第21話 夜の掲示
学舎の屋根が、夜風の中で鳴っていた。
“名の棚”のある書庫の窓辺に、赤い点が一つ、二つ。
火はまだ小さい――けれど、紙の匂いを知っている火だ。
私は走りながら指輪の内側に触れ、今夜の名を胸の奥へ押し込む。
聴手/消火。
石畳を蹴る音が、太鼓と鈴の合図に重なる。
ベルトの太鼓は短く二度、ルシアンの鈴は三度連ねる――「集合」→「水」。
学舎の門前でミナが叫んだ。
「水樽は裏! バケツは棚の横!」
彼女の首元の刺繍“ミナ”が、たいまつに揺れている。
セリーナは子どもたちを壁際へ集め、帳面を抱えながら落ち着いた声で言った。
「**名で呼ぶよ。走れる人は自分の名を言って、バケツを受け取って!」
「トム!」
「オト!」
「サーシャ!」
名が飛ぶ。足が動く。
私は書庫の扉へ駆け込み、煙の向こうに貼られた紙片を引き剥がした。
『声を返せ』――粗い板目の刷り。
隅には、狼でも鷹でもない刻印が押されている。
耳の印――昨夜塞いだ“狐”の残滓か、模倣だ。
「アリシア!」
背後でルシアンが桶を放る。私は受け取り、窓枠に注いだ。
小さな火は音もなく後退し、黒い縁を残した。
「名のリレーで行く」
私は振り向き、ミナと目を合わせる。
「先頭が名を叫ぶ。次の人はそれを繰り返して受け取る。
“おい”“そっち”は無し。名で回す」
ミナが腹の底から声を出す。
「ミナ、受ける!」
「ジョラン、渡す!」
「ダリオ、受けた!」
名が繋がるたび、水が弧になって夜気に散った。
書庫の内で、紙の端がくすぶっている。
私は**『聴証札』**を一枚破り、火の根に被せた。
耳で記録する札は、水を吸っても紙の腰が残る。
火はじゅっ、と短く鳴り、そこだけ静かな暗がりになった。
「消えた!」
子どもが叫ぶ。
「まだだ」
ルシアンが窓枠の煤を指で弾く。
「風下、もう一つ煙。裏口だ」
裏口へ回ると、そこにも赤が一つ息をしていた。
すでにベルトが待っている。
「路掲示票が狙われた。狼の路を朝に晒すと伝わっている」
「晒す。今、夜でも読む」
私は頷き、濡れた布で紙を庇いながら火を叩いた。
小さな火は、名の合唱に押されるようにしぼみ、黒い点だけを残す。
表に戻ると、広場に人が増えていた。
漁師、荷運び、洗場帰りの女、子ども、老いも若きも――名で呼ばれる人々。
私は掲示板の前に立ち、息を整える。
「音読掲示を始めます」
ざわめきが静かになり、風の音が耳に入る。
ベルトが巻物を開き、太い声で読み上げる。
「『路掲示票(名版)――狼の抜け道』
接続名:紙問屋リュネ、油屋ハンス、鍛冶ヤン、洞窟刷り“狼窟”。
掲示人の名:ベルト・ハーゲン、アリシア・エルフォード、ルシアン・コール、ミナ……」
名が響く。
誰かが小さく息を呑み、誰かが頷く。
列の端で、オトが胸を張った。
音という名は、音に強い。
「待て」
低い声が、聞くための静けさを裂いた。
人垣が割れ、肩に押し棒――ガロが出てきた。
昼の洞窟よりも、目は澄んでいる。
「俺の名も、そこにあるな」
ベルトが掲示の末尾を指し示す。
『証言:アリシア/名:ガロ(配る)』
「ある」
ガロは短く笑う。
「なら、俺の口でも言う。
“配る”」
石畳に落ちたその一語は、煽りではなかった。
告白。
ざわめきが一瞬だけ荒れ、すぐに収まる。
ミナが手を挙げた。
「“配る”と書いた名は、逃げない。
名は、戻れる。
今夜は戻らなくても、明日戻れる」
ガロの口元がわずかに揺れ、押し棒が肩から降りる。
「戻らない。……ただし、聞く」
私はうなずき、次の巻物を開いた。
『臨時告示 火の手順(名版)』
――『名のバケツリレー/先頭が名を呼ぶ、次が繰り返す/投げるときは名、受けるときも名/“おい”“そっち”は禁止』
読み上げると、子どもたちが面白がって笑った。
笑いの隙に、裏手で短い火花。誰かがくすぶらせた綿火が、風に煽られる。
「ミナ、右!」
私は指さし、叫ぶ。
「トム受ける!」「リナ渡す!」
名の鎖が一瞬で伸び、濡れた布と水が火点に重なった。
火はふっと吸い込まれ、灰に変わる。
広場の端で、散っていた紙片が足元に転がった。
私は拾い上げ、灯りに透かす。
水影紙。
昼に会計室から回収した束とは別――城の外で複写した影だ。
隅に小さな印。指の刺繍。
「衣装係じゃない。手袋屋」
ルシアンが唸る。
「狐の“耳”が、手に移った。
合図は塞いだのに、道具で真似をする」
「道具は、名で戻す」
私は札をめくり、**『用具受領票(名版)』**を取り出す。
――『受領者の名/受領品(目的)/返却予定/証人の名』
「手袋屋から出た水影紙は、名で受領・返却する。匿名の用具を、名の用具にする」
「そんな紙切れで、火は止まらん」
野太い声。
倉庫組合の古株――顎に白い髭を持つ男が前へ出た。
「火は、火で止める。
名で叫ぶ間に、燃え広がる」
ベルトが一歩進む。
「叫ぶのは名で、動くのは手順で。
名は速度じゃない、精度だ」
