第16話 恐れの印刷所
夜の王都は、足音に耳を傾けている。
石畳の継ぎ目に溜まった水が月を砕き、路地の隙間からパン屋の甘い匂いが漏れる。
私は外套の裾を握り、ルシアンの背を追った。
彼は灯りを持たない。持たずに進める路地だけを選ぶ。
「“漆黒の鷹”の古い回線は、まだ地面の下に残ってる」
囁くように言って、彼は側溝に指を触れた。水は手の甲を撫で、冷たさが骨まで伝わる。
「活版の匂い――油と金属と、煮た糊。南の水路に乗って、夜は北へ流れる」
私たちは三度曲がり、古い倉庫街の裏へ出た。
板塀越しに、薄い灯り。灯りの手前に二人の影。
見張りの呼吸は浅い。昼に警備隊をやっていた連中ではない。
「合図は要らない。こっちを見させるな」
ルシアンはそう言うと、暗がりから暗がりへ、壁の刻みを足場にして屋根に上がった。
私は地面側の影に身を寄せ、指で円を描く。
“真実を見る瞳”が薄く開き、板の隙間の向こうが線で見え始めた。
印刷台が二台。
手押しの大きいものと、軽い卓上。
組版台の上には、鉛の活字。
「声を返せ」「秩序は神のもの」「名は弱い」
――昼に見たフレーズが、そのまま金属になっていた。
紙を運ぶ少年が三人。インクを擦る女が一人。
そして、押し棒を握る男が一人。
背は高くない。背中が板のように固く、肘だけがよく動く。印刷人の癖。
「誰が、言葉を与えてる?」
私は息を殺し、組版台の脇を“読む”。
活字の箱の一角に、手書きの小片――見出し語の候補が何枚も差してある。
『恐れ』『救済』『秩序』『赦し』『神殿』『王妃』……
その字に、見覚えがあった。
旧議院の記録庫で何度も見た、写し手の字だ。
「……灰鴉工房の写字手」
低く呟くと、屋根の上からルシアンの影が指を立てた。
「見張りを眠らせる。三、二、一」
小石が闇を横切り、桶に当たって乾いた音を立てる。見張りの視線が跳ねた瞬間、ルシアンは高い軒から降り、ひとりの首筋に短く当て身を入れた。
私はもう一人の背へ回り込み、足を刈って口を押さえる。
扉を開ける時、私はあえて音を立てた。
“誰か来た”という合図を、地下にいる子どもたちへ渡すために。
「止めて!」
最初に叫んだのは、インクを擦っていた女だった。
両手が黒い。目は怯えと怒りの間で揺れている。
押し棒の男がこちらを振り返り、棒の先を構えた。
私は正面から目を合わせる。
「組版を外して。活字を崩したら、話す」
「誰に、命じられている」
「名で頼んでる。私はアリシア。あなたは?」
男の目が、ほんの少しだけ動いた。
「……ダフ」
「ダフ、押し棒を置いて」
「置いたら、声は誰に返る」
「人に。神殿じゃなく、恐れじゃなく、名に」
ダフは棒を下げた。
ルシアンが屋根裏から降り、少年たちの前に膝をつく。
「家は? ここにいてもいいが、名は書けるか」
少年の一人が首を振る。もう一人は、唇を噛む。
「枠だけは書ける」
私は微笑んだ。
「なら、枠から始めよう」
炉の火を絞り、印刷台の横に円卓を作る。
ダフは押し棒を壁に立てかけ、指を拭きながら、こちらを見た。
私は活字の箱を覗き、手書きの小片を一枚抜く。
――『赦し』
「この字を書いたのは、あなたじゃない」
ダフの肩がわずかに揺れた。
「書いたのは、“灰鴉工房”の見習い頭――アルム。写字手の中で、字形が綺麗すぎる。
彼は議会の日録も写していた。だから、言葉に“重み”を見せる術を知っている」
ダフは顔を歪め、後ろを振り返る。奥の影が動き、灯りが一つ揺れる。
出てきた男は、白い手袋をしていた。
手袋はインクで黒く染まっているのに、外したばかりのように清潔に揃えられている。
目はよく眠った人間の目だ。
「ようこそ。言葉の工房へ」
彼は礼儀正しく一礼した。
「アルム。あなたが“恐れの印刷所”の主?」
「主ではありませんよ。段取りを整えただけです」
彼は、活字の箱に手を伸ばし、指で“恐れ”の字を弾いた。
「恐れは、熱い。熱いものは、よく伸びる。
“名”は冷たい。冷たいものは、欠けやすい」
ルシアンが短く笑った。
