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第18話 輪の部屋

 王城の東棟は、朝よりも遅れて目を覚ます。

 文官たちの靴音は軽く、紙をめくる音は海の波より静かだ。

 王室会計室――通称“輪の部屋”は、そのさらに奥、陽の入りに背を向ける位置にある。

 扉の上に、見慣れた紋――十字の上に、極小の輪。

 装飾と言い張るには素朴で、目印と言い張るには小さすぎる印。


 ルシアンが横に立ち、低く囁く。

 「扉番は老文官のハルトだ。数字の鬼。鍵は三つ、印は二つ」

 私は頷き、指輪の空白をなぞった。

 今日の名――交点ノード

 回線と回線が交わる場所に立ち、名で連結し直す役目。


 扉を二度叩くと、中から咳払い。

 鍵が一つ、二つ、三つ。

 扉が開く。灰色の髪、細い眼鏡、乾いた指。

 「事務は始業前だが、王命なら開く」

 ハルトの声は砂のように乾いていた。

 私は札を差し出す。

 『臨時閲覧願(名版)/閲覧者の名:アリシア・エルフォード/証言者の名:レオナルド/理由:回線“極小の輪”の確認』

 ハルトの眉が揺れ、微かな息。

 「王子殿下の名が“証言者”……奇妙な順序だ」

 「名は上から降りない。横につながる」

 私が答えると、彼はほんの少しだけ目を細め、身を引いた。

 「入れ」


 “輪の部屋”は、想像より狭かった。

 壁一面に細い引き出し。番号ではなく、符丁が刻まれている。

 輪、羽、石、波、針――名ではなく、記号。

 ハルトは杖の先で「輪」の列を示した。

 「玉座核に関わる補助出納はここだ。符丁は旧式。……変えるべきだと思っていた」

 「変えましょう。名に」

 「記号が消えるまでに、どれほどの手間が?」

 「必要なだけ」

 私が真顔で言うと、ルシアンが吹き出しそうになり、慌てて咳に変えた。


 ハルトは、輪の引き出しの中から三冊の控えを出した。

 薄い皮表紙。角が磨り減り、指の油で滑らかだ。

 私は手袋を外し、一頁目に触れる。

 数字の並びはきれいだ。

 けれど、ところどころに、細く輪が刻まれている。

 「ここ。“補修線λ(ラムダ)”」

 ルシアンが覗き込み、眉をひそめる。

 「“λ”は、玉座核の心拍を模す符丁だ。……まだ生きてるつもりか」

 ハルトの喉が鳴った。

 「“λ”は、先代が置いた安全弁だ。核の周波を整えるための最終枠。

 だが――」

 彼は一拍置いて、私を見る。

「だが、近年は“声の雛形”に使われた。核が止まると困る、と。

 “恐れ”を理由に、継続出納が温存された」


 「止めましょう」

 私が言うと、ハルトは笑った。

 砂が擦れるような、短い笑い。

 「簡単に言う。だが、“λ”を切るには二重署名がいる。会計長と、王族の名だ」

 「王は?」

 「朝議中だ。王妃は療養。王子は……」

 「ここに来る」

 私が言い終える前に、扉が二度叩かれた。

 レオナルド殿下が入ってきた。

 外套の埃を払う暇もない。

 「“狼”の回線の報告はルシアンに任せた。こちらは“輪”だな」

 ハルトが眉を上げる。

 「殿下。二重署名の片割れが、こんなに早く」

 「“零番の約束”を使った。嫉妬せずに来られた」

 私が笑いを噛み、ハルトが目を瞬いた。意味は分からないが、必要な速度で来た、ということだけは伝わったらしい。


