第18話 輪の部屋
王城の東棟は、朝よりも遅れて目を覚ます。
文官たちの靴音は軽く、紙をめくる音は海の波より静かだ。
王室会計室――通称“輪の部屋”は、そのさらに奥、陽の入りに背を向ける位置にある。
扉の上に、見慣れた紋――十字の上に、極小の輪。
装飾と言い張るには素朴で、目印と言い張るには小さすぎる印。
ルシアンが横に立ち、低く囁く。
「扉番は老文官のハルトだ。数字の鬼。鍵は三つ、印は二つ」
私は頷き、指輪の空白をなぞった。
今日の名――交点。
回線と回線が交わる場所に立ち、名で連結し直す役目。
扉を二度叩くと、中から咳払い。
鍵が一つ、二つ、三つ。
扉が開く。灰色の髪、細い眼鏡、乾いた指。
「事務は始業前だが、王命なら開く」
ハルトの声は砂のように乾いていた。
私は札を差し出す。
『臨時閲覧願(名版)/閲覧者の名:アリシア・エルフォード/証言者の名:レオナルド/理由:回線“極小の輪”の確認』
ハルトの眉が揺れ、微かな息。
「王子殿下の名が“証言者”……奇妙な順序だ」
「名は上から降りない。横につながる」
私が答えると、彼はほんの少しだけ目を細め、身を引いた。
「入れ」
“輪の部屋”は、想像より狭かった。
壁一面に細い引き出し。番号ではなく、符丁が刻まれている。
輪、羽、石、波、針――名ではなく、記号。
ハルトは杖の先で「輪」の列を示した。
「玉座核に関わる補助出納はここだ。符丁は旧式。……変えるべきだと思っていた」
「変えましょう。名に」
「記号が消えるまでに、どれほどの手間が?」
「必要なだけ」
私が真顔で言うと、ルシアンが吹き出しそうになり、慌てて咳に変えた。
ハルトは、輪の引き出しの中から三冊の控えを出した。
薄い皮表紙。角が磨り減り、指の油で滑らかだ。
私は手袋を外し、一頁目に触れる。
数字の並びはきれいだ。
けれど、ところどころに、細く輪が刻まれている。
「ここ。“補修線λ(ラムダ)”」
ルシアンが覗き込み、眉をひそめる。
「“λ”は、玉座核の心拍を模す符丁だ。……まだ生きてるつもりか」
ハルトの喉が鳴った。
「“λ”は、先代が置いた安全弁だ。核の周波を整えるための最終枠。
だが――」
彼は一拍置いて、私を見る。
「だが、近年は“声の雛形”に使われた。核が止まると困る、と。
“恐れ”を理由に、継続出納が温存された」
「止めましょう」
私が言うと、ハルトは笑った。
砂が擦れるような、短い笑い。
「簡単に言う。だが、“λ”を切るには二重署名がいる。会計長と、王族の名だ」
「王は?」
「朝議中だ。王妃は療養。王子は……」
「ここに来る」
私が言い終える前に、扉が二度叩かれた。
レオナルド殿下が入ってきた。
外套の埃を払う暇もない。
「“狼”の回線の報告はルシアンに任せた。こちらは“輪”だな」
ハルトが眉を上げる。
「殿下。二重署名の片割れが、こんなに早く」
「“零番の約束”を使った。嫉妬せずに来られた」
私が笑いを噛み、ハルトが目を瞬いた。意味は分からないが、必要な速度で来た、ということだけは伝わったらしい。
ハルトは机の上に二枚の札を置いた。
『臨時封印票(λ)』『回線付替命令(名版)』
「“λ”の封印と、名回線への付け替え。
封印には会計長の名もいる」
「会計長は?」
「――まだ、来ていない」
その瞬間、部屋の空気が少し冷えた。
“まだ来ていない”という言い回しは、数字の人間の警戒だ。
私は周囲を見渡した。引き出しの影、積まれた帳簿、灯りの角度。
扉の外で、やわらかい足音。
控えの間の布が揺れ、女が入ってきた。
まだ若い。髪はひとつに結い、目線はまっすぐ。
胸元に小さく針の符丁。
