第23話 王座前
王城の大広間は、朝の光で形を変える。
高窓から差す光が床の紋を縁取り、石の色は薄い蜂蜜の色に沈む。
その中央に、今日は机が一つ置かれていた。
金でも大理石でもない、学舎で使う長机。
上には札束――『名置換票(R-0)』『補完告示(名版)』『二重輪 運用告示』『婚約誓約付録 名版』。
そして、薄い鐘。音読の合図に使う学舎の小鐘。
「これを王座前に置くのは、百年ぶりだ」
老文官ハルトが眼鏡を押し上げ、苦笑する。
「百年前は法典の改訂だったが、今日は手順そのものの更新だな」
会計長ラウラは肩をすくめ、札の角を整える。
「数字の人間は、読み上げが苦手。
今日、苦手を名で克服する」
王座の階段に、薄金の影。
王がまだ姿を見せる前から、ざわめきが広間に満ちていく。
廷臣、騎士、職人、港の男たち、学舎の子ども、そして市井の女たち。
皆が自分の名で入ってきて、互いの耳に名を置いていく。
「ミナ」「ベルト」「ダリオ」「ジョラン」「リタ」「オト」――
名のさざなみが床紋に広がった。
「始めよう」
殿下――レオが一歩進み、学舎の小鐘を鳴らした。
ちりん。
小さな音が、王座の天蓋まで届く。
「王座前 名の音読。
まず、『輪=呼吸』の読み替えから」
ラウラが札を持ち、広間に向き直る。
『輪の核心 追補』の一行――『輪は、名に戻すまでの呼吸である。』
彼女は間を置き、はっきりと読んだ。
「『輪は、名に戻すまでの呼吸である。』」
ざわめきが少し静まる。
ラウラは続ける。
「“匿名の輪”は、今日をもって廃止。
名の緩衝=二重輪のみ、一晩の範囲で運用者の名とともに残す。
翌朝公開。匿名緩衝の禁止」
数字の人の声は、本来乾いている。
だが今は、名を通って、少し湿って聞こえた。
王が現れた。
白髪に金環、歩みは遅いが、目は鋭い。
王座に座らず、階段の中ほどで止まる。
「読み上げを、続けよ」
それだけ言って、王は沈黙した。
沈黙は、承認の余白になった。
次は、テオ。
彼は**『名置換票(R-0)』の束を両腕で抱え、最前に立つ。
「置換 第一。
『置換前:祭器保全(R-0-17)。置換後:王妃療室・器機清掃(責:療室頭ミロ)。理由:名で置換。証人:テオ・ラウラ・アリシア。』」
音は細いが、折れない。
「置換 第二。
『置換前:巡礼馬車維持(R-0-03)。置換後:学舎・移動棚整備(責:職人ミナ)。理由:現況反映。証人:ルシアン・ベルト・アリシア。』」
読み終えるたび、前列の子が小鐘を鳴らし、間が置かれる。
間は、言葉に体温**を持たせる。
その間に割り込むように、重い足音。
騎士団の一人が前へ出、膝をついた。
「陛下。輪の封鎖は、騎士の給与を痩せさせます。
“声の寄進”が細れば、剣は痩せる」
王は答えない。
殿下が一歩進んだ。
「剣は、名で重くなる。
『再編令』を音読する」
ベルトが控えから抄訳札を取り、読み上げる。
「『剣は“恐れの装置”のために使わない。
“名を守る剣”へ再編する。
給与は“声”ではなく、名の回線から、公開で支払う。』」
騎士は顔を上げ、ゆっくり頷いた。
「……名で支払われるなら、名で受けよう」
剣の柄が石に当たり、こつと響く。
その音も、名の側へ転がった。
広間の後方で、短い笑い。
狼の焼印を肩に刻んだ若者――ガロの一団が立っている。
彼は声を張らない。
名で呼ばれるのを待つ顔だった。
アリシアは彼を見ると、小さく手を挙げる。
「ガロ。昨夜、名で勧告を受け取ったな」
「受け取った」
「その返事を、名で」
ガロは前に出、胸に手を置いた。
「狼窟――洞窟刷りは、版木の名を刻む。
押し棒には押した名、束には配り手の名。
見出しに“声”は使わない。
『名を返せ』を刷る」
広間の一角から低いざわめき。