 ハルトは机の上に二枚の札を置いた。

 『臨時封印票(λ)』『回線付替命令(名版)』

 「“λ”の封印と、名回線への付け替え。

 封印には会計長の名もいる」

 「会計長は?」

 「――まだ、来ていない」

 その瞬間、部屋の空気が少し冷えた。

 “まだ来ていない”という言い回しは、数字の人間の警戒だ。

 私は周囲を見渡した。引き出しの影、積まれた帳簿、灯りの角度。


 扉の外で、やわらかい足音。

 控えの間の布が揺れ、女が入ってきた。

 まだ若い。髪はひとつに結い、目線はまっすぐ。

 胸元に小さく針の符丁。

 「書記官補のリスです。……“λ”の封印について、告発があります」

 ハルトの背がわずかに伸びた。

 「リス。何を見た」

 リスは私と殿下を認めると、膝を折って簡潔に頭を下げ、卓上に一枚の薄紙を置いた。

 「昨夜、補助出納控の綴じ替えが行われました。

 “λ”の継続出納に、市井事業の領収を混ぜる細工が。

 ――“炊き出し”や“療室”の名が“λ”の備考欄に入っています」

 殿下の眼差しが鋭くなる。

 「“名”を盾に、“声”を延命?」

 「はい。名の看板を、声の回線に貼り替えた。

 日付印が、薄い。押し直しの跡があります」

 ハルトは震える指で紙を持ち上げた。

 「押し直しは、規程違反だ」

 声は静かだが、怒っていた。


 私はすぐに札を出した。

 『保全命令(名版)/命令者の名:アリシア/対象:補助出納控“λ”綴じ/理由:名の看板の不正貼替の疑い』

 殿下が続けて羽根ペンを取り、証人に名を書いた。

 レオナルド、ハルト、リス。

 ルシアンが扉際に移り、廊下を見張る。

 「会計長が来る前に、現状のまま封を」

 ハルトが頷き、封蝋の準備をしたそのとき――

 扉の向こうで、別の靴音。

 高い踵、ため息の混じる呼吸。

 会計長が入ってきた。


 女だった。

 歳は、王妃より少し若い。

 潔癖な身なり、端正な顔、冷たい目。

 胸には輪の符丁。

 「会計長ラウラ。朝議前に呼びつけるとは、豪胆ね」

 殿下が一歩進む。

 「“λ”を封じに来た」

 ラウラの目が笑った。

 「封じる? 安全弁を?」

 「“声の回線”の安全弁だ。人の安全ではない」

 ラウラは机に歩み寄り、控えを一瞥した。

 押し直しの跡、薄い日付印。

 唇がわずかに上がる。

 「書記官補。あなたが“押し直し”と言うなら、押した者の名を」

 リスは怯まない。

 「会計長補のエルマンです。昨夜、裏口から入って――」

 「根拠は?」

 「インクの匂いです。……あの男は、港の洞窟刷りにも出入りしている。

 油と水の匂いが、紙に残っていた」

 ラウラの目が小さく揺れ、すぐに戻った。

「匂いで名を断ずるとは、原始的ね」

 「名は、身体に残る」

 私が静かに言うと、ラウラがようやく私を真正面から見た。

 「あなたが、名で結ぶの女」

 「アリシアです。……“λ”を封じ、名回線へ付け替える。

 その前に、名の手順で確かめましょう。

 ――“押し直し”をした者に、名で名乗ってもらう」

 ラウラは肩を竦めた。

 「呼べば来ると? 呼んでみなさい」


 私は扉側のルシアンに目をやる。

 彼は頷き、廊下へ出た。

 ほんの数呼吸の後、戻ってきたときには、一人の男の襟を掴んでいた。