「書記官補のリスです。……“λ”の封印について、告発があります」
ハルトの背がわずかに伸びた。
「リス。何を見た」
リスは私と殿下を認めると、膝を折って簡潔に頭を下げ、卓上に一枚の薄紙を置いた。
「昨夜、補助出納控の綴じ替えが行われました。
“λ”の継続出納に、市井事業の領収を混ぜる細工が。
――“炊き出し”や“療室”の名が“λ”の備考欄に入っています」
殿下の眼差しが鋭くなる。
「“名”を盾に、“声”を延命?」
「はい。名の看板を、声の回線に貼り替えた。
日付印が、薄い。押し直しの跡があります」
ハルトは震える指で紙を持ち上げた。
「押し直しは、規程違反だ」
声は静かだが、怒っていた。
私はすぐに札を出した。
『保全命令(名版)/命令者の名:アリシア/対象:補助出納控“λ”綴じ/理由:名の看板の不正貼替の疑い』
殿下が続けて羽根ペンを取り、証人に名を書いた。
レオナルド、ハルト、リス。
ルシアンが扉際に移り、廊下を見張る。
「会計長が来る前に、現状のまま封を」
ハルトが頷き、封蝋の準備をしたそのとき――
扉の向こうで、別の靴音。
高い踵、ため息の混じる呼吸。
会計長が入ってきた。
女だった。
歳は、王妃より少し若い。
潔癖な身なり、端正な顔、冷たい目。
胸には輪の符丁。
「会計長ラウラ。朝議前に呼びつけるとは、豪胆ね」
殿下が一歩進む。
「“λ”を封じに来た」
ラウラの目が笑った。
「封じる? 安全弁を?」
「“声の回線”の安全弁だ。人の安全ではない」
ラウラは机に歩み寄り、控えを一瞥した。
押し直しの跡、薄い日付印。
唇がわずかに上がる。
「書記官補。あなたが“押し直し”と言うなら、押した者の名を」
リスは怯まない。
「会計長補のエルマンです。昨夜、裏口から入って――」
「根拠は?」
「インクの匂いです。……あの男は、港の洞窟刷りにも出入りしている。
油と水の匂いが、紙に残っていた」
ラウラの目が小さく揺れ、すぐに戻った。
「匂いで名を断ずるとは、原始的ね」
「名は、身体に残る」
私が静かに言うと、ラウラがようやく私を真正面から見た。
「あなたが、名で結ぶの女」
「アリシアです。……“λ”を封じ、名回線へ付け替える。
その前に、名の手順で確かめましょう。
――“押し直し”をした者に、名で名乗ってもらう」
ラウラは肩を竦めた。
「呼べば来ると? 呼んでみなさい」
私は扉側のルシアンに目をやる。
彼は頷き、廊下へ出た。
ほんの数呼吸の後、戻ってきたときには、一人の男の襟を掴んでいた。
痩せぎす、指はインクで黒く、目は落ち着かない。
「逃げ足は速い。だが、名は残る」
ルシアンが言い、男――エルマンを卓に押しやる。
ラウラが眉を上げる。
「会計長補に手を上げるとは」
「逃げる手を、名で止めただけだ」
殿下が遮った。
「エルマン。名で答えろ。昨夜、押し直しをしたか」
エルマンの喉が動き、視線が泳ぐ。
ハルトが机の引き出しから一枚の紙を出した。
『名の証言札』
「ここに名を書けば、あなたは“言った人”になる。
書かなければ、あなたは“声の人”のままだ」
エルマンの指が震え、やがて、紙に触れた。
細い字で、自分の名を書いた。
エルマン・グライス
次に“行為”。
押し直し。
最後に“理由”。
……墨が止まり、彼は目を閉じた。
「恐れだ。核が止まったら、城が壊れる。
“名の国”は、遅い。
だから、雛形で延ばした」
ラウラが冷笑した。
「同感だわ」
私は首を振る。
「違う。遅くする手順を、あなたたちは学んでいない。
遅くても届く道を、増やしていない」
殿下が羽根ペンをとり、**『臨時封印票(λ)』**に名を書いた。
レオナルド
ハルトが続ける。
ハルト
