第22話 輪の核心
朝の光は、石に吸われて白くなる。
王城の北回廊を進むと、東棟とは違う匂い――乾いた麻糸と古い蝋、そしてわずかな金属の匂いが混ざっていた。
“輪の部屋”で見つかった焦げ札――**『会計室副回線』**の文字が、まだ指先に残っている。
「副回線の見出しは“R-0”」
ルシアンが低く言い、薄い板の上に手書きの地図を広げる。
「帳簿上の“L-2”を封じたら、こんどは**“R-0”。
“R”は輪(Ring)。“0”は“仮置き”――数字でも文字でもない、置き石だ」
ベルトが隣で頷く。
「“0”は帳尻を合わせるための空白。名を置かずに、数だけが通る。
長く使えば、声の貯まりになる」
私は指輪の空白を指で撫で、静かに呼吸を整えた。
――今朝の名。交点、覚書。
そこへ小さく簿割**と書き足す。名で目盛りを刻むために。
向かった先は、北棟の最奥――保管庫“輪芯”。
扉は重く、鍵が四つ。印は三つ。
扉番の老文官ハルトが杖で順に叩くと、内側から若い書記官補リスが顔を出した。
「用意は整いました。……ただ、会計長ラウラが、条件を出しています」
ラウラはすでに扉の脇で待っていて、乾いた微笑だけで挨拶を済ませた。
「“R-0”を開ける。名で。
但し、王族の私室の記録に触れるときは、二重輪と同様に一晩の緩衝を認めること。
“名の痛み”の速度を、最初から刺さないために」
「名で持つ緩衝なら、賛成です」
私が答えると、殿下――レオが小さく頷いた。
「名で運用し、翌朝公開。
その代わり、匿名緩衝は一切排す」
ラウラの目が細くなり、鷹揚に肩をすくめる。
「合意」
厚い扉が内側へ押し開いた。
中はひんやりとして、紙の濃い匂いがある。
四つの壁いっぱいに輪の印を刻んだ引き出し。
中央に低い机。上には殆ど触られていない羽根ペンと、透明な砂時計。
砂は下へ落ちている最中で、上はすでにわずか。
「**“砂尽きで閉まる部屋”**ね」
私の呟きに、ハルトが頷く。
「先代の癖だ。手順に時間を混ぜる。
だが、その“時間”こそが、匿名の温床になった」
ラウラが机の引き出しを一つ引く。
中から出てきたのは、薄い綴り――“R-0”の背表紙。
「開けるわよ」
恐る恐るではなく、整った所作で糸を切り、封蝋を割る。
**見えたのは、名ではなく、**古い貨幣記号の列だった。
「寄進の“影”……」
ベルトが眉を寄せる。
「“声”の時代の未収清算。
受取人が称号や記号しか持たないとき、“0”に仮置きして回線を通す。
“名の時代”に入ってからは、名で置き換えるべきだったのに――」
「――置き換えられていない」
私の言葉に、リスが頷いた。
「昨夜、“押し直し”があったのは“λ”。
でも、“R-0”は誰も押していない。
触られないまま、通り道だけが残っている」
“声”の幽霊が、紙の行間に潜んでいるように見えた。
数字は美しいのに、名がいない。
呼びかける相手のいない数列。
そのとき、背後の扉枠で気配が動いた。
若い足音。
私が振り向くより早く、殿下が一歩前に出る。
「テオ」
弟君――テオが、肩で息をしながら立っていた。
昨夜の“狐の私室”のあと、眠れていないに違いない。
「“R-0”を開けるって、聞いた。
“二重輪”に似てる。痛みを遅らせるための置き場」
「似ている。だが、ここは名を置き忘れた置き場だ」
私は綴りの最初の頁に指を這わせた。
「置き忘れを回収する。
名で」
ラウラが軽く咳払いをして、机に二枚の札を置く。
『名置換票(R-0)』
――『置換前:記号/置換後:名/理由/証人の名/公開掲示場所』
『補完告示(名版)』
