに、足元の痺れが薄れた。

 セリーナの瞳がわずかに揺れ、微笑が、ほんの一瞬、形を失う。

 彼女は私を見た。

 その目に、初めて感情が宿る。

 驚き。

 それから、怒り。


 「……誰に、それを」

 「母よ」

 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。

 「あなたを作った儀式の記録を残した人たちの名前を、私は全部知っている」


 セリーナが指を鳴らす。

 騎士たちが走る。

 殿下が私を抱えて水路へ跳び、冷たい海霧が頬に刺さる。

 背後で剣が石を裂き、火花が散る。

 私は振り返り、セリーナの目を射抜くように見た。

 彼女はもう微笑んでいなかった。

 唇が、わずかに震えている。

 喉の銀輪が、再起動の脈を刻み始める。


 「レオ!」

 殿下が頷く。

 小舟の綱が解け、暗闇が私たちを飲み込む。

 水路の天井に灯台の光が走り、次の瞬間、闇がすべてを隠した。


 舟底に身を伏せながら、私は濡れた掌を握りしめる。

 円盤の冷たさ。

 刻印の感触。

 “オルフェ”――古い鍵の名。

 セリーナの微笑は、もう完璧ではない。

 薄皮に爪が立った。

 ここから、剥がす。


 小舟が外海に出る頃、沖で鐘が一度――短く鳴った。

 暗闇の沖合に、ぼんやりとした影がある。

 帆柱のない、低い船。

 舷側に、黒い鷹の印。


 密書の差出人は、まだ終わっていなかった。

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