表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/24

第23話 王座前

 王城の大広間は、朝の光で形を変える。

 高窓から差す光が床の紋を縁取り、石の色は薄い蜂蜜の色に沈む。

 その中央に、今日は机が一つ置かれていた。

 金でも大理石でもない、学舎で使う長机。

 上には札束――『名置換票(R-0)』『補完告示(名版)』『二重輪 運用告示』『婚約誓約付録 名版』。

 そして、薄い鐘。音読の合図に使う学舎の小鐘。


 「これを王座前に置くのは、百年ぶりだ」

 老文官ハルトが眼鏡を押し上げ、苦笑する。

 「百年前は法典の改訂だったが、今日は手順そのものの更新だな」

 会計長ラウラは肩をすくめ、札の角を整える。

 「数字の人間は、読み上げが苦手。

 今日、苦手を名で克服する」


 王座の階段に、薄金の影。

 王がまだ姿を見せる前から、ざわめきが広間に満ちていく。

 廷臣、騎士、職人、港の男たち、学舎の子ども、そして市井の女たち。

 皆が自分の名で入ってきて、互いの耳に名を置いていく。

 「ミナ」「ベルト」「ダリオ」「ジョラン」「リタ」「オト」――

 名のさざなみが床紋に広がった。


 「始めよう」

 殿下――レオが一歩進み、学舎の小鐘を鳴らした。

 ちりん。

 小さな音が、王座の天蓋まで届く。

 「王座前 名の音読。

 まず、『輪=呼吸』の読み替えから」

 ラウラが札を持ち、広間に向き直る。

 『輪の核心 追補』の一行――『輪は、名に戻すまでの呼吸である。』

 彼女は間を置き、はっきりと読んだ。

 「『輪は、名に戻すまでの呼吸である。』」

 ざわめきが少し静まる。

 ラウラは続ける。

 「“匿名の輪”は、今日をもって廃止。

 名の緩衝=二重輪のみ、一晩の範囲で運用者の名とともに残す。

 翌朝公開。匿名緩衝の禁止」

 数字の人の声は、本来乾いている。

 だが今は、名を通って、少し湿って聞こえた。


 王が現れた。

 白髪に金環、歩みは遅いが、目は鋭い。

 王座に座らず、階段の中ほどで止まる。

 「読み上げを、続けよ」

 それだけ言って、王は沈黙した。

 沈黙は、承認の余白になった。


 次は、テオ。

 彼は**『名置換票(R-0)』の束を両腕で抱え、最前に立つ。

 「置換 第一。

 『置換前:祭器保全(R-0-17)。置換後:王妃療室・器機清掃(責:療室頭ミロ)。理由:名で置換。証人:テオ・ラウラ・アリシア。』」

 音は細いが、折れない。

 「置換 第二。

 『置換前:巡礼馬車維持(R-0-03)。置換後:学舎・移動棚整備(責:職人ミナ)。理由:現況反映。証人:ルシアン・ベルト・アリシア。』」

 読み終えるたび、前列の子が小鐘を鳴らし、間が置かれる。

 間は、言葉に体温**を持たせる。


 その間に割り込むように、重い足音。

 騎士団の一人が前へ出、膝をついた。

 「陛下。輪の封鎖は、騎士の給与を痩せさせます。

 “声の寄進”が細れば、剣は痩せる」

 王は答えない。

 殿下が一歩進んだ。

「剣は、名で重くなる。

 『再編令』を音読する」

 ベルトが控えから抄訳札を取り、読み上げる。

 「『剣は“恐れの装置”のために使わない。

 “名を守る剣”へ再編する。

 給与は“声”ではなく、名の回線から、公開で支払う。』」

 騎士は顔を上げ、ゆっくり頷いた。

 「……名で支払われるなら、名で受けよう」

 剣の柄が石に当たり、こつと響く。

 その音も、名の側へ転がった。


 広間の後方で、短い笑い。

 狼の焼印を肩に刻んだ若者――ガロの一団が立っている。

 彼は声を張らない。

 名で呼ばれるのを待つ顔だった。

 アリシアは彼を見ると、小さく手を挙げる。

 「ガロ。昨夜、名で勧告を受け取ったな」

 「受け取った」

 「その返事を、名で」

 ガロは前に出、胸に手を置いた。

 「狼窟――洞窟刷りは、版木の名を刻む。

 押し棒には押した名、束には配り手の名。

 見出しに“声”は使わない。

 『名を返せ』を刷る」

 広間の一角から低いざわめき。

 反対も、嘲りも、感嘆も混じる。

 ガロは視線を逸らさない。

 「“吠える犬”は、名で吠える」

 ルシアンが肩を揺らし、笑いを飲む。

 「吠えるうちは戻れる。

 戻る場所は名で作る」


 王座に近い席から、別の声。

 王室会計の古参が杖を突き、震える声で言う。

 「“婚約”を名で公開するなど、家の名を軽んじる」

 空気が一瞬、強ばった。

 殿下は正面からその声を受け止め、短くうなずく。

 「家の名は、人の名を隠すためにあるのではない。

 人の名を連ねるためにある。

 ――『婚約誓約付録 名版』」

 アリシアは机の札を手にし、階段の一段上へ出た。

 指先は冷たいが、震えはなかった。

 彼女は声を整え、間を置き、読み始める。

 「『婚約を、名の約束として公開する。

 国の貸借から外し、名の回線へ移す。

 零番の約束――“破る可能性を前提に置く”“呼び戻すための名を毎朝確認する”“国の約束と恋の約束を混ぜない”“公開に耐えぬ痛みは一晩だけ二重輪へ。翌朝、必ず出す”。

 署名:レオナルド・アリシア』」

 読み終えると、学舎の小鐘がちりんと鳴った。


 広間の空気が、波のように揺れる。

 善口が走り、悪口が追いかける。

 「名の婚約だって」「軽い」「重い」「見せるための恋だ」

 ラウラが机の端から**『音読掲示票』を出し、札の下に添える。

 「口の波は、耳で静まる。

 読み上げ人の名を付け、輪唱に」

 最前の子が手を挙げた。

 「読む! オト!」

 オトが、焦げ跡の札を胸に抱えて前へ出る。

 低いけれど、よく通る声。

 「『婚約を、名の約束として公開する。』」

 続けて、港の女が声を重ねる。

 「炊き出しのリタ、読む!