――『“0”の穴を誰の名で埋めたか。期限と再点検日』
「“置換”は一点ずつ。急がない。
でも、止めない」
ラウラは言い切り、羽根ペンをテオに渡した。
「これを最初に書くのは、あなた」
テオは驚いて目を瞬いた。
「僕が?」
「二重輪に名を置いたのは君だ。
“痛みの速度”を扱えるのは、君のような耳の人だと思う」
殿下が微笑だけで頷き、私も小さく肩を押した。
テオは深呼吸し、名置換票の一行目に向き合う。
置換前:祭器保全(符丁R-0-17)/置換後:王妃療室・器機清掃(責:療室頭ミロ)
理由:祭器補修の名目で運用されていたため、実態に沿って名で置換
証人:テオ・ラウラ・アリシア
筆致は細く、しかし迷っていなかった。
「音読を」
私が促すと、テオは札を掲げて読んだ。
「『置換前:祭器保全。置換後:王妃療室・器機清掃。理由:名で置換。証人:テオ、ラウラ、アリシア。』」
声は震えなかった。
――耳の人が、口へ移った。
「次だ」
ベルトがもう一冊の束を示す。
R-0-03:巡礼馬車維持
私は記号の横に鉛筆で小さく“路”の文字を書き、昨日の狼の抜け道の図を思い出す。
「“巡礼馬車”の枠は、今は学舎の図書荷車に」
ルシアンが頷き、“名置換票”に走り書く。
置換後:学舎・移動棚整備(責:職人ミナ)
ミナの名を読み上げると、保管庫の空気が少し柔らかくなった。
記号が、人の体温に変わる瞬間だ。
砂時計の砂が尽き、機械仕掛けの鐘が小さく鳴った。
ハルトが肩を竦める。
「時間は切れた。だが――名は続けられる」
ラウラが扉の外へ合図し、書記を呼ぶ。
「臨時延長票(名版)。名を三つ書けば、砂はもう一度、人の手でひっくり返せる」
殿下、私、テオ――三つの名が記され、砂時計が再び上に満ちた。
その時、保管庫の奥で微かな金属音。
ルシアンが身を屈め、低く囁く。
「誰かいる」
細い棚の陰、木箱の裏――影が動く。
私は口を開きかけて、肩で殿下に合図した。
――呼ぶ。
殿下が頷き、静かに名前を置く。
「テオ」
弟君が一歩進み、柔らかな声で続けた。
「リス、そこにいるのは君?」
影がぴたりと止まり、しばしの沈黙ののち、リスが少し赤い顔で出てきた。
「すみません……。“R-0”の影刷りを見たくて。
水影紙はもう回収した。でも、影の癖が残ってないか、確かめたかった」
ラウラが眉を上げ、叱責の前に短く息をつく。
「言葉で来なさい。耳ではなく」
「はい」
リスが項垂れ、すぐに聴証札を取り出して自分の名を書いた。
聞いた:リス/言った:なし/合図:棚の鳴り
それを音読する。
「リスが聞いた。言った人はいない。合図は棚の鳴り。」
保管庫の空気が、またわずかに澄んだ。
「――で、肝心の**“R-0”の根はどこだ」
ルシアンが棚板を叩き、金具の響きを探る。
私も手のひらで木口を撫で、節目の位置を確かめた。
「ここ」
指が止まった。
棚の背板に、微かな輪。二重輪ではない。三重輪――極細の線が三つ、重なっている。
「“輪の核心”」
ラウラの声が低くなる。
「……そこは、王室直轄の余白。
先先代――祖王の時代に作られた“名の前”の貯蔵庫」
殿下が息を呑む。
「祖王は、声と名の中間に余白**を置いた。
“名で運ぶには早いが、声で運ぶには危険なもの”のための、半透明の部屋」
ベルトが記録札をめくり、古い数字の並びをたどる。
「飢饉の穀倉回復費、戦災孤児の養護費――
たしかに“名が足りなかった時代”には、必要だった」
私は三重輪に指を当てた。
金属の冷たさが骨へ染みる。
「……でも今は、名がある。
名の国へ戻すべき」
