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第20話 狐の私室

 夜半。王城の廊は、石の目地に音を吸わせている。

 歩くたび、靴底と石のあいだで、言葉にならない小さな音が生まれて、すぐ消えた。

 私は灯りを一つ手に、ルシアンと並んで東棟を抜ける。

 向かう先は、私室――“二重輪”の控えが一晩だけ保管される、王子テオの部屋の手前の小部屋だ。


 「狐は路を作らない」

 ルシアンが囁く。

 「印も札も嫌う。耳だけで回す。合図、咳払い、指の数、扉の叩き方――“名を言わずに動く術”が狐の本体だ」

 「なら、“聞いたもの”を名に変える」

 私は袖の内から、今夜のために作った新札を出した。

 『聴証札ちょうしょうさつ

 ――『聞いた人の名/言った人の名/場所/言葉/合図/時』

 ルシアンが口笛を飲み込む。

「“音読掲示”の耳版か」

 「耳の手順よ。言葉が紙に来る前に、耳で責任を可視化する」


 テオの私室前は静かだった。

 扉に触れると、内側の空気がわずかに揺れる。

 私は扉を二度、軽く叩いた。

 中から返るのは――一度、を置いて、もう一度。

 ルシアンの肩がわずかに上がる。

 「狐の合図だ。『見張りは一人、隙あり』」

 扉が開き、若い小姓が顔を出した。

 「アリシア様?」

 「テオに用がある。今夜だけ“名の学校”の事務所を、ここに開く」

 小姓は目を瞬き、すぐに頷いて道をあけた。


 私室は驚くほど簡素で、机が一つ、椅子が二脚。

 壁には譜面台。音符が少しだけ書かれ、消された跡が残っている。

 「兄上に言葉を渡す前に、音にしてみるんだ」

 テオが照れくさそうに笑う。

 その笑みが一瞬で消える。

 「“二重輪”の控え、複写されたの?」

 「複写できる紙が、どこかにある。水影紙――上の筆圧を下に写す薄い紙。

 狐は、紙を運ばず、合図で“重ねた”」

 私が答えると、テオは椅子を持ってきて座らせ、机の引き出しを一つずつ出した。

 底に薄い板。板の端に、細い切れ目。

 そこへ人差し指を差し込むと、板がすべり、別の薄板がのぞいた。

 薄板の下に、さらに薄い紙――水影紙。

 テオの喉がこくりと鳴る。

 「……僕は、知らなかった」

 ルシアンが身を屈め、紙の端の繊維を指でなぞった。

 「会計補の筆圧だ。おそらく――エルマン」

 「でも、部屋へは入っていない。狐は鍵を使わない。合図で動く仲間が中にいる」

 私は部屋の隅を見た。

 譜面台の下、床板の釘が一本だけ新しい。

 指の腹で軽く弾くと、音が違う。

 床板を外す。

 下から出てきたのは、見張り鏡――廊下の足音を見るための小さな覗き窓、そして短い合図表。

 “咳一つ=安全”/“咳二つ=外の見張り”/“足音三=二人”

