第17話 港の鷹
朝の港は、風より先に声が来る。
綱を投げる掛け声、桶を降ろす合図、氷の割れる高い音。
桟橋の向こうでは、魚影を閉じ込めた木箱が規則正しく並び、積荷の墨字が朝露を吸って艶を出していた。
徴税所は、岸壁に張り付くように建っている。
切り妻屋根の下、石段を三段上がると、扉の横に“鷹”が彫られていた。
――金の流れの目印。昨夜、地下刷り場の帳にあった刻印だ。
「アリシア、準備は」
ルシアンが肩の木箱を下ろす。中には、昨夜刷った**『名の証言札』と『臨時掲示 押収命令票』、そして『公開帳簿閲覧票』**が束で入っている。
私は頷き、扉に貼られた古い告示を一枚剥がした。
「“寄進金の搬出口は裏”……。手順の影だね」
「裏口は声のため。表口は名のため」
ルシアンが笑い、扉を押し開ける。
「開局前だぞ!」
カウンターの奥で怒鳴ったのは、昨日版木を“閲覧扱い”に切り替えさせた官吏――ベルトだ。
鼻にかかった声、正確すぎる手つき。机の上には新しい羽根ペン、脇には磨き込まれた印章板。
ベルトは私たちを見ると、薄く目を細める。
「王命の使いが、朝一番から。……何を“押収”に?」
「押収じゃない」
私は木箱を台の上に置き、束の一枚を示した。
『公開帳簿閲覧票』――名と証言者の名で閲覧を開く札だ。
「閲覧と、付け替え。“鷹回線”を、王城の公開録支所へ」
ベルトの指が止まる。
「付け替え、だと?」
「昨夜の地下刷り場へ、徴税所口座から銀が落ちていた。鷹徴税所 → 灰鴉工房 → 地下刷り場。印字者名アルムの自筆で回線図が上がっている。
……ここで、名を取ろう。『誰の名』で、銀が動いたか」
ベルトの喉仏が上下した。ほんの一拍の沈黙。
「わたしは、規程に従い、出納を許可しただけだ。寄進再配分枠、臨時F……」
ルシアンが被せる。
「“臨時F”は、神殿寄進の穴埋め名目だ。声の穴を、声で塞いだ。
いまは名で塞ぐ。付け替える先は二つ――名の学校支所と炊き出し所」
「勝手なことを……」
ベルトは机を叩きかけ、ためらった。
私がそっと札を滑らせる。
『臨時掲示 付替命令/命令者の名: /日時: /理由: 』
「命令も名で。昨日、あなた自身が“受領票に名を書く”手順を受け入れた」
扉の向こうで、足音が重なった。
漁師たち、荷運び、女たち、子ども。
「公開帳簿はここか」「名で見られるって本当か」
朝のざわめきが、役所の乾いた空気を押し広げる。
ベルトは額に手を当て、視線を下げた。
その仕草に、私は既視感を覚える。
――誰かを見下ろす癖ではない。数字を覗き込む癖。
「ベルト」
私は声を落とす。
「あなたは“声の人”じゃない。数字の人だ。
父上は? 港帳場の写し手だった?」
ベルトの目が動いた。
「……父は、日没まで墨を磨いた。帳尻を合わせることだけが、秩序だと言った」
「だから、あなたは毎晩、帳の隙に震えてきた。
“声”は帳に隙を作る。
名は、隙を埋める」
ルシアンが木箱のもう一段を開ける。
中から、昨夜アルムが刷った**『名の証言札』が溢れた。
「印章の代わりに名を。『誰が誰を知っているか』の見える化**――数字化だ。
お前が好きな秩序のやり口で、名を扱える」
ベルトはしばらく黙り、やがて指先で机を二度叩いた。
「……閲覧台を出せ。名の列で」
扉が開き、書記が慌てて机を運んでくる。
私は最初の閲覧票に書き込んだ。
閲覧者の名:ミナ/証言者の名:アリシア
次にジョラン、ダリオ、そして昼に“枠”だけを書いた少年オト。
彼は自分で書いた。枠の中に、音と。