私は最後に、自分の名を。
アリシア
ラウラは紙を見下ろし、息を吐いた。
「会計長の名がない」
「あなたの名を書く番だ」
殿下の声は穏やかだが、退路を与えない。
ラウラは羽根ペンに指を伸ばし――途中で止めた。
「……条件がある」
「聞こう」
「“名回線”の監査を、会計室の人間に任せること。
“名の学校”の情緒で数字を動かすな。数字は数字で整える」
私は頷いた。
「賛成。手順で監査を分ける。
名の掲示は私たち、“数字”の整合はあなたたち。
ただし、両方に名を」
ラウラはペンを取り、静かに書いた。
ラウラ・エーベル
封蝋が落ち、極小の輪が蝋の中で黙って沈んだ。
それは、符丁ではなく、終止符だった。
「付け替えに進む」
ハルトの声がわずかに軽くなった。
私は**『回線付替命令(名版)』を広げ、欄を埋める。
対象:“λ”継続出納/新宛先:公開録支所・学舎棚整備・療室資器材/理由:名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正
殿下が音読掲示**の札を重ねる。
「読み上げは?」
「リスに」
私は書記官補を見た。
彼女は驚き、すぐに息を整えて頷いた。
「……読みます」
扉の外、控えの間で、十人ほどの文官が並ぶ。
彼らは数字の人だ。けれど、耳も持っている。
リスは札を掲げ、ゆっくり読んだ。
「『回線付替命令(名版)――命令者の名:ラウラ・エーベル、ハルト、レオナルド、アリシア。対象:“λ”継続出納。新宛先――公開録支所、学舎棚整備、療室資器材。理由――名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正するため』」
読み上げは滑らかで、間があった。
ラウラが横で目を閉じ、小さく頷いたのを私は見逃さなかった。
命令の控えを掲示板に貼り、引き出しに新しい見出し札を差す。
“λ” → “名回線α”
符丁から名へ。
ハルトはその札を指で整え、しわを伸ばした。
「……よく見える」
「見える化が、秩序の第一歩です」
私が言うと、彼は咳払いして背筋を伸ばす。
「次にやるべきは、雛形の掃除だな」
「“狼”の陸回線も」
ルシアンが扉際から言う。
「倉庫組合の北抜け。今夜当たる」
殿下が頷いた。
「王城内の回線は今日中に名で固定する。
夜は“狼”。明日は“洞窟刷り”」
ラウラが横目でルシアンを見た。
「あなた、“媒介”ね」
ルシアンが肩をすくめる。
「“裏道”に名前を付け直すのが仕事だ」
会計室を出ようとしたとき、リスが私の袖をそっと引いた。
「……もう一つ、気になる紙があります」
彼女は小箱から薄い封書を取り出す。
封蝋は輪。しかし、輪の線は微かに二重。
「“二重輪”……?」
ハルトが顔をしかめる。
「それは、王室会計の私室印だ。会計長でも会計官でもない。
――王子の私室」
殿下が一歩近づき、封に手を伸ばしかけて止めた。
「……弟のテオかもしれない」
部屋に薄い緊張が走る。
殿下はゆっくり封を割り、紙を開いた。
そこには、細い字で短く書かれていた。
> 『兄上へ。
> “声の雛形”は、もう使えない。
> だけど、名の国も、怖い。
> ぼくは名前に“いい人”だけを置けない。
> “悪い名”も、掲示される。
> それは、ぼくを、母上を、そして……あなたを傷つける。
> だから、“二重輪”で緩衝庫を作った。
> 名が刺さる速度を、一晩遅らせるだけ。
> 許して。
> テオ』
沈黙。
殿下は紙を握り、目を閉じた。
私の喉がきゅっと鳴る。
名の国の痛み――それを、彼は先回りして抱こうとした。
ラウラが低く言う。
「“緩衝庫”は、数字ではバッファだ。