 痩せぎす、指はインクで黒く、目は落ち着かない。

 「逃げ足は速い。だが、名は残る」

 ルシアンが言い、男――エルマンを卓に押しやる。

 ラウラが眉を上げる。

 「会計長補に手を上げるとは」

 「逃げる手を、名で止めただけだ」

 殿下が遮った。

 「エルマン。名で答えろ。昨夜、押し直しをしたか」

 エルマンの喉が動き、視線が泳ぐ。

 ハルトが机の引き出しから一枚の紙を出した。

 『名の証言札』

 「ここに名を書けば、あなたは“言った人”になる。

 書かなければ、あなたは“声の人”のままだ」

 エルマンの指が震え、やがて、紙に触れた。

 細い字で、自分の名を書いた。

 エルマン・グライス

 次に“行為”。

 押し直し。

 最後に“理由”。

 ……墨が止まり、彼は目を閉じた。

 「恐れだ。核が止まったら、城が壊れる。

 “名の国”は、遅い。

 だから、雛形で延ばした」

 ラウラが冷笑した。

 「同感だわ」

 私は首を振る。

「違う。遅くする手順を、あなたたちは学んでいない。

 遅くても届く道を、増やしていない」

 殿下が羽根ペンをとり、**『臨時封印票(λ)』**に名を書いた。

 レオナルド

 ハルトが続ける。

 ハルト

 私は最後に、自分の名を。

 アリシア

 ラウラは紙を見下ろし、息を吐いた。

 「会計長の名がない」

 「あなたの名を書く番だ」

 殿下の声は穏やかだが、退路を与えない。

 ラウラは羽根ペンに指を伸ばし――途中で止めた。

 「……条件がある」

 「聞こう」

 「“名回線”の監査を、会計室の人間に任せること。

 “名の学校”の情緒で数字を動かすな。数字は数字で整える」

 私は頷いた。

 「賛成。手順で監査を分ける。

 名の掲示は私たち、“数字”の整合はあなたたち。

 ただし、両方に名を」

 ラウラはペンを取り、静かに書いた。

 ラウラ・エーベル

 封蝋が落ち、極小の輪が蝋の中で黙って沈んだ。

 それは、符丁ではなく、終止符だった。


 「付け替えに進む」

 ハルトの声がわずかに軽くなった。

 私は**『回線付替命令(名版)』を広げ、欄を埋める。

 対象:“λ”継続出納/新宛先:公開録支所・学舎棚整備・療室資器材/理由:名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正

 殿下が音読掲示**の札を重ねる。

 「読み上げは?」

 「リスに」

 私は書記官補を見た。

 彼女は驚き、すぐに息を整えて頷いた。

 「……読みます」

 扉の外、控えの間で、十人ほどの文官が並ぶ。

 彼らは数字の人だ。けれど、耳も持っている。


 リスは札を掲げ、ゆっくり読んだ。

 「『回線付替命令(名版)――命令者の名:ラウラ・エーベル、ハルト、レオナルド、アリシア。対象:“λ”継続出納。新宛先――公開録支所、学舎棚整備、療室資器材。理由――名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正するため』」

 読み上げは滑らかで、間があった。

 ラウラが横で目を閉じ、小さく頷いたのを私は見逃さなかった。


 命令の控えを掲示板に貼り、引き出しに新しい見出し札を差す。

 “λ” → “名回線α”