 ルシアンが息を吐く。

 「“耳の回路図”だな」


 「テオ」

 扉のほうで声。

 殿下――レオが、控えの間から現れた。

 外套の袖にこまかな紙粉。会計室で符丁札を名札に替えていたのだろう。

 「狐は“鍵”ではなく“合図”で、君の“二重輪”に触れた。

 善意の余白が、匿名の穴になった」

 テオは頷き、目を伏せた。

 「……僕の“緩衝”は、僕の名で持つ。

 “匿名の緩衝”を、ここから追い出して」

 「やる」

 私は“聴証札”を机に並べ、扉へ向き直った。


 扉の向こうの廊下で、足音。

 二歩置いて、一歩――狐の合図。

 私は扉を開けず、声を置いた。

 「聴証に来ました。

 聞いた人の名と、言った人の名を、今ここで」

 沈黙。

 短い咳が一つ、続けて二つ――様子見と退がれ。

 ルシアンが壁に背を付け、身を沈める。

 「来ない。狐は、耳が見えると逃げる」

 「逃げ道を、名で囲う」

 私は小姓に目配せし、廊の角二か所に小卓を出させる。

 『聴証札』と『音読掲示票』。

 「この廊を通る言葉は、耳で記録し、口で掲示する。

 咳も、足音も、合図なら合図と書く」

 小姓が喉を鳴らし、勇気を出して最初の札に自分の名を書いた。

 聞いた人の名:コルン/言った人の名:不明/合図:咳一つ、咳二つ

 テオも続く。

 聞いた人の名:テオ/言った人の名:小姓の来客/合図:二歩置いて一歩

 札は控えの間の板に貼られ、音読された。

 「コルン、聞いた。テオ、聞いた。」

 廊の空気が、耳を自覚する空気に変わる。


 「――やめて」

 廊の奥で、低い声がした。

 女官の一人が、顔色をなくして立っていた。

 白い手袋。清潔すぎる襞。

 胸元の小さな刺繍――目。

 私は見覚えがあった。

 王妃付の衣装係、目立たず、いつも“見ている”人。

 「イレナ」

 彼女は肩を跳ねさせ、目を閉じた。

 「……やめて。音にされると、逃げられない」

 「逃げないで。名で話す」

 私が近づくと、彼女は一歩退いた。

 手袋の内側、指先に黒い薄汚れ――油と水、そして紙粉。

 「洞窟刷りに、行った?」

 「行ってない。……合図だけ」

 「誰から」

 イレナの喉が震え、やがて細い声で言った。

 「会計長補のエルマン。

 “二重輪”の“明日の掲示”だけ、一晩遅らせてと言われた。

 “王妃様を守るために”。

 私は……合図を扉に置いた。

 咳一つ。

 二歩置いて一歩。

 鍵は使ってない。

 言葉も、使ってない」

 テオの顔から血が引く。

 「母上の守りを、合図にした」

 イレナは両手を胸に当て、必死に首を振る。

 「守りたかったの。名で晒されるのが、怖くて」

 私の胸が痛む。

 “名の国”の痛み――きれいな人の手にも、乗る。


 「イレナ」

 私は聴証札を差し出した。

 「言葉で、書いて。

 あなたの名で、合図を“言葉”にして」

 彼女は長い間、紙を見ていた。

 やがて、細い字で書いた。

 聞いた人の名:イレナ/言った人の名:エルマン/場所:私室前/言葉:『明日の掲示を一晩遅らせて』/合図:咳一つ、二歩置いて一歩/時:昨夜の三つ鐘と二つ

 書き終えたとき、彼女は泣いていた。

 私はそっと札の角に空白の活字片を重ね、テオに渡す。

 「音読を」

 テオはうなずき、札を掲げて読んだ。

 「イレナが聞いた。エルマンが言った。ここで、昨夜。」

 耳で公開された言葉は、身体から離れ、手順へ移った。


 そのときだ。

 廊の奥、見張りの陰から、軽い拍手。

 「耳まで札にするとは、器用だな」

 出てきたのは――会計長補エルマン。

 昼の拘束から解かれ、いつの間にかここへ。

 唇の端に、嘲りの色。

 「“二重輪”の緩衝は、美しい。

 だが、名は美しさに耐えない」

 殿下の声が硬くなる。

 「名で耐える。

 それが“名の国”だ」

 エルマンは肩を竦め、袖の内から薄い紙片を広げた。

 水影紙――“二重輪”告示の影。

 「合図で紙は動かない。

 動くのは人だ」

 その紙を、彼は火の灯りに近づけた。

