第19話 狼の抜け道
日暮れ前の風は、港の塩をほどよく薄め、倉庫街の埃を舞い上げた。
屋根の影は長く、桟橋の端で子どもが縄を跳ぶたび、影も跳ねた。
「ここが“北抜け”の口」
ルシアンが指さしたのは、倉庫組合本棟の裏にある石垣だった。
何の飾りもない壁。だが、膝の高さにだけ石の新旧が違う。
「運搬表では“雨水抜き”。実際は紙束と版木の通り道」
ベルトが手帳を開き、細い鉛筆で線を結んでいく。
「表回線“鷹”を切られてから、ここ“狼”に負荷が集中。流量が増えた痕跡がある」
「吠える方の狼だ」
ルシアンがしゃがみ込み、石を二つ外す。
中は低い横穴。湿った空気、油の薄い匂い、そして火を使った新しい煤。
私は指輪の空白に触れ、今夜の名を確かめる。
――交点、緩衝。
もう一つ、小さく**勧告**と書き足す。名で告げるための名。
腰を落として潜り、私が先、ルシアンが後ろ。ベルトは穴の口で見張り、合図役を引き受ける。
「異常があれば、音札を鳴らす」
彼が紙片を指で弾くと、薄い鈴の音がした。アルムが作った新しい札だ。
横穴は思ったより長く、膝と掌が冷たく濡れる。
やがて音が増える。水の滴る音、布の擦れる音、押し棒の軋む音。
穴が広がり、岩肌の天井が開けた。
――洞窟刷り。
水路が一本、洞窟の奥から流れ込み、浅瀬に縄張りされた板の上で紙が乾く。
壁際には粗い印刷台。押し棒は木製で、鉄の補強が乱暴だ。
灯りは焚き火に近い松明。煤が天井を黒く染めていた。
「止まれ!」
最初に声を上げたのは、肩に狼の焼印をもつ若者――昨日、港で“名は弱い”を配っていた男だ。
彼は私を見るなり顎をあげ、笑った。
「また来たのか、名の女。ここは声の穴だ。名は通さない」
「通す」
私は迷わず答えた。
「名の札を持って来た。勧告を出すために。刷り場を“公開録の支所”に切り替える」
若者は肩を揺らす。
「切り替え? 誰の名で」
「私の名で。受けて、君の名で返して」
「要らない」
背後で別の声が響いた。
低く乾いた声。
男が一人、影から出る。髪は短く刈られ、左頬に古傷。
肩には狼の刻印の上から布が巻かれている。
「俺が“狼の棟梁”――ガロだ。
“名の札”は置いてけ。ここで焚き付けに使う」
ルシアンが一歩踏み出し、私の肩越しに言う。
「“狼”の回線は、寄進の裏口から紙と油を回し、雛形で“声”を刷って回る。
港も会計も名で塞いだ。
残るはここ――刷る場所そのものだ」
ガロは押し棒を片手で持ち上げ、軽々と肩に置いた。
「刷る場所を止める? 印刷は鍛冶だ。火と力だ。名は紙の上でしか強くない」
私は首を振る。
「間を置かない刷りは、鍛冶じゃない。焼き畑だ。
鍛冶は鉄を冷まして、また打つ。
あなたは冷ますを持っていない」
洞窟の湿った空気がわずかに揺れる。
ガロの目が細くなる。
「冷ましは臆病の別名だ」
「違う。手順の別名」
私はアルムが刷った**『名の証言札』と、今朝ベルトと整えた『臨時付替命令(名版)』の小型版を取り出し、石の台に置いた。
「“狼”の印刷を、名に引き込む。
版木には誰が彫ったかの名、押し棒には押した者の名、束には配り手の名。
すべて刷り込む**。
受けるなら、今」
若者が嗤い、ガロは押し棒を床に打ち付けた。
「名を刷れば強くなると? 弱くなるさ。
名は捕まる。声は逃げる。
だが逃げる声は、それでも届く。
俺たちが刷るのは、逃げる届くだ」
静かな怒りが胸に上がりかけたところで、ルシアンが短く咳払いし、私に視線で合図を送る。
――間。
私は頷き、息を一度大きく吐く。
「ガロ。あなたに勧告する。
“狼の抜け道”を公開して、名で繋ぎ直すか。
さもなくば、この場を封鎖する。
――“名の封鎖”で」
ガロの顎がわずかに動いた。笑いが薄くなる。
「名の封鎖?」
「名の証言で、狼に手を貸す名を町中に掲示する。
版木屋、油屋、紙問屋――名で繋いでいる路を、名で切る。
声の路じゃなく、名の路を止める」
洞窟の奥で、押し棒の音が一度止まり、また動き出す。
若者が舌打ちした。
「脅しか」
「手順だ」
ルシアンが低く言い、外套の内から短い紐束を取り出す。
「律線は使わない。
俺たちは名で縛る。
――見せるだけで、効く」
紐束の端に、小さな紙の輪。名の札の小片が結び目になっている。
ガロが目だけでその輪を追い、鼻で笑った。
「紙の輪で、狼を縛るか」
「狼じゃない。狼の路だ」
私は言い、洞窟の床にチョークで線を引いた。
狼の印(刻印)→紙問屋→油屋→鍛冶→洞窟
その横に、名の札の見出しを置く。
「この路の名を、今夜、学舎の棚と港の掲示に並べる。
名で路を可視化する。
声は逃げるが、路は逃げない」
ガロが押し棒を持ち直し、二歩、こちらへ。
ルシアンが半歩出て、肩で受け止める体勢を作る。