 符丁から名へ。

 ハルトはその札を指で整え、しわを伸ばした。

 「……よく見える」

 「見える化が、秩序の第一歩です」

 私が言うと、彼は咳払いして背筋を伸ばす。

 「次にやるべきは、雛形の掃除だな」

 「“狼”の陸回線も」

 ルシアンが扉際から言う。

 「倉庫組合の北抜け。今夜当たる」

 殿下が頷いた。

 「王城内の回線は今日中に名で固定する。

 夜は“狼”。明日は“洞窟刷り”」

 ラウラが横目でルシアンを見た。

 「あなた、“媒介”ね」

 ルシアンが肩をすくめる。

 「“裏道”に名前を付け直すのが仕事だ」


 会計室を出ようとしたとき、リスが私の袖をそっと引いた。

 「……もう一つ、気になる紙があります」

 彼女は小箱から薄い封書を取り出す。

 封蝋は輪。しかし、輪の線は微かに二重。

 「“二重輪”……?」

 ハルトが顔をしかめる。

 「それは、王室会計の私室印だ。会計長でも会計官でもない。

 ――王子の私室」

 殿下が一歩近づき、封に手を伸ばしかけて止めた。

 「……弟のテオかもしれない」

 部屋に薄い緊張が走る。

 殿下はゆっくり封を割り、紙を開いた。

 そこには、細い字で短く書かれていた。


 > 『兄上へ。

 > “声の雛形”は、もう使えない。

 > だけど、名の国も、怖い。

 > ぼくは名前に“いい人”だけを置けない。

 > “悪い名”も、掲示される。

 > それは、ぼくを、母上を、そして……あなたを傷つける。

> だから、“二重輪”で緩衝庫を作った。

> 名が刺さる速度を、一晩遅らせるだけ。

> 許して。

> テオ』


 沈黙。

 殿下は紙を握り、目を閉じた。

 私の喉がきゅっと鳴る。

 名の国の痛み――それを、彼は先回りして抱こうとした。

 ラウラが低く言う。

 「“緩衝庫”は、数字ではバッファだ。

 悪用される。……だが、必要でもある」

 殿下は目を開き、紙を机に置いた。

 「二重輪は、名で公開する。

 “緩衝庫”の存在も、運用も、名で。

 ぼくらが痛むとき、名で痛もう。

 隠さない」

 声は少し掠れていた。

 けれど、まっすぐだった。


 私は羽根ペンを取り、『二重輪 運用告示(名版)』を書いた。

 ――『目的:名の掲示による社会的損傷の緩和/運用者の名:会計長ラウラ、王子テオ、監査:ハルト、公開監査:アリシア/期間:一晩/翌朝必ず公開掲示』

 ラウラが頷き、テオの名の欄にそっと空白を置いた。

 「本人の署名を待つ。……彼の名で」

 殿下はうなずく。

 「今夜、話す」


 会計室を出ると、東棟の廊下には穏やかな風が通っていた。

 窓の外、学舎の屋根が白く光る。

 “名の棚”の前に、誰かが立っているだろう。

 “今日こわかったこと”の札に、また別の字が増えているだろう。


 ルシアンが並び、声を落とす。

 「“狼”の件で、ベルトが人を回してくれる。

 数字の人間が味方に入ると、裏道の地図が見える化される」

 「今夜、倉庫組合の北抜けね」

 「うなずく犬と吠える犬がいる。……吠えるほうに“名の札”を」

 彼は笑い、階段を先に降りた。


 私は最後にもう一度、会計室の扉上の印を見上げた。

 十字の上の極小の輪。

 今その輪は、封蝋にも、告示にも、名にも変わった。

 記号のままではない。


 歩き出す。

 バルコニーに差す光が強まる。

 胸の指輪の空白に、今日の名をもう一つ、小さく追加した。

 ――緩衝バッファ

 名の痛みを、装置ではなく、手順で受け止めるための、薄い余白。

 それを誰の名で持つか。

 それを名で書いて残すか。


 坂の向こうで、鐘が一度。

 私は速度を少しだけ落とした。

 “狼”には速さが要るが、“名”には間が要る。

 そのふたつを両手に持って、夜までにもう一度、整え直すために。 王城の東棟は、朝よりも遅れて目を覚ます。

 文官たちの靴音は軽く、紙をめくる音は海の波より静かだ。

 王室会計室――通称“輪の部屋”は、そのさらに奥、陽の入りに背を向ける位置にある。

 扉の上に、見慣れた紋――十字の上に、極小の輪。

 装飾と言い張るには素朴で、目印と言い張るには小さすぎる印。


 ルシアンが横に立ち、低く囁く。

 「扉番は老文官のハルトだ。数字の鬼。鍵は三つ、印は二つ」

 私は頷き、指輪の空白をなぞった。

 今日の名――交点ノード

 回線と回線が交わる場所に立ち、名で連結し直す役目。


 扉を二度叩くと、中から咳払い。

 鍵が一つ、二つ、三つ。