 水影紙は炎に弱い。あっけなく、燃える。

 イレナが短く叫び、テオが一歩踏み出した。

 私は彼の袖を取る。

 「影は燃える。

 でも、“名の本体”は燃えない」

 私は机から**『二重輪 運用告示(名版)』**の控えを取り、音読掲示の札を重ねた。

 「名で、今読む」

 殿下がうなずき、テオと一緒に読み上げる。

 「『二重輪 運用告示(名版)――目的、運用者の名、監査の名、期間:一晩。翌朝必ず公開掲示。』」

 今読まれたものは、今から効く。

 エルマンの顔から、薄い色が剥がれた。


 「エルマン」

 殿下が静かに言う。

 「名で、答えろ。

 “二重輪”の匿名緩衝を、誰のために仕掛けた」

 エルマンは一瞬、迷い――笑った。

 「誰のためでもない。

 “声のため”だ」

 「なら、声に戻れ」

 ルシアンが歩み出て、彼の手首を取った。

 抵抗は弱い。

 狐は、耳を塞がれると、牙を見せる前に、声で自分を溶かす。

 私は聴証札をもう一枚出し、最後の欄を書き足した。

 『聴証の結果:名で告げられたため、匿名の合図回線は停止/封印者の名:レオナルド・アリシア・テオ』

 札を掲げ、音読する。

 「合図回線、停止」


 イレナがすすり泣きを止め、深く頭を下げた。

 「私の名で、王妃様に謝ります」

 「謝罪は名で。赦しは名のあとで」

 私は頷き、手袋を受け取って裏返した。

 内側の黒い薄汚れ――耳で運んだ証拠。

 「これは、公開録の小箱に入れよう。

 『耳の汚れ』という見出しで」


 控えの間の壁に、聴証札が増えていく。

 コルン、テオ、イレナ、私、殿下。

 耳の列。

 数が揃うと、廊の静けさが別の質になった。

 “囁き”の居場所に、名の光が差し込む。


 部屋へ戻ると、テオは机の譜面台に紙を置いた。

 音符が一つ、また一つ。

 「……怖い」

 彼は正直に言った。

 「名で痛むのが、怖い。

 でも、合図で痛むのは、もっと嫌だ」

 殿下が肩に手を置く。

 「名で痛もう。

 “二重輪”は、名で運用する」

 テオは頷き、譜面に小さく書いた。

 『=呼吸一つ』

 「読み上げる人は、ここで間を取る。

 “痛み”を、飲み込める速度で」


 ルシアンが窓の鍵を確かめ、外の闇を見た。

 「狐は塞いだ。

 残りは、明朝の路掲示。狼の路を耳でも目でも晒す」

 「それと――会計室の裏紙の回収」

 ラウラが入ってきて、薄い包みを掲げた。

 「“水影紙”の束。名で受領する。

 封印:ラウラ・ハルト・アリシア。

 匿名の余白は、これで城から消える」

 私は受領票に名を書き、包みを公開録の小箱に入れた。

 “耳の汚れ”“水の影”――どちらも、名で可視化される。


 「アリシア」

 殿下の声。

 「今夜、君の今日の名は?」

 私は指輪の内側を撫で、静かに答えた。

 「聴手リスナー

 耳で受け取り、紙へ渡す人」

 殿下は笑って、私の掌を軽く叩いた。

 「書き手の隣に、聴き手。

 それで、言葉は倒れない」


 灯りを落とし、私たちは部屋を出た。

 廊の壁で、聴証札が静かに揺れる。

 “耳”が可視化されたこの廊は、もう狐のものではない。


 階段を降りる途中、ルシアンが足を止めた。

 「……匂う」

 「油?」

 「いや。煙。

 狼の路か、狐の巣か」

 遠く、学舎のほうで鈴が鳴った――音札。

 続けて太鼓。

 ベルトの合図だ。

 私は息を呑み、殿下と顔を見合わせる。

 「明朝の路掲示を狙う火?」

 「走る」

 殿下が短く言い、私たちは石段を駆け下りた。


 夜気が強くなる。

 “名の棚”の方角に、ぽつ、と朱が灯った。

 私は胸の指輪の空白に、最後の一語を刻む。

 ――消火エクスティンクト

 声で煽られる火には、名で水を。

 名で呼び、耳で確かめ、手順で消す。


 風が一度、強く吹いた。

 火の匂いが、こちらへ向かってくる。


 ――夜の掲示は、燃やさせない。

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