反対も、嘲りも、感嘆も混じる。
ガロは視線を逸らさない。
「“吠える犬”は、名で吠える」
ルシアンが肩を揺らし、笑いを飲む。
「吠えるうちは戻れる。
戻る場所は名で作る」
王座に近い席から、別の声。
王室会計の古参が杖を突き、震える声で言う。
「“婚約”を名で公開するなど、家の名を軽んじる」
空気が一瞬、強ばった。
殿下は正面からその声を受け止め、短くうなずく。
「家の名は、人の名を隠すためにあるのではない。
人の名を連ねるためにある。
――『婚約誓約付録 名版』」
アリシアは机の札を手にし、階段の一段上へ出た。
指先は冷たいが、震えはなかった。
彼女は声を整え、間を置き、読み始める。
「『婚約を、名の約束として公開する。
国の貸借から外し、名の回線へ移す。
零番の約束――“破る可能性を前提に置く”“呼び戻すための名を毎朝確認する”“国の約束と恋の約束を混ぜない”“公開に耐えぬ痛みは一晩だけ二重輪へ。翌朝、必ず出す”。
署名:レオナルド・アリシア』」
読み終えると、学舎の小鐘がちりんと鳴った。
広間の空気が、波のように揺れる。
善口が走り、悪口が追いかける。
「名の婚約だって」「軽い」「重い」「見せるための恋だ」
ラウラが机の端から**『音読掲示票』を出し、札の下に添える。
「口の波は、耳で静まる。
読み上げ人の名を付け、輪唱に」
最前の子が手を挙げた。
「読む! オト!」
オトが、焦げ跡の札を胸に抱えて前へ出る。
低いけれど、よく通る声。
「『婚約を、名の約束として公開する。』」
続けて、港の女が声を重ねる。
「炊き出しのリタ、読む!
『零番の約束――破る可能性を前提に置く』」
声がひとつ、またひとつ重なり、合唱になっていく。
善口も悪口も、輪唱の中で意味**へ戻る。
王は階段をさらに一段降り、机の前に立った。
皺の刻まれた指が、**『婚約誓約付録 名版』**の端に触れる。
「若い。
だが――空白がある」
王はアリシアを見た。
「余白を、人に持たせるやり方。
先先代は、輪で余白を持った。
お前たちは、名で余白を持つ。
――承認」
その言葉は短く、硬く、重かった。
承認が落ちた音に、広間の空気が一気に安堵でほどけた。
その緩みを切り裂くように、背後の扉がどんと開く。
灰を被った伝令が駆けこみ、ひざまずいた。
「“狼の抜け道”掲示 ――再び剥がされました!**
今度は、三重輪の黒札で封じが!」
ざわめき。
ラウラの顔が強張る。
「輪=呼吸の読み替えに抵抗が、まだ城内に」
殿下は詰め寄らない。
小鐘を一度鳴らし、間を置く。
「封じた名を、探す。
黒札には、押した手の跡が残る」
ルシアンがすでに走り出していた。
「黒札剥がしは俺の手順だ」
彼の背に、ベルトが**『受領票(名版)』**の束を投げる。
「剥がしたら、名で受領しろ!」
ふたたび学舎の小鐘。
アリシアは机の端を軽く握り、言葉を置く。
「**“三重輪=匿名の呼吸”**は、今日で終わる。
『輪=呼吸』を――『名が追いつくまでの呼吸』へ」
彼女は広間の端に並んだ子どもたちへ向き直る。
「“呼吸札”を配ります。
『呼吸の回数/読む名/聞く名/止めた名』
火の夜は、名のバケツで渡した。
言葉の昼は、呼吸の札で渡す」
ミナが布袋から札束を配り、セリーナが丸い字で書き方を教える。
「『読むときは、吸って――吐いて』」
子どもたちが真似をし、広間に規則的な呼吸が生まれた。
王はその呼吸をじっと聞き、僅かに目を細める。
「国の呼吸だ」
再び、扉。
ルシアンが戻ってきた。
袖に黒い粉、指先に紙片。
「黒札――三重輪。
押した名は、なし。
だが、紙の縁に“王室紋の微細抜き”。
私室の作だ」
広間の空気が緊張する。
テオが一歩前へ。
「僕の名で、黒札の剥離を告示する。