 扉が開く。灰色の髪、細い眼鏡、乾いた指。

 「事務は始業前だが、王命なら開く」

 ハルトの声は砂のように乾いていた。

 私は札を差し出す。

 『臨時閲覧願(名版)/閲覧者の名:アリシア・エルフォード/証言者の名:レオナルド/理由:回線“極小の輪”の確認』

 ハルトの眉が揺れ、微かな息。

 「王子殿下の名が“証言者”……奇妙な順序だ」

 「名は上から降りない。横につながる」

 私が答えると、彼はほんの少しだけ目を細め、身を引いた。

 「入れ」


 “輪の部屋”は、想像より狭かった。

 壁一面に細い引き出し。番号ではなく、符丁が刻まれている。

 輪、羽、石、波、針――名ではなく、記号。

 ハルトは杖の先で「輪」の列を示した。

 「玉座核に関わる補助出納はここだ。符丁は旧式。……変えるべきだと思っていた」

 「変えましょう。名に」

 「記号が消えるまでに、どれほどの手間が?」

 「必要なだけ」

 私が真顔で言うと、ルシアンが吹き出しそうになり、慌てて咳に変えた。


 ハルトは、輪の引き出しの中から三冊の控えを出した。

 薄い皮表紙。角が磨り減り、指の油で滑らかだ。

 私は手袋を外し、一頁目に触れる。

 数字の並びはきれいだ。

 けれど、ところどころに、細く輪が刻まれている。

 「ここ。“補修線λ(ラムダ)”」

 ルシアンが覗き込み、眉をひそめる。

 「“λ”は、玉座核の心拍を模す符丁だ。……まだ生きてるつもりか」

 ハルトの喉が鳴った。

 「“λ”は、先代が置いた安全弁だ。核の周波を整えるための最終枠。

 だが――」

 彼は一拍置いて、私を見る。

「だが、近年は“声の雛形”に使われた。核が止まると困る、と。

 “恐れ”を理由に、継続出納が温存された」


 「止めましょう」

 私が言うと、ハルトは笑った。

 砂が擦れるような、短い笑い。

 「簡単に言う。だが、“λ”を切るには二重署名がいる。会計長と、王族の名だ」

 「王は?」

 「朝議中だ。王妃は療養。王子は……」

 「ここに来る」

 私が言い終える前に、扉が二度叩かれた。

 レオナルド殿下が入ってきた。

 外套の埃を払う暇もない。

 「“狼”の回線の報告はルシアンに任せた。こちらは“輪”だな」

 ハルトが眉を上げる。

 「殿下。二重署名の片割れが、こんなに早く」

 「“零番の約束”を使った。嫉妬せずに来られた」

 私が笑いを噛み、ハルトが目を瞬いた。意味は分からないが、必要な速度で来た、ということだけは伝わったらしい。


 ハルトは机の上に二枚の札を置いた。

 『臨時封印票(λ)』『回線付替命令(名版)』

 「“λ”の封印と、名回線への付け替え。

 封印には会計長の名もいる」

 「会計長は?」

 「――まだ、来ていない」

 その瞬間、部屋の空気が少し冷えた。

 “まだ来ていない”という言い回しは、数字の人間の警戒だ。

 私は周囲を見渡した。引き出しの影、積まれた帳簿、灯りの角度。


 扉の外で、やわらかい足音。

 控えの間の布が揺れ、女が入ってきた。

 まだ若い。髪はひとつに結い、目線はまっすぐ。

 胸元に小さく針の符丁。

 「書記官補のリスです。……“λ”の封印について、告発があります」

 ハルトの背がわずかに伸びた。

 「リス。何を見た」

 リスは私と殿下を認めると、膝を折って簡潔に頭を下げ、卓上に一枚の薄紙を置いた。

 「昨夜、補助出納控の綴じ替えが行われました。

 “λ”の継続出納に、市井事業の領収を混ぜる細工が。

 ――“炊き出し”や“療室”の名が“λ”の備考欄に入っています」

 殿下の眼差しが鋭くなる。

 「“名”を盾に、“声”を延命?」

 「はい。名の看板を、声の回線に貼り替えた。

 日付印が、薄い。押し直しの跡があります」

 ハルトは震える指で紙を持ち上げた。

 「押し直しは、規程違反だ」

 声は静かだが、怒っていた。


 私はすぐに札を出した。

 『保全命令(名版)/命令者の名:アリシア/対象:補助出納控“λ”綴じ/理由:名の看板の不正貼替の疑い』

 殿下が続けて羽根ペンを取り、証人に名を書いた。

 レオナルド、ハルト、リス。

 ルシアンが扉際に移り、廊下を見張る。

 「会計長が来る前に、現状のまま封を」

 ハルトが頷き、封蝋の準備をしたそのとき――

 扉の向こうで、別の靴音。

 高い踵、ため息の混じる呼吸。

 会計長が入ってきた。


 女だった。

 歳は、王妃より少し若い。

 潔癖な身なり、端正な顔、冷たい目。

 胸には輪の符丁。