私は動かない。
吠える犬に、名の札を。
それが今朝、ルシアンと決めた役割分担だ。
ガロは眼前で押し棒を止め、私の額の高さに木先を浮かせた。
「名で路を切ると言うなら、俺の名を書け。
“ガロ”。狼の棟梁。
それで、終わると思うなよ」
私は小さく頷き、札に書いた。
証言:アリシア/名:ガロ
筆の先が震えないことだけを確かめ、顔を上げる。
「書いた。
あなたも書いて。
配るのをやめるとは書けないなら――配ると書いて」
短い沈黙。
ガロは押し棒を下ろし、札に荒い字で書いた。
配る
そして、押し棒で札をひと突き――破らず、穴だけを開けた。
「ここに掛けていけ」
彼は洞窟の入口の岩角を顎で示す。
「“配る”と書いた俺の名。
逃げはしない」
私は札を岩に吊るし、糸を固く結んだ。
結び目に、アルムの空白活字の小片を挟む。
間を示すために。
ガロはそれを見て笑い、今度は少しだけ柔らかい声で言った。
「名は弱い。だが、見せに来る名は、弱くない」
「“吠える犬”のやり口ね」
ルシアンが肩をすくめる。
「吠えているうちは、まだ戻れる」
ガロの口元がわずかに歪む。
「戻らない。
だが――話すことは、やめない」
それは、今夜の最善に近い言葉だった。
洞窟を出ると、北風が少し強くなっていた。
穴の口で待っていたベルトが、音札を鳴らさずに親指を立てる。
「路の名、拾えたか」
「拾えた。狼印→紙→油→鍛冶→洞窟」
私は手帳に写して渡す。
ベルトは即座に雛形を作り始めた。
『路掲示票(名版)』
――『路名:狼の抜け道/接続名:紙問屋○○、油屋○○、鍛冶○○、洞窟刷り“狼窟”/掲示人の名:□□□』
「明朝、港と学舎に音読掲示する」
彼は頷き、紙束を胸に抱え直した。
帰路の途中、倉庫の角で子どもたちの笑い声。
振り返ると、昼間“枠”から“オト”になった少年が、空になった桶を叩いて遊んでいる。
彼は私に気づき、両手で輪を作った。
空白。
私は頷き、指輪の内側を撫でた。
――今夜の名、勧告。
告げる名を、押しつけにしないこと。間を残し、路を見せるだけにすること。
王城に戻ると、会計室の前でラウラが待っていた。
「“二重輪”の告示、テオ殿下の署名が入った」
彼女は紙を掲げる。
細い字でテオの名。
下に、彼自身の言葉。
> 『名の痛みを、一晩、僕の部屋で受け止める』
殿下は紙に目を落とし、短く息をついた。
「ありがとう、テオ」
呟きは誰にも聞こえないほど低かったが、確かにそこにあった。
夜半。
“名の棚”の前で、ミナが灯りを守り、セリーナが帳面を開いて待っていた。
「洞窟は?」
「勧告した。明朝、路の名を掲示に出す」
セリーナは頷き、帳面の今日こわかったことの欄に小さな字で書く。
“狼は、戻らない、と言った”
私は横に、さらに小さく書き足した。
“でも、話すとは言った”
ミナが鼻を鳴らして笑い、子どもたちに丸い字の抄訳を読んで聞かせる。
「“こわがらせる道具は、ぜんぶすてます”」
言葉が、耳でまた公開される。
その時だった。
学舎の裏口で、薄い鈴の音――音札。
ベルトが駆け込んできた。
「路掲示票の写しが、一枚消えた」
「消えた?」
「狼でも鷹でもない。輪の印。
――“二重輪”の札を複写できる紙が、どこかにある」
ラウラの顔がわずかに硬くなる。
「会計室の私室から漏れた?」
殿下は短く首を振った。
「テオは署名したばかりだ。誰かが――名での公開を遅らせる“緩衝”を別に作っている」
別の緩衝。
“痛みを受け止める余白”ではなく、名をねじ曲げる余白。
私は指輪の空白に指を当て、静かに吐息を落とした。
緩衝は必要だ。
けれど、誰の名で持つか。
それを曖昧にすれば、再び声の穴になる。
「次は――私室だ」
殿下の声は低い。
「二重輪の紙を複写できる者が、城のどこかにいる。
“狼”は外、“輪”は内。
今夜は外の路を押さえた。
明晩、部屋を押さえる」
ルシアンが頷き、腰の紐束を確かめる。
「吠える犬の次は、囁く狐だ」
「狐?」
「路を作らず、耳だけで回すやつらだ。
名を言わず、合図だけで動く。
――名の札が一番効く相手だ」
学舎の窓から夜風が入り、紙の角が鳴った。
子どもが眠り、ミナが灯りを少し落とす。
セリーナは帳面に新しいページを開き、最上段に丸い文字で書いた。
『名で、夜を渡る』
私は頷き、指輪の内側に今夜の最後の一語を小さく刻む。
――勧告。
告げるのは一度。
あとは、見せる。
路と、名と、間を。
外で、波の音が少し高くなる。
狼の路は明朝、掲示に晒される。
狐の耳は、明晩、名で塞ぐ。
私は灯りを消さず、椅子に背を預け、目を閉じた。
“零番の約束”を思い出す。
破る夜も、戻る名がある。
戻るための名を、明日もまた、刷らずに、書く。