ベルトは目を細め、頷く。
「名の列、確認。……閲覧、許可」
帳簿が机に載り、革紐が解かれる。
寄進、再配分、臨時枠、出納――細い字がびっしり並ぶ。
私は指先で、昨夜アルムから受け取った回線図の矢印を辿った。
“臨時F”→“灰鴉工房”→“刷り場”
「ここ。灰鴉工房への出金。備考は“修繕費”。添付に木版の受領票――鷹の押し印」
ベルトが身を乗り出す。
「備考の筆跡、古い。……先代の出納役だ。上席が差し替えず、雛形で回した」
「雛形が声の穴になる。
なら、名の雛形を作ろう」
私は白紙を引き寄せ、太い字で見出しを書いた。
『付替命令書(名版)』
――『命令者の名/対象回線/新宛先/理由/証人の名/掲示場所』
「“理由”の欄を広く。数字が嫌がる曖昧さを、あえて残す」
ベルトが苦笑する。
「数字は曖昧を嫌う」
「でも、人は曖昧と共に生きる。理由は、名で書く」
やりとりを見ていた群衆の中から、若い女が一人、手を上げた。
「新宛先は“名の学校支所”と“炊き出し”で足りる? 病の部屋は?」
ベルトが即答した。
「臨時枠を三分割できる。学校、炊き出し、巡回療室。季節で比率を変えるには、公開掲示と署名が要る」
言葉が滑らかだ。
彼は、数字のどこに名を入れればエラーにならないか、もう理解している。
「ベルト」
私は命令書の“命令者の名”の欄を指で叩いた。
「あなたの名で、回線を切る?」
空気が固まる。
ベルトは羽根ペンを持ち上げ、ほんの一瞬、躊躇した。
その隙に私は、静かに言葉を添えた。
「代理でも、匿名でもなく。
あなたの名で。
“声の雛形”を止めた人として、記録に残る」
廊下の端で、ミナが腕を組む。
「名で残れば、悪口にも善口にもなる。……でも、責任は聞こえよく残るよ」
ベルトは息を吸い、羽根ペンを下ろした。
命令者の名:ベルト・ハーゲン
対象回線:臨時F(鷹徴税所)
新宛先:名の学校支所/炊き出し所/巡回療室
理由:声の雛形による不透明な再配分を是正し、名で結ぶ手順に復すため
証人の名:アリシア、ルシアン、ミナ、ジョラン、オト
ペン先が紙を離れると、部屋に一つ、見えない音が落ちた。
名で責任を負う音。
それは剣の抜ける音よりも、ずっと重かった。
「掲示は广場か?」
「いいや」
私は命令書の下にもう一枚重ねる。
『音読掲示票』
――『読み上げ人の名: /場所: /聴衆: 』
「読む。紙は、耳で公開されると体温を持つ」
ベルトが苦笑して、手を挙げた。
「……読み上げは、私がやる。
鷹の刻印の下で数字しか喋ってこなかったが、名を言う練習くらいは、ここで」
「練習には、間が要る」
ルシアンが扉を開き、港の朝風を入れる。
「人の呼吸の速度で、言葉を置け」
石段の上。
ベルトは命令書を掲げ、ゆっくりと読み始めた。
「『付替命令書(名版) 命令者の名――ベルト・ハーゲン。対象回線――臨時F。新宛先――名の学校支所、炊き出し所、巡回療室。理由――声の雛形による不透明な再配分を是正し、名で結ぶ手順に復すため。証人の名――』」
読み上げの途中で、彼は一度だけつかえた。
オトの名の前で。
彼は視線を上げ、少年を探し、名前を確かめるように口を動かし、もう一度読んだ。
「オト」
観衆のどこかで、小さな拍手が生まれ、それに別の拍手が重なっていく。
読み終えると、帳場の書記が受領票を二通切った。
『回線付替受領票/受領者の名:鷹徴税所 ベルト・ハーゲン』
「……回線切替、即時実施」
ベルトは印章板を押さえ、深く頭を垂れた。
その姿は、神殿へではなく、人の側へ向けた礼に見えた。