 「会計長ラウラ。朝議前に呼びつけるとは、豪胆ね」

 殿下が一歩進む。

 「“λ”を封じに来た」

 ラウラの目が笑った。

 「封じる? 安全弁を?」

 「“声の回線”の安全弁だ。人の安全ではない」

 ラウラは机に歩み寄り、控えを一瞥した。

 押し直しの跡、薄い日付印。

 唇がわずかに上がる。

 「書記官補。あなたが“押し直し”と言うなら、押した者の名を」

 リスは怯まない。

 「会計長補のエルマンです。昨夜、裏口から入って――」

 「根拠は?」

 「インクの匂いです。……あの男は、港の洞窟刷りにも出入りしている。

 油と水の匂いが、紙に残っていた」

 ラウラの目が小さく揺れ、すぐに戻った。

「匂いで名を断ずるとは、原始的ね」

 「名は、身体に残る」

 私が静かに言うと、ラウラがようやく私を真正面から見た。

 「あなたが、名で結ぶの女」

 「アリシアです。……“λ”を封じ、名回線へ付け替える。

 その前に、名の手順で確かめましょう。

 ――“押し直し”をした者に、名で名乗ってもらう」

 ラウラは肩を竦めた。

 「呼べば来ると? 呼んでみなさい」


 私は扉側のルシアンに目をやる。

 彼は頷き、廊下へ出た。

 ほんの数呼吸の後、戻ってきたときには、一人の男の襟を掴んでいた。

 痩せぎす、指はインクで黒く、目は落ち着かない。

 「逃げ足は速い。だが、名は残る」

 ルシアンが言い、男――エルマンを卓に押しやる。

 ラウラが眉を上げる。

 「会計長補に手を上げるとは」

 「逃げる手を、名で止めただけだ」

 殿下が遮った。

 「エルマン。名で答えろ。昨夜、押し直しをしたか」

 エルマンの喉が動き、視線が泳ぐ。

 ハルトが机の引き出しから一枚の紙を出した。

 『名の証言札』

 「ここに名を書けば、あなたは“言った人”になる。

 書かなければ、あなたは“声の人”のままだ」

 エルマンの指が震え、やがて、紙に触れた。

 細い字で、自分の名を書いた。

 エルマン・グライス

 次に“行為”。

 押し直し。

 最後に“理由”。

 ……墨が止まり、彼は目を閉じた。

 「恐れだ。核が止まったら、城が壊れる。

 “名の国”は、遅い。

 だから、雛形で延ばした」

 ラウラが冷笑した。

 「同感だわ」

 私は首を振る。

「違う。遅くする手順を、あなたたちは学んでいない。

 遅くても届く道を、増やしていない」

 殿下が羽根ペンをとり、**『臨時封印票(λ)』**に名を書いた。

 レオナルド

 ハルトが続ける。

 ハルト

 私は最後に、自分の名を。

 アリシア

 ラウラは紙を見下ろし、息を吐いた。

 「会計長の名がない」

 「あなたの名を書く番だ」

 殿下の声は穏やかだが、退路を与えない。

 ラウラは羽根ペンに指を伸ばし――途中で止めた。

 「……条件がある」

 「聞こう」

 「“名回線”の監査を、会計室の人間に任せること。

 “名の学校”の情緒で数字を動かすな。数字は数字で整える」

 私は頷いた。

 「賛成。手順で監査を分ける。

 名の掲示は私たち、“数字”の整合はあなたたち。

 ただし、両方に名を」

 ラウラはペンを取り、静かに書いた。

 ラウラ・エーベル

 封蝋が落ち、極小の輪が蝋の中で黙って沈んだ。

 それは、符丁ではなく、終止符だった。


 「付け替えに進む」

 ハルトの声がわずかに軽くなった。

 私は**『回線付替命令(名版)』を広げ、欄を埋める。

 対象:“λ”継続出納/新宛先:公開録支所・学舎棚整備・療室資器材/理由:名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正

 殿下が音読掲示**の札を重ねる。

 「読み上げは?」

 「リスに」

 私は書記官補を見た。

 彼女は驚き、すぐに息を整えて頷いた。

 「……読みます」

 扉の外、控えの間で、十人ほどの文官が並ぶ。

 彼らは数字の人だ。けれど、耳も持っている。


 リスは札を掲げ、ゆっくり読んだ。

 「『回線付替命令(名版)――命令者の名:ラウラ・エーベル、ハルト、レオナルド、アリシア。対象:“λ”継続出納。新宛先――公開録支所、学舎棚整備、療室資器材。理由――名の看板を声の回線に貼り替えた不正を是正するため』」

 読み上げは滑らかで、間があった。

 ラウラが横で目を閉じ、小さく頷いたのを私は見逃さなかった。


 命令の控えを掲示板に貼り、引き出しに新しい見出し札を差す。

 “λ” → “名回線α”