古株は鼻を鳴らし、肩をすくめた。
その肩越しに、オトが小さく手を挙げる。
「音で止めるのは?」
私は微笑んで頷く。
「音で合図して、名で渡す」
オトは桶を叩き、タン、タン、タンと等間を刻む。
間が列に広がり、名の呼応がその拍に乗った。
「ミナ!」
「ジョラン!」
「ダリオ!」
音と名の二重の鎖が、火の気配の先回りを始める。
やがて、灯りは落ち着いた。
焦げの縁を確認し、書庫の窓を開け放つ。
紙の匂いの向こうに、湿った夜の空気が流れ込む。
ルシアンが壁にもたれて息を吐いた。
「狐は塞いだ。
狼は吠えるだけで来なかった。
手の影を追えば、今夜の線は切れる」
私は頷き、掲示板の前に戻った。
「路掲示、続けます」
今度は私が読む。
読んだ人の名も、読むことそのものも、名で。
「紙問屋リュネ。
この名は、紙を切り出し、乾かし、束ねた手の名。
油屋ハンス。
この名は、光を混ぜ、字を運ばせた指の名。
鍛冶ヤン。
この名は、押し棒に力を与え、間で冷ます腕の名。
狼窟。
この名は、逃げる届くを刷った夜の名。
証言――アリシア。
この名は、見た者の名」
読み終えたとき、静かな拍手が起こった。
誰かが息を吐き、誰かが笑い、誰かが袖で目を拭いた。
ガロが押し棒を地に置き、両手を空にした。
「名で見せたら、力は残る。
……それでも、俺は“配る”」
「分かってる」
私は短く答えた。
「勧告は一度。
“配る”と書いた名は、聞かれる。
音読のたびに」
ガロは口の端だけで笑い、背を向けた。
「明朝、子分をひとり寄越す。
“読む”場所で、聞くためにな」
「歓迎する」
ミナが腕を組んだ。
「読むのは誰でもいい。
名で読めるなら」
そのとき、掲示板の端で紙が揺れた。
風ではない。
影が一つ、紙の後ろに滑る。
ルシアンが無言で踏み込み、紙をめくる。
裏側に貼りつけられた薄片――油取り紙。
火の染みが点々と。
「手の影、ここにも」
ベルトが油取り紙を“用具受領票”に糊留めし、太い字で書く。
受領者の名:ベルト・ハーゲン/受領品:油取り紙(放火痕)/返却予定:公開録箱へ
彼は紙を掲げ、朗々と読んだ。
「受領!」
人々の間に、安堵の笑いが広がる。
名で冗談を言えるとき、街は生きている。
火の見回りを一巡して、私は“名の棚”の前に立った。
焦げの縁のすぐそばで、丸い字の抄訳が無事に息をしている。
セリーナが帳面に今日の欄をひらき、静かに書いた。
「火を名で渡した」
私はその下に、小さく添える。
「夜でも読めた」
オトが遠慮がちに近づき、空になった桶を抱えたまま言った。
「音で、もっと上手くできる。
明日の朝、ぼく、読む」
「よろしく、オト」
私は笑い、彼の名を指で空に書いた。
それは夜気の中でほどけ、星の少ない空へ溶けていく。
ひとまず火は去った。
けれど、匂いだけが薄く残る。
私は掲示板の端に新しい小札を差した。
『夜間読上げ番(名版)』
――『番人の名/交代の時刻/鈴の合図/水樽の場所』
ミナが真っ先に名を書き、ジョランが続く。
ダリオも照れくさそうに列に並んだ。
列の最後で、ガロの子分が一歩だけ躊躇い、そして名を書いた。
「カイ」
ルシアンが私の肩を軽く叩く。
「吠える犬の耳が、読む場に来た」
「間が生まれる」
私は頷く。
「そこに名が入れる」
王城へ戻る坂の下で、ベルトが立ち止まった。
「今夜の受領票、全部で二十七。
名で受け取り、名で返す。
……眠れるか?」
「眠る。間が要る。
明日の朝、路掲示の第二面を読むために」
私は空を仰いだ。
薄い雲が流れ、鐘が一度、遠くで鳴る。
殿下が横に並び、低く言う。
「名で消したな」
「まだ“焦げ”が残っています」
「焦げは、記憶にする」
彼は掲示の控えを巻き取り、私に渡した。
「“燃えかけた夜の紙”――公開録の最初の頁に」
私は受け取り、胸に抱いた。
紙の温度は、人の手の温度だった。
坂を上る途中、セリーナが駆け寄ってきた。
「お母さまが、音を聞いて安心してた。
“読む音が、祈りに似ている”って」
私は立ち止まり、ゆっくりとうなずく。
祈りという名に、少しだけ別の意味が宿る夜。
声ではなく、名で、耳と手順を通った祈り。
城門の前で、ルシアンが立ち止まり、夜を振り返った。
「明朝、狼の路、第二面。
昼、手袋屋。
夜、何も燃えない夜」
「燃えない、は難しい」
私は笑う。
「だから、名で毎夜“読む”」
殿下が短く頷く。
「読む者の名を増やす。
“王子”の名も、番に入れる」
「……殿下が読み上げたら、泣く人が出ます」
「それでいい」
彼は照れくさそうに笑い、空を見た。
「泣いたら、戻れる」
学舎の灯りが一つ、ゆっくり消えた。
夜は深くなるが、名は夜を渡った。
私は指輪の空白に、今夜の最後の名をそっと刻む。
――渡守。
火と声の間に舟を置き、名で人を渡す役目。
風が止み、紙が静かに息をする。
明日の朝、また読む。
路を、名で。
怖さを、名で。
そして、戻り方を、名で。