ラウラが黙って頷く。
「開ける」
ハルトとラウラが左右で留金を外し、殿下が中央の輪に指をかける。
重い背板がわずかに引き、奥の暗がりから革包みが現れる。
包みの表紙には、かすれた金文字。
『婚約誓約付録』
私は息を止めた。
「婚約……?」
殿下の手が止まる。
ラウラが短く説明した。
「王族の婚約は、国の貸借でもあった。
縁組に伴う“名の流れ”――嫁資、持参、保全、救済――それらをR-0で仮置きし、十年計で名に替えてきた。
声の時代は、それでしか動かなかった」
テオが小さく呻く。
「兄上の婚約破棄の金も、……ここに?」
ラウラは、肯定も否定もしない沈黙を置いた。
「開けましょう」
殿下が革包みの紐を解く。
中から現れたのは、薄い書付が数枚――
『王子側支出:安全弁“λ”への積み増し』
『縁組先支出:巡礼騎士団救護費振替』
『仲介:神殿口座“鷹”経由』
そして最後に、細い、しかし見覚えのある筆跡。
『誓約付録・言上 ――“名で運ぶ婚約”の試案』
署名:アリシア・エルフォード
私の喉が詰まり、視界が少し揺れた。
「……私?」
ベルトが紙端の印を指で叩く。
「日付は――夜会の翌朝。
“破棄”の混乱の中で、あなたが“名で運ぶ”と書いた草案が、ここに仮置きされていた」
ルシアンが笑いも咳も混じった息を漏らす。
「“過去の君”が、“今の君”に投げたボールだな」
殿下は書付をしばらく見つめ、それから私に差し出した。
紙は軽いはずなのに、腕が重い。
名で結ぶ婚約――私はあの朝、震える手でそれを書いたのだ。
「……これを、R-0から出す」
私は言った。
「名の棚に置く。
婚約を、国の貸借から外す。
名で呼び合う約束として、公開する」
ラウラが目を細め、首を横に振らない。
「反対はしない。
ただし、“王室の負債”はどこへ行く」
ベルトが即座に答えた。
「名回線へ。
王族の名と当事者の名で、分割掲示。
“名の学校”基金をハブに、十年計で名の寄付として処理。
匿名寄進は禁止。名で受け、名で返す」
殿下が私の手を握り、短く言う。
「俺の名で払う」
その声は、数字でも命令でもなく、名だった。
私は“名置換票”を引き寄せ、大見出しを書き換えた。
『R-0 婚約関連仮置き → 名回線移管表』
――『移管対象:婚約誓約付録/移管先:名回線α(公開録支所・学舎基金)/理由:婚約は“名の約束”であり、貸借の“声の溜め”ではない』
証人:アリシア、レオナルド、ラウラ、ハルト、テオ、リス、ベルト
私は一息置き、音読した。
「『移管対象:婚約誓約付録。移管先:名回線α。理由:婚約は“名の約束”。』」
読み終えると、殿下が静かに続ける。
「『証人:――』
俺」
彼の声のあとに、テオ、ラウラ、ハルト、ベルト、リスが続く。
名の列。
保管庫の空気が、国の温度になった。
その時、外で短いざわめき。
伝令が駆け込み、扉口で息を切らせる。
「狼の路掲示――一枚、剥がされた!」
ルシアンが即座に動き、扉へ向かった。
彼が出る直前、殿下と視線が合う。
「行って。
“狼”は外。ここは内を仕上げる」
ルシアンは頷き、影のように消えた。
私は革包みの最後の一紙を取り上げた。
『私契:名の婚約 ――零番の約束の運用について』
そこには、簡潔な条文が並んでいた。
> 一、破る可能性を前提に置く。
> 二、呼び戻すための名を、毎朝確認する。
> 三、国の約束を恋で補うな。恋で国を言い訳するな。
> 四、名の公開を恐れたときは、一晩だけ二重輪へ。翌朝、必ず出す。
署名欄の隣に、日付が空白のまま残っている。
私は震えない手で、今日の印を書いた。