悪用される。……だが、必要でもある」
殿下は目を開き、紙を机に置いた。
「二重輪は、名で公開する。
“緩衝庫”の存在も、運用も、名で。
ぼくらが痛むとき、名で痛もう。
隠さない」
声は少し掠れていた。
けれど、まっすぐだった。
私は羽根ペンを取り、『二重輪 運用告示(名版)』を書いた。
――『目的:名の掲示による社会的損傷の緩和/運用者の名:会計長ラウラ、王子テオ、監査:ハルト、公開監査:アリシア/期間:一晩/翌朝必ず公開掲示』
ラウラが頷き、テオの名の欄にそっと空白を置いた。
「本人の署名を待つ。……彼の名で」
殿下はうなずく。
「今夜、話す」
会計室を出ると、東棟の廊下には穏やかな風が通っていた。
窓の外、学舎の屋根が白く光る。
“名の棚”の前に、誰かが立っているだろう。
“今日こわかったこと”の札に、また別の字が増えているだろう。
ルシアンが並び、声を落とす。
「“狼”の件で、ベルトが人を回してくれる。
数字の人間が味方に入ると、裏道の地図が見える化される」
「今夜、倉庫組合の北抜けね」
「うなずく犬と吠える犬がいる。……吠えるほうに“名の札”を」
彼は笑い、階段を先に降りた。
私は最後にもう一度、会計室の扉上の印を見上げた。
十字の上の極小の輪。
今その輪は、封蝋にも、告示にも、名にも変わった。
記号のままではない。
歩き出す。
バルコニーに差す光が強まる。
胸の指輪の空白に、今日の名をもう一つ、小さく追加した。
――緩衝。
名の痛みを、装置ではなく、手順で受け止めるための、薄い余白。
それを誰の名で持つか。
それを名で書いて残すか。
坂の向こうで、鐘が一度。
私は速度を少しだけ落とした。
“狼”には速さが要るが、“名”には間が要る。
そのふたつを両手に持って、夜までにもう一度、整え直すために。 王城の東棟は、朝よりも遅れて目を覚ます。
文官たちの靴音は軽く、紙をめくる音は海の波より静かだ。
王室会計室――通称“輪の部屋”は、そのさらに奥、陽の入りに背を向ける位置にある。
扉の上に、見慣れた紋――十字の上に、極小の輪。
装飾と言い張るには素朴で、目印と言い張るには小さすぎる印。
ルシアンが横に立ち、低く囁く。
「扉番は老文官のハルトだ。数字の鬼。鍵は三つ、印は二つ」
私は頷き、指輪の空白をなぞった。
今日の名――交点。
回線と回線が交わる場所に立ち、名で連結し直す役目。
扉を二度叩くと、中から咳払い。
鍵が一つ、二つ、三つ。
扉が開く。灰色の髪、細い眼鏡、乾いた指。
「事務は始業前だが、王命なら開く」
ハルトの声は砂のように乾いていた。
私は札を差し出す。
『臨時閲覧願(名版)/閲覧者の名:アリシア・エルフォード/証言者の名:レオナルド/理由:回線“極小の輪”の確認』
ハルトの眉が揺れ、微かな息。
「王子殿下の名が“証言者”……奇妙な順序だ」
「名は上から降りない。横につながる」
私が答えると、彼はほんの少しだけ目を細め、身を引いた。
「入れ」
“輪の部屋”は、想像より狭かった。
壁一面に細い引き出し。番号ではなく、符丁が刻まれている。
輪、羽、石、波、針――名ではなく、記号。
ハルトは杖の先で「輪」の列を示した。
「玉座核に関わる補助出納はここだ。符丁は旧式。……変えるべきだと思っていた」
「変えましょう。名に」
「記号が消えるまでに、どれほどの手間が?」
「必要なだけ」
私が真顔で言うと、ルシアンが吹き出しそうになり、慌てて咳に変えた。
ハルトは、輪の引き出しの中から三冊の控えを出した。
薄い皮表紙。角が磨り減り、指の油で滑らかだ。
私は手袋を外し、一頁目に触れる。
数字の並びはきれいだ。