二重輪を緩衝に使い、明朝、名で公開する」
王は短くうなずいた。
「私室の痛みは、私室の名で」
テオは“告示札”にサインを置き、その場で音読した。
若い声は震えず、耳に届いた。
アリシアは深く息を吸い、最後の一札を手に取る。
『名の婚約 掲示手順』
――『一、王座前で音読。二、学舎の棚で輪唱。三、市場で合唱。四、夜の灯前で再読。五、翌朝、二重輪の有無を掲示。』
「手順を、名で刻む。
恋を煽るためでなく、運用するために」
広間の後ろで、誰かが笑い、誰かが泣いた。
善口が、悪口を追い越した。
王は階段の一番下まで降り、机の前で立ち止まる。
「名は、呼ばれなければ死ぬ。
呼び続けよ」
そう言うと、王は殿下に視線を移した。
「婚約の名を、今呼べ」
殿下は、机に置かれた白金の指輪を取った。
内側には、空白。
日付のない余白。
彼はそれを掌で温め、一度だけ息を吹きかけてから、アリシアに向き直った。
「アリシア」
名が、王座前で呼ばれる。
「俺は、君を“アリシア”と呼ぶ限り、何度でも婚約を申し込む。
零番の約束を運用し、名で結ぶ」
広間が静まる。
アリシアは頷き、指輪を受け取り、はめない。
彼女は羽根ペンを取り、内側に細く刻んだ。
『証人/輪呼/祝詞』
そして小さく笑って、殿下の掌を両手で包む。
「今夜は、まだはめない。
明朝、同じ名でありたいと思えたら――はめる」
王の口元がわずかに緩み、学舎の小鐘がちりんと鳴った。
その音に、広間の端で祝詞が起こる。
セリーナが丸い声で始め、子どもたちが続いた。
「名を、呼ぶ。名で、結ぶ。名で、戻る。」
祝詞は祈りではなく、手順だった。
その手順を、人々は自分の名で繋いでいく。
日の傾きが、王座の背に長い影を落とし始めた頃。
ベルトが控えから駆け出し、『受領票』を掲げる。
「“狼の抜け道”掲示 再受領!
剥がした名:――記入なし/受領者の名:ルシアン」
「なしが残るうちは、明朝も読む」
アリシアが言う。
「名で空白を埋めるまでは、音読を止めない」
王は最後に一つ、短く言葉を落とした。
「国の呼吸は、一人の肺ではない。
皆で吸い、皆で吐け」
それが今日の、最も王らしい文だった。
広間の扉が開き、人々が波のように外へ出ていく。
輪唱は石段を降り、広場へ移る。
市場の魚屋が読み、港の女が続け、子どもが笑って拾う。
“名の婚約”は、噂ではなく、手順として街に降りた。
静まり始めた王座前で、アリシアは深く息を吐いた。
「……怖かった?」
殿下が微笑む。
「怖い。
でも、名で怖いのは、戻れるから」
「声で怖いのは?」
「消えるから」
ふたりの間の間が、静かに整う。
ルシアンが遠くで手を振り、ミナが子どもたちを整列させ、ラウラが新しい監査札の束を文官に渡す。
手順が、生活になっていく。
王座の階段の影で、テオが立ち止まり、譜面の切れ端に小さく書いた。
『呼吸=呼んで吸う』
彼はそれを胸にしまい、こちらを見て頷く。
「明日の朝、二重輪の掲示を――僕の名で」
「頼む」
殿下が答え、アリシアはテオの肩を握る。
「耳と口を、同じ速度に」
最後の陽が高窓の縁を離れ、広間は淡い灰色に戻る。
アリシアは白金の指輪を掌で転がし、空白を確かめた。
零番の約束は、今日、国の手順になった。
破る夜が来ても、戻る名は紙にも耳にも、王座前にも置かれている。
扉の向こうで、人々の輪唱がまだ続いていた。
「読む。聞く。返す。間。」
その四拍子で、王都は新しい呼吸を覚えていく。
アリシアは顔を上げた。
「――次は、誰の名を呼ぶ?」
殿下は目を細め、遠い先を見た。
「“黒札”に名を。
三重輪の貼り手を、名で」
ふたりは並んで歩き出した。
王座前から広場へ。
名で結んだ婚約と、名で回る国の手順とを、同じ一呼吸で運ぶために。