第21話 夜の掲示
風の向きが変わったのは、鐘が三つ鳴ったあとだった。
王城の坂を駆け下りる途中で、煙の匂いが喉を刺す。
「学舎のほうだ!」
ルシアンが叫ぶ。
火の色が、夜の底をゆっくりと侵していく。
燃えているのは、“名の棚”のある中庭――昼間、子どもたちが「狼の路」を音読した場所だ。
「水桶を!」
ベルトの声が響く。
港の男たちが桶を担いで走る。だが、火は声を糧に膨らむ。
「急げ!」「ここだ!」「持ってこい!」
叫ぶたびに、炎が唸る。
音が風に食われ、火が言葉を吸う。
「やめて!」
アリシアの声が、風に逆らって響いた。
「命令の声じゃなく、名で呼んで!」
群衆の動きが一瞬止まる。
アリシアは倒れた桶のひとつを拾い、手のひらで側面を叩く。
「私はアリシア。受け取って――ベルト!」
ベルトが頷き、桶を受け取り、次の名を呼ぶ。
「ベルト、受け取った! 次――ルシアン!」
ルシアンが水をすくい、声を乗せるように投げる。
「ルシアン、投げる! ミナ!」
桶が光を反射し、放物線を描いて燃える棚へ飛ぶ。
水が炎に触れ、“声”をひとつ黙らせた。
「名のリレー……!」
少年オトが呟く。
アリシアは彼に頷いた。
「叫びは燃やす。名は渡す」
子どもたちが次々と名を叫んだ。
「オト! 渡す! ダリオ!」
「ダリオ! 渡す! リタ!」
名の連鎖が夜気を震わせ、火の手が次第に鈍っていく。
ルシアンが横で息を吐く。
「声の回線が、名の手順に上書きされる……」
アリシアは頷いた。
「火は“無名”を好む。
名を呼び合えば、燃やす余地がなくなる」
炎の柱が一つ、崩れた。
学舎の屋根の上で、焦げた木札が落ちる。
「名の棚を守れ!」
ミナが叫び、布を濡らしてかぶせる。
熱気が頬を打ち、髪の先が焼ける匂いがした。
「“狼の札”が焦げる!」
ベルトが声を上げる。
アリシアは火の中へ踏み込み、燃える札の束を掴んだ。
“狼の抜け道”――昨日、ガロが名を残した証言札。
「この名は、焼かせない!」
指の皮が焼ける痛み。
だが、札は離さない。
ルシアンが走り寄り、外套で包み、腕ごと水をかける。
「無茶を!」
「名を残すほうが、火より怖い」
アリシアの息が震えた。
「一度、名を失えば、また“声”の国に戻る」
風が一段と強くなった。
火の上に、誰かの笑い声。
「名を呼んでも、燃えるものは燃える!」
影の中に立つ男――ガロだ。
「狼は火を恐れない!」
「狼が火を恐れないなら、名が火を消す!」
アリシアは燃える棚を背に、ガロを見た。
「見ろ――お前の名は、もう“火の中”じゃなく“口の中”にある!」
群衆が彼の名を呼ぶ。
「ガロ! ガロ! ガロ!」
火の勢いが、一瞬止まった。
名前が呼吸に変わり、空気の流れが変わる。
炎が揺れ、煙が押し返された。
「……名で、風を変えた?」
ルシアンが呟く。
「火は“流れ”を奪う。
名は“流れ”を戻す」
アリシアは息を整え、ガロに手を差し出した。
「狼は、火を呼ぶな。名を呼べ。
“狼”じゃなく――ガロとして」
ガロはしばらく動かず、やがて手を伸ばした。
「……“狼”は名を食うが、火は名を残す。
今日だけは、“名”の側にいる」
火の勢いがようやく弱まり、最後の煙が空へ逃げた。
灰の上で、燃え残った札をベルトが拾い集める。
“狼の抜け道”、“耳の汚れ”、“水の影”――
焦げ跡を指でなぞりながら、彼は言った。
「焼け残った名こそ、公開に値する」
アリシアは頷き、札を一枚ずつ重ねる。
「明朝、この“焦げ跡”を掲示する。
火の夜を、“名の朝”にする」
夜明け前、港から再び人が集まり始めた。
狼の工房の若者たち、学舎の子ども、炊き出し所の女たち。
それぞれが、自分の名を声にした。
「配る!」「読む!」「濡らす!」「運ぶ!」
火を消す手順が、まるで祈りの順番のように続いていく。
アリシアはその光景を見ながら、呟いた。
「これはもう、王の手順じゃない。
“国の呼吸”だ」
ルシアンが笑う。
「“呼吸の国”――名でつながる、初めての夜だな」
やがて空が薄明るくなり、最初の鳥が鳴いた。
灰の中から、ひときわ黒い札が現れる。
『輪の控え 会計室副回線』
ルシアンが眉を寄せる。
「……まだある。
“輪”の中の“声”が、消えきってない」
アリシアは指輪の内側を撫で、今朝の名を刻んだ。
――消火、
その下に小さく、覚書。
「火の記録を、名で残す。
誰が消して、誰が燃やしたかを」
ミナが濡れた布を絞り、灰を拭いながら笑う。
「“燃えた名”って、案外強いね」
ベルトが頷く。
「焦げた文字は、二度読める。
最初の意味と、残したという事実の意味と」
アリシアは焦げ跡に指を置き、囁いた。
「“焦げた名”を、国の礎に」
陽が昇る。
“名の棚”に残った札が、光を受けてきらめく。
音読の札が風に揺れ、子どもたちの声が重なる。
「聞いた! 書いた! 読んだ!」
そのたび、炎の残滓が空気に散り、冷たさが戻っていく。
殿下――レオが坂の上から歩いてきた。
黒い外套の裾が灰を巻き上げる。
「アリシア」
「殿下……!」
彼は“狼の札”を受け取り、焦げ跡を見つめた。
「火の夜にも、名は燃え残る。
それを――国の文字にする」
彼の瞳に、朝日が差した。
「次は、“輪”を閉じる。
会計の奥――王室の名を、今度こそ明るみに」
アリシアは頷き、手を差し出す。
「王の名も、人の名も、
同じ紙に並べる日が、きっと来る」
レオはその手を握り、静かに言った。
「名で結ぶ婚約を――その日まで、預ける」
彼の掌が温かく、火の夜の名残が消えていく。
ルシアンが後ろで笑い、ミナが子どもたちに新しい札を配る。
「次の音読は、“焦げた名”から!」
「はい!」
声が上がり、朝の風がそれを連れていく。
火は消えた。
声は、名に戻った。
夜の掲示は、名の朝へと変わった。