雑踏がほどけると、ルシアンが低く囁いた。
「見張っておけ。臨時Fの副回線があるはずだ」
「副回線?」
「表(徴税所)を切ると、裏(倉庫組合)から回る逃げ道。雛形を作ったやつは、人が恐れに戻る習性を知ってる」
私は頷き、閲覧台のほうへ戻った。
帳簿の片隅――小口の欄に、細く刻まれた**“L-2”。
「これが裏口**……第二回線」
「名を乗せ替えろ」
ベルトが机越しにペンを差し出す。
「“L-2”の上に、臨時封印票を。名で」
私は札を一枚起こし、太く書いた。
『臨時封印票/封印者の名:ベルト・ハーゲン/理由:回線L-2の不透明性』
ペンが走り、封蝋が落ちる。
――裏口も、名で塞がれた。
ほっと息をついた、そのときだった。
岸壁側から、粗い笑い声。
「名で塞いだところで、声はいくらでも刷れるぜ」
石段の下に、昨夜すれ違った若者が立っていた。
手には新しい刷り物。『名は弱い』の見出し。
だが隅に印字:アルムはない。
紙の地が粗く、行間が詰まり過ぎている。
北の洞窟刷り――地下刷り場とは別の、逃げ工房。
若者は顎を上げ、笑った。
「“鷹”が切れたら、狼が走る。港の北の崖に狼の刻印の穴がある。
あんたらの“名”じゃ、風穴は塞げない」
「君の名は?」
「名は要らない。声だけあれば――」
「要る」
割って入ったのは、ベルトだった。
彼は石段を降り、若者の手から紙を取り、裏返して**『名の証言札』**を添えた。
「証言者に、ベルト・ハーゲンと書く。
今朝、君を“声の配り手”として見た。
君を、名で覚える」
若者の口元が歪み、舌打ちとともに紙束を胸に叩きつけ、走り去った。
その背に、波の匂いと印刷の油が混ざった風が流れた。
静けさが戻ると、ベルトは肩を落として笑った。
「名を言うのは、骨が折れる」
「でも、骨で立つ」
私は命令書の控えを丸めずに、板へ丁寧に貼った。
“名で回線を切り替えた日”。
記録は、うっすらと海風で揺れた。
港を離れるころ、太陽は高く、空の青さが増していた。
ルシアンが横歩きに並び、低く言う。
「“狼の刻印”は、倉庫組合の北抜けだ。
洞窟刷り――水路で紙を乾かして逃がす。
鷹を切っても、狼が走る。
次は陸の回線を、名で閉じる」
「行こう。名の札は足りる?」
「足りなくなる。……だから、刷る側を増やそう」
彼の黒い瞳に、昨夜の地下刷り場の光が宿る。
“速度”を“手順”で飼いならす――それは敵から味方へ連れて来る仕事だ。
王城に戻る坂の途中、私はふと立ち止まった。
ルシアンも足を止める。
「どうした」
「……これ」
懐から取り出したのは、ベルトが付け替えを終えた後、帳簿の奥に挟まっていた小さな控え。
“王室会計室 補助出納控”
隅に、見慣れた細い刻印――十字の上に極小の輪。
「玉座核の補修に使われた古い符丁だ」
ルシアンの表情が硬くなる。
「王室会計の誰かが、声の雛形を温存していた」
私は控えを白日の光に透かした。
数字が、微かに“声”の方角へ傾いている。
「狼は港に、輪は城の内に」
ルシアンが頷き、指先で名の札を弾いた。
「次は――城の中で名を呼ぶ番だ」
私は胸の前で指輪の空白を撫でた。
今日の名は、朝に刻んだ証人の横に、小さく**交点**と書き足す。
回線と回線の交わる点に立ち、名を繋ぎ替える仕事。
海の風が、指の輪を冷やした。
冷たさは、まだ必要だ。
恐れが装置に変わるまでの温度を測るために。
坂の上、王妃の窓に薄金の光。
あの部屋の前で、再び名が呼ばれるだろう。
王室会計室――輪の残滓――狼の運搬路。
呼び名を携え、私は歩を速めた。