けれど、ところどころに、細く輪が刻まれている。
「ここ。“補修線λ(ラムダ)”」
ルシアンが覗き込み、眉をひそめる。
「“λ”は、玉座核の心拍を模す符丁だ。……まだ生きてるつもりか」
ハルトの喉が鳴った。
「“λ”は、先代が置いた安全弁だ。核の周波を整えるための最終枠。
だが――」
彼は一拍置いて、私を見る。
「だが、近年は“声の雛形”に使われた。核が止まると困る、と。
“恐れ”を理由に、継続出納が温存された」
「止めましょう」
私が言うと、ハルトは笑った。
砂が擦れるような、短い笑い。
「簡単に言う。だが、“λ”を切るには二重署名がいる。会計長と、王族の名だ」
「王は?」
「朝議中だ。王妃は療養。王子は……」
「ここに来る」
私が言い終える前に、扉が二度叩かれた。
レオナルド殿下が入ってきた。
外套の埃を払う暇もない。
「“狼”の回線の報告はルシアンに任せた。こちらは“輪”だな」
ハルトが眉を上げる。
「殿下。二重署名の片割れが、こんなに早く」
「“零番の約束”を使った。嫉妬せずに来られた」
私が笑いを噛み、ハルトが目を瞬いた。意味は分からないが、必要な速度で来た、ということだけは伝わったらしい。
ハルトは机の上に二枚の札を置いた。
『臨時封印票(λ)』『回線付替命令(名版)』
「“λ”の封印と、名回線への付け替え。
封印には会計長の名もいる」
「会計長は?」
「――まだ、来ていない」
その瞬間、部屋の空気が少し冷えた。
“まだ来ていない”という言い回しは、数字の人間の警戒だ。
私は周囲を見渡した。引き出しの影、積まれた帳簿、灯りの角度。
扉の外で、やわらかい足音。
控えの間の布が揺れ、女が入ってきた。
まだ若い。髪はひとつに結い、目線はまっすぐ。
胸元に小さく針の符丁。
「書記官補のリスです。……“λ”の封印について、告発があります」
ハルトの背がわずかに伸びた。
「リス。何を見た」
リスは私と殿下を認めると、膝を折って簡潔に頭を下げ、卓上に一枚の薄紙を置いた。
「昨夜、補助出納控の綴じ替えが行われました。
“λ”の継続出納に、市井事業の領収を混ぜる細工が。
――“炊き出し”や“療室”の名が“λ”の備考欄に入っています」
殿下の眼差しが鋭くなる。
「“名”を盾に、“声”を延命?」
「はい。名の看板を、声の回線に貼り替えた。
日付印が、薄い。押し直しの跡があります」
ハルトは震える指で紙を持ち上げた。
「押し直しは、規程違反だ」
声は静かだが、怒っていた。
私はすぐに札を出した。
『保全命令(名版)/命令者の名:アリシア/対象:補助出納控“λ”綴じ/理由:名の看板の不正貼替の疑い』
殿下が続けて羽根ペンを取り、証人に名を書いた。
レオナルド、ハルト、リス。
ルシアンが扉際に移り、廊下を見張る。
「会計長が来る前に、現状のまま封を」
ハルトが頷き、封蝋の準備をしたそのとき――
扉の向こうで、別の靴音。
高い踵、ため息の混じる呼吸。
会計長が入ってきた。
女だった。
歳は、王妃より少し若い。
潔癖な身なり、端正な顔、冷たい目。
胸には輪の符丁。
「会計長ラウラ。朝議前に呼びつけるとは、豪胆ね」
殿下が一歩進む。
「“λ”を封じに来た」
ラウラの目が笑った。
「封じる? 安全弁を?」
「“声の回線”の安全弁だ。人の安全ではない」
ラウラは机に歩み寄り、控えを一瞥した。
押し直しの跡、薄い日付印。
唇がわずかに上がる。
「書記官補。あなたが“押し直し”と言うなら、押した者の名を」
リスは怯まない。
「会計長補のエルマンです。昨夜、裏口から入って――」
「根拠は?」
「インクの匂いです。……あの男は、港の洞窟刷りにも出入りしている。