 符丁から名へ。

 ハルトはその札を指で整え、しわを伸ばした。

 「……よく見える」

 「見える化が、秩序の第一歩です」

 私が言うと、彼は咳払いして背筋を伸ばす。

 「次にやるべきは、雛形の掃除だな」

 「“狼”の陸回線も」

 ルシアンが扉際から言う。

 「倉庫組合の北抜け。今夜当たる」

 殿下が頷いた。

 「王城内の回線は今日中に名で固定する。

 夜は“狼”。明日は“洞窟刷り”」

 ラウラが横目でルシアンを見た。

 「あなた、“媒介”ね」

 ルシアンが肩をすくめる。

 「“裏道”に名前を付け直すのが仕事だ」


 会計室を出ようとしたとき、リスが私の袖をそっと引いた。

 「……もう一つ、気になる紙があります」

 彼女は小箱から薄い封書を取り出す。

 封蝋は輪。しかし、輪の線は微かに二重。

 「“二重輪”……?」

 ハルトが顔をしかめる。

 「それは、王室会計の私室印だ。会計長でも会計官でもない。

 ――王子の私室」

 殿下が一歩近づき、封に手を伸ばしかけて止めた。

 「……弟のテオかもしれない」

 部屋に薄い緊張が走る。

 殿下はゆっくり封を割り、紙を開いた。

 そこには、細い字で短く書かれていた。


 > 『兄上へ。

 > “声の雛形”は、もう使えない。

 > だけど、名の国も、怖い。

 > ぼくは名前に“いい人”だけを置けない。

 > “悪い名”も、掲示される。

 > それは、ぼくを、母上を、そして……あなたを傷つける。

> だから、“二重輪”で緩衝庫を作った。

> 名が刺さる速度を、一晩遅らせるだけ。

> 許して。

> テオ』


 沈黙。

 殿下は紙を握り、目を閉じた。

 私の喉がきゅっと鳴る。

 名の国の痛み――それを、彼は先回りして抱こうとした。

 ラウラが低く言う。

 「“緩衝庫”は、数字ではバッファだ。

 悪用される。……だが、必要でもある」

 殿下は目を開き、紙を机に置いた。

 「二重輪は、名で公開する。

 “緩衝庫”の存在も、運用も、名で。

 ぼくらが痛むとき、名で痛もう。

 隠さない」

 声は少し掠れていた。

 けれど、まっすぐだった。


 私は羽根ペンを取り、『二重輪 運用告示(名版)』を書いた。

 ――『目的:名の掲示による社会的損傷の緩和/運用者の名:会計長ラウラ、王子テオ、監査:ハルト、公開監査:アリシア/期間:一晩/翌朝必ず公開掲示』

 ラウラが頷き、テオの名の欄にそっと空白を置いた。

 「本人の署名を待つ。……彼の名で」

 殿下はうなずく。

 「今夜、話す」


 会計室を出ると、東棟の廊下には穏やかな風が通っていた。

 窓の外、学舎の屋根が白く光る。

 “名の棚”の前に、誰かが立っているだろう。

 “今日こわかったこと”の札に、また別の字が増えているだろう。


 ルシアンが並び、声を落とす。

 「“狼”の件で、ベルトが人を回してくれる。

 数字の人間が味方に入ると、裏道の地図が見える化される」

 「今夜、倉庫組合の北抜けね」

 「うなずく犬と吠える犬がいる。……吠えるほうに“名の札”を」

 彼は笑い、階段を先に降りた。


 私は最後にもう一度、会計室の扉上の印を見上げた。

 十字の上の極小の輪。

 今その輪は、封蝋にも、告示にも、名にも変わった。

 記号のままではない。


 歩き出す。

 バルコニーに差す光が強まる。

 胸の指輪の空白に、今日の名をもう一つ、小さく追加した。

 ――緩衝バッファ

 名の痛みを、装置ではなく、手順で受け止めるための、薄い余白。

 それを誰の名で持つか。

 それを名で書いて残すか。


 坂の向こうで、鐘が一度。

 私は速度を少しだけ落とした。

 “狼”には速さが要るが、“名”には間が要る。

 そのふたつを両手に持って、夜までにもう一度、整え直すために。

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