 『零番の約束――破る可能性を前提に置く』」

 声がひとつ、またひとつ重なり、合唱になっていく。

 善口も悪口も、輪唱の中で意味**へ戻る。


 王は階段をさらに一段降り、机の前に立った。

 皺の刻まれた指が、**『婚約誓約付録 名版』**の端に触れる。

 「若い。

 だが――空白がある」

 王はアリシアを見た。

 「余白を、人に持たせるやり方。

 先先代は、輪で余白を持った。

 お前たちは、名で余白を持つ。

 ――承認」

 その言葉は短く、硬く、重かった。

 承認が落ちた音に、広間の空気が一気に安堵でほどけた。


 その緩みを切り裂くように、背後の扉がどんと開く。

 灰を被った伝令が駆けこみ、ひざまずいた。

 「“狼の抜け道”掲示 ――再び剥がされました!**

 今度は、三重輪の黒札で封じが!」

 ざわめき。

 ラウラの顔が強張る。

 「輪=呼吸の読み替えに抵抗が、まだ城内に」

 殿下は詰め寄らない。

 小鐘を一度鳴らし、間を置く。

 「封じた名を、探す。

 黒札には、押した手の跡が残る」

 ルシアンがすでに走り出していた。

 「黒札剥がしは俺の手順だ」

 彼の背に、ベルトが**『受領票(名版)』**の束を投げる。

 「剥がしたら、名で受領しろ!」


 ふたたび学舎の小鐘。

 アリシアは机の端を軽く握り、言葉を置く。

「**“三重輪=匿名の呼吸”**は、今日で終わる。

 『輪=呼吸』を――『名が追いつくまでの呼吸』へ」

 彼女は広間の端に並んだ子どもたちへ向き直る。

 「“呼吸札”を配ります。

 『呼吸の回数/読む名/聞く名/止めた名』

 火の夜は、名のバケツで渡した。

 言葉の昼は、呼吸の札で渡す」

 ミナが布袋から札束を配り、セリーナが丸い字で書き方を教える。

 「『読むときは、吸って――吐いて』」

 子どもたちが真似をし、広間に規則的な呼吸が生まれた。

 王はその呼吸をじっと聞き、僅かに目を細める。

 「国の呼吸だ」


 再び、扉。

 ルシアンが戻ってきた。

 袖に黒い粉、指先に紙片。

 「黒札――三重輪。

 押した名は、なし。

 だが、紙の縁に“王室紋の微細抜き”。

 私室の作だ」

 広間の空気が緊張する。

 テオが一歩前へ。

 「僕の名で、黒札の剥離を告示する。

 二重輪を緩衝に使い、明朝、名で公開する」

 王は短くうなずいた。

 「私室の痛みは、私室の名で」

 テオは“告示札”にサインを置き、その場で音読した。

 若い声は震えず、耳に届いた。


 アリシアは深く息を吸い、最後の一札を手に取る。

 『名の婚約 掲示手順』

 ――『一、王座前で音読。二、学舎の棚で輪唱。三、市場で合唱。四、夜の灯前で再読。五、翌朝、二重輪の有無を掲示。』

 「手順を、名で刻む。

 恋を煽るためでなく、運用するために」

 広間の後ろで、誰かが笑い、誰かが泣いた。

 善口が、悪口を追い越した。


 王は階段の一番下まで降り、机の前で立ち止まる。

「名は、呼ばれなければ死ぬ。

 呼び続けよ」

 そう言うと、王は殿下に視線を移した。

 「婚約の名を、今呼べ」

 殿下は、机に置かれた白金の指輪を取った。

 内側には、空白。

 日付のない余白。