油と水の匂いが、紙に残っていた」
ラウラの目が小さく揺れ、すぐに戻った。
「匂いで名を断ずるとは、原始的ね」
「名は、身体に残る」
私が静かに言うと、ラウラがようやく私を真正面から見た。
「あなたが、名で結ぶの女」
「アリシアです。……“λ”を封じ、名回線へ付け替える。
その前に、名の手順で確かめましょう。
――“押し直し”をした者に、名で名乗ってもらう」
ラウラは肩を竦めた。
「呼べば来ると? 呼んでみなさい」
私は扉側のルシアンに目をやる。
彼は頷き、廊下へ出た。
ほんの数呼吸の後、戻ってきたときには、一人の男の襟を掴んでいた。
痩せぎす、指はインクで黒く、目は落ち着かない。
「逃げ足は速い。だが、名は残る」
ルシアンが言い、男――エルマンを卓に押しやる。
ラウラが眉を上げる。
「会計長補に手を上げるとは」
「逃げる手を、名で止めただけだ」
殿下が遮った。
「エルマン。名で答えろ。昨夜、押し直しをしたか」
エルマンの喉が動き、視線が泳ぐ。
ハルトが机の引き出しから一枚の紙を出した。
『名の証言札』
「ここに名を書けば、あなたは“言った人”になる。
書かなければ、あなたは“声の人”のままだ」
エルマンの指が震え、やがて、紙に触れた。
細い字で、自分の名を書いた。
エルマン・グライス
次に“行為”。
押し直し。
最後に“理由”。
……墨が止まり、彼は目を閉じた。
「恐れだ。核が止まったら、城が壊れる。
“名の国”は、遅い。
だから、雛形で延ばした」
ラウラが冷笑した。
「同感だわ」
私は首を振る。
「違う。遅くする手順を、あなたたちは学んでいない。
遅くても届く道を、増やしていない」
殿下が羽根ペンをとり、**『臨時封印票(λ)』**に名を書いた。
レオナルド
ハルトが続ける。
ハルト
私は最後に、自分の名を。
アリシア
ラウラは紙を見下ろし、息を吐いた。
「会計長の名がない」
「あなたの名を書く番だ」
殿下の声は穏やかだが、退路を与えない。
ラウラは羽根ペンに指を伸ばし――途中で止めた。
「……条件がある」
「聞こう」
「“名回線”の監査を、会計室の人間に任せること。
“名の学校”の情緒で数字を動かすな。数字は数字で整える」
私は頷いた。
「賛成。手順で監査を分ける。
名の掲示は私たち、“数字”の整合はあなたたち。
ただし、両方に名を」
ラウラはペンを取り、静かに書いた。
ラウラ・エーベル
封蝋が落ち、極小の輪が蝋の中で黙って沈んだ。
それは、符丁ではなく、終止符だった。
「付け替えに進む」
ハルトの声がわずかに軽くなった。
私は**『回線付替命令(名版)』を広げ、欄を埋める。
対象:“λ”継続出納/新宛先:公開録支所・学舎棚整備・療室資器材/理由:名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正
殿下が音読掲示**の札を重ねる。
「読み上げは?」
「リスに」
私は書記官補を見た。
彼女は驚き、すぐに息を整えて頷いた。
「……読みます」
扉の外、控えの間で、十人ほどの文官が並ぶ。
彼らは数字の人だ。けれど、耳も持っている。
リスは札を掲げ、ゆっくり読んだ。
「『回線付替命令(名版)――命令者の名:ラウラ・エーベル、ハルト、レオナルド、アリシア。対象:“λ”継続出納。新宛先――公開録支所、学舎棚整備、療室資器材。理由――名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正するため』」
読み上げは滑らかで、間があった。
ラウラが横で目を閉じ、小さく頷いたのを私は見逃さなかった。