“火の夜の翌朝”。
殿下も頷き、レオナルドと署し、紙を包みから取り出す。
「公開録へ」
ラウラが受け取り、封の上に名を刻む。
「王族の婚約を、名で公開する。
これは前例になる。悪口にも、善口にも」
「聞こえていい」
殿下の声は穏やかだった。
保管庫を出る頃、砂時計の砂はふたたび尽き、静かな鐘が鳴った。
廊に出ると、窓から風。
遠くで、子どもの音読――「置換前、置換後、理由――」
名の手順が、もう街へ広がっていた。
北中庭で、セリーナが待っていた。
帳面を抱え、私の手を握る。
「“名の棚”、今朝は焦げた札から読んだよ」
「ありがとう。……痛くなかった?」
「痛かった。でも、耳で読んだら、少し、喉に降りた」
セリーナは胸に手を当て、微笑む。
「レオは?」
「ここにいる」
殿下が近づき、セリーナに“婚約誓約付録”の控えを見せた。
彼女は目を丸くし、すぐに笑った。
「名で、婚約するんだね。
じゃあ、今日の私の名は――祝詞」
彼女は帳面に丸い字で書き、花の印を添えた。
その時、廊で足音。
ラウラが駆け寄り、小さな封筒を差し出す。
封蝋は三重輪。
「祖王時代の追補が見つかった。“輪の核心”の最後の鍵」
封を切ると、薄い紙に、ただ一行。
> 『輪は、名に戻すまでの呼吸である。』
私は目を閉じ、ゆっくりと呼吸した。
“呼吸”――火の夜、私たちがバケツを名で回したときに感じたもの。
輪は、止めるためじゃない。
整えるため。
名が追いつくまでの、間。
殿下が私の手を取る。
「アリシア」
名を呼ばれて、胸の奥が静かに温まる。
「婚約を、名で。
国の約束を、名で。
両方を、同じ一呼吸で結ぶ」
私は頷いた。
「零番の約束、運用開始。
破っても、呼び戻せるように」
「呼ぶのは?」
「レオ」
彼は笑い、僅かに目を細めた。
「戻れる」
中庭の掲示板に、『婚約誓約付録 名版』が貼られる。
読み上げの輪ができ、子どもが先に音読し、大人が続く。
善口も悪口も混じるだろう。
それでも――名は残る。
残した名は、路になる。
夕刻、ルシアンが戻ってきた。
灰を被り、袖に紙片を挟んでいる。
「“狼の路掲示”を剥がしたのは、狼じゃない。
輪だ。三重輪の札で上から覆っていた」
殿下の顔が引き締まる。
「城の内で、まだ匿名の呼吸が残っている」
ラウラが頷き、短く言った。
「明朝、“輪の核心”の掲示を音読する。
“輪=呼吸”の意味を、名で読み替える」
私は指輪の空白にそっと触れ、今夜の名を小さく刻んだ。
――輪呼。
呼吸で輪を回し、名で止める。
その両方を、呼ぶ。
空が群青に変わり、最初の星が灯る。
火の夜は過ぎた。
けれど、声の残滓も、匿名の呼吸も、まだどこかに残っている。
名は、毎朝、呼び直すしかない。
私は殿下の袖を軽く引いた。
「……指輪、今日の名を刻んでもいい?」
「もちろん」
私は胸の前で白金の輪を外し、羽根ペンで内側に一行、細く記した。
『証人/簿割/輪呼』
レオがそれを受け取り、口元で微笑む。
「今夜は、まだ、はめない?」
「“零番”だから」
私がそう言うと、彼の指が私の指先をそっと撫でた。
「明日の朝、同じ名でありたいと思ったら――」
「――はめる」
互いに小さく笑い合い、呼吸が重なった。
その刹那、遠くで太鼓。
ベルトの合図だ。
「路掲示、再掲完了。
“狼の抜け道”――名で読まれた」
風が運んでくるのは、子どもたちの声。
「路名:狼の抜け道――接続名――」
音が街を回り、夜が少し明るくなる。
“輪の核心”は開いた。
名に戻す呼吸が、動き始めた。
次に開くのは――王座の前だ。