 彼はそれを掌で温め、一度だけ息を吹きかけてから、アリシアに向き直った。

 「アリシア」

 名が、王座前で呼ばれる。

 「俺は、君を“アリシア”と呼ぶ限り、何度でも婚約を申し込む。

 零番の約束を運用し、名で結ぶ」

 広間が静まる。

 アリシアは頷き、指輪を受け取り、はめない。

 彼女は羽根ペンを取り、内側に細く刻んだ。

 『証人/輪呼/祝詞』

 そして小さく笑って、殿下の掌を両手で包む。

 「今夜は、まだはめない。

 明朝、同じ名でありたいと思えたら――はめる」

 王の口元がわずかに緩み、学舎の小鐘がちりんと鳴った。


 その音に、広間の端で祝詞が起こる。

 セリーナが丸い声で始め、子どもたちが続いた。

 「名を、呼ぶ。名で、結ぶ。名で、戻る。」

 祝詞は祈りではなく、手順だった。

 その手順を、人々は自分の名で繋いでいく。


 日の傾きが、王座の背に長い影を落とし始めた頃。

 ベルトが控えから駆け出し、『受領票』を掲げる。

 「“狼の抜け道”掲示 再受領!

 剥がした名:――記入なし/受領者の名:ルシアン」

 「なしが残るうちは、明朝も読む」

 アリシアが言う。

 「名で空白を埋めるまでは、音読を止めない」


 王は最後に一つ、短く言葉を落とした。

 「国の呼吸は、一人の肺ではない。

 皆で吸い、皆で吐け」

 それが今日の、最も王らしい文だった。


 広間の扉が開き、人々が波のように外へ出ていく。

 輪唱は石段を降り、広場へ移る。

 市場の魚屋が読み、港の女が続け、子どもが笑って拾う。

 “名の婚約”は、噂ではなく、手順として街に降りた。


 静まり始めた王座前で、アリシアは深く息を吐いた。

 「……怖かった?」

 殿下が微笑む。

「怖い。

 でも、名で怖いのは、戻れるから」

 「声で怖いのは?」

 「消えるから」

 ふたりの間の間が、静かに整う。

 ルシアンが遠くで手を振り、ミナが子どもたちを整列させ、ラウラが新しい監査札の束を文官に渡す。

 手順が、生活になっていく。


 王座の階段の影で、テオが立ち止まり、譜面の切れ端に小さく書いた。

 『呼吸=呼んで吸う』

 彼はそれを胸にしまい、こちらを見て頷く。

 「明日の朝、二重輪の掲示を――僕の名で」

 「頼む」

 殿下が答え、アリシアはテオの肩を握る。

 「耳と口を、同じ速度に」


 最後の陽が高窓の縁を離れ、広間は淡い灰色に戻る。

 アリシアは白金の指輪を掌で転がし、空白を確かめた。

 零番の約束は、今日、国の手順になった。

 破る夜が来ても、戻る名は紙にも耳にも、王座前にも置かれている。


 扉の向こうで、人々の輪唱がまだ続いていた。

 「読む。聞く。返す。間。」

 その四拍子で、王都は新しい呼吸を覚えていく。


 アリシアは顔を上げた。

 「――次は、誰の名を呼ぶ?」

 殿下は目を細め、遠い先を見た。

 「“黒札”に名を。

 三重輪の貼り手を、名で」

 ふたりは並んで歩き出した。

 王座前から広場へ。

 名で結んだ婚約と、名で回る国の手順とを、同じ一呼吸で運ぶために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