命令の控えを掲示板に貼り、引き出しに新しい見出し札を差す。
“λ” → “名回線α”
符丁から名へ。
ハルトはその札を指で整え、しわを伸ばした。
「……よく見える」
「見える化が、秩序の第一歩です」
私が言うと、彼は咳払いして背筋を伸ばす。
「次にやるべきは、雛形の掃除だな」
「“狼”の陸回線も」
ルシアンが扉際から言う。
「倉庫組合の北抜け。今夜当たる」
殿下が頷いた。
「王城内の回線は今日中に名で固定する。
夜は“狼”。明日は“洞窟刷り”」
ラウラが横目でルシアンを見た。
「あなた、“媒介”ね」
ルシアンが肩をすくめる。
「“裏道”に名前を付け直すのが仕事だ」
会計室を出ようとしたとき、リスが私の袖をそっと引いた。
「……もう一つ、気になる紙があります」
彼女は小箱から薄い封書を取り出す。
封蝋は輪。しかし、輪の線は微かに二重。
「“二重輪”……?」
ハルトが顔をしかめる。
「それは、王室会計の私室印だ。会計長でも会計官でもない。
――王子の私室」
殿下が一歩近づき、封に手を伸ばしかけて止めた。
「……弟のテオかもしれない」
部屋に薄い緊張が走る。
殿下はゆっくり封を割り、紙を開いた。
そこには、細い字で短く書かれていた。
> 『兄上へ。
> “声の雛形”は、もう使えない。
> だけど、名の国も、怖い。
> ぼくは名前に“いい人”だけを置けない。
> “悪い名”も、掲示される。
> それは、ぼくを、母上を、そして……あなたを傷つける。
> だから、“二重輪”で緩衝庫を作った。
> 名が刺さる速度を、一晩遅らせるだけ。
> 許して。
> テオ』
沈黙。
殿下は紙を握り、目を閉じた。
私の喉がきゅっと鳴る。
名の国の痛み――それを、彼は先回りして抱こうとした。
ラウラが低く言う。
「“緩衝庫”は、数字ではバッファだ。
悪用される。……だが、必要でもある」
殿下は目を開き、紙を机に置いた。
「二重輪は、名で公開する。
“緩衝庫”の存在も、運用も、名で。
ぼくらが痛むとき、名で痛もう。
隠さない」
声は少し掠れていた。
けれど、まっすぐだった。
私は羽根ペンを取り、『二重輪 運用告示(名版)』を書いた。
――『目的:名の掲示による社会的損傷の緩和/運用者の名:会計長ラウラ、王子テオ、監査:ハルト、公開監査:アリシア/期間:一晩/翌朝必ず公開掲示』
ラウラが頷き、テオの名の欄にそっと空白を置いた。
「本人の署名を待つ。……彼の名で」
殿下はうなずく。
「今夜、話す」
会計室を出ると、東棟の廊下には穏やかな風が通っていた。
窓の外、学舎の屋根が白く光る。
“名の棚”の前に、誰かが立っているだろう。
“今日こわかったこと”の札に、また別の字が増えているだろう。
ルシアンが並び、声を落とす。
「“狼”の件で、ベルトが人を回してくれる。
数字の人間が味方に入ると、裏道の地図が見える化される」
「今夜、倉庫組合の北抜けね」
「うなずく犬と吠える犬がいる。……吠えるほうに“名の札”を」
彼は笑い、階段を先に降りた。
私は最後にもう一度、会計室の扉上の印を見上げた。
十字の上の極小の輪。
今その輪は、封蝋にも、告示にも、名にも変わった。
記号のままではない。
歩き出す。
バルコニーに差す光が強まる。
胸の指輪の空白に、今日の名をもう一つ、小さく追加した。
――緩衝。
名の痛みを、装置ではなく、手順で受け止めるための、薄い余白。
それを誰の名で持つか。
それを名で書いて残すか。
坂の向こうで、鐘が一度。
私は速度を少しだけ落とした。
“狼”には速さが要るが、“名”には間が要る。
そのふたつを両手に持って、夜までにもう一度、整え直すために。