「伸びの良い嘘ほど、すぐに湿気る」
「湿気ないように刷るのが、私の役目です」
私は一歩進み、活字の箱に手を入れた。
一本一本の字が、鉛の体温を持っている。
「アルム。あなたの仕事は美しい。
でも、その美しさを“恐れの声”に貸すなら、名で説明して」
彼は首を傾げ、指先を拭いた。
「“名で説明”――良い響きです。
では、アリシア嬢。あなたは“名で結ぶ”と言った。
結ぶのなら、結び目が必要だ。
この街の人々は、同じ言葉で結ばれてきた。
“神の声”という同じ言葉で。
それを失った今、彼らはばらばらです」
「ばらばらでいい。名は、ばらばらで生まれて、呼び合って結び直す」
「遅い」
アルムは冷ややかに言った。
「印刷は、速い。
人が手で言葉を運ぶより、ずっと速い。
速度こそ、秩序です」
ルシアンが後ろで低く息を吐く。
私は首を振った。
「速度は秩序じゃない。手順が秩序を作る。
あなたは速度で“恐れ”を増幅した。手順で“名”を扱ったことがある?」
アルムの眉が、初めてわずかに動いた。
「手順?」
「書く、読む、返す。
間を置いて、もう一度書く。
あなたの活字には、その“間”がない」
沈黙が落ち、印刷台の鉄が夜気で軋んだ。
ダフが口を開く。
「アルム、俺たちは金が欲しかった。
神殿が金を止め、工房も仕事を減らした。
そこへ“声を返せ”の紙が来た。
『毎晩、百枚。銀貨十枚』」
アルムの目が細くなる。
「依頼主の名を、ここで言う気はない」
「言えとは言わない。
でも、扉を開けてほしい。
印刷所を“恐れの拠点”から“公開録の支所”に変える」
私が言うと、アルムは笑った。
「“公開録”を、この地下で? 遅い」
「遅くていい。
ここで名を刻み、上で読み上げる。
あなたの腕で、名の抄訳を刷ってほしい。
今日、“名の棚”で起きていることを、速く、でも手順で」
アルムは私を見て、それから少年に目を落とした。
枠だけしか書けない子が、インクの染みだらけの手で紙を撫でている。
「……枠か」
彼は棚から薄い鉛の板を取り出し、金床に載せた。
「空白の活字。隙間を開けるための字だ。
美しくないと、見出しが息苦しくなる」
ルシアンが鼻で笑う。
「空白を刷れるなら、間も刷れるな」
アルムは手袋を外し、私をまっすぐ見た。
「条件がある」
「聞くわ」
「名を刷るときは、“私の名”も刷る。
アルムがこの街で何を刷ったか――責任も、紙に残る」
「それでいい。
責任は、名で負う」
ダフが押し棒に手を置いた。
「じゃあ、まず何を刷る」
私は迷わず答えた。
「“名の証言札”。印章がなくても閲覧できる、名と証言者の名の札。
それから、“今日こわかったこと”の札。
恐れを名で書き、棚に差すために」
アルムは頷き、卓上の版木を引き寄せる。
鋭い動きで文字を並べ、空白を丁寧に挟み、木枠で締める。
ダフがインクを擦り、女が紙を切り、少年が水を運ぶ。
印刷台のハンドルが回り、初刷りが出た。
『名の証言札』――文字は丸く、読みやすい。
隅に小さく、印字:アルム。
「次」
アルムが短く言う。
私はもう一枚の下書きを出した。
『名を返せ』
アルムが目を細める。
「“声”ではなく、“名”」
「ええ。
“声を返せ”は、誰にかが分からない。
“名を返せ”は、返す先が分かる」
版が組まれ、紙が重なり、十、二十、五十。
ルシアンが束を取って外に走る。
「北門と市場へ投げ込む。
“声”で煽られる前に、“名”で満たせ」
その間に私は、組版台の脇に置かれた財布袋を指で押した。
銀貨が十枚ずつ、丁寧に束ねられている。
袋には、鷹の刻印。
「資金の出所は鷹――巡礼騎士団の残党?」
アルムは首を振る。
「違う“鷹”だ。
港湾の徴税所の鷹。
あそこはまだ、寄進の古い回線が動いている」
私は息を飲む。
「ルートを紙に書いて」
「書く。私の名で」
彼は新しい紙を引き寄せ、細い筆で矢印と額を記した。
“鷹徴税所 → 灰鴉工房 → 地下刷り場”
その下に、アルムの署名。
外で足音。
ルシアンが戻り、頷いた。
「市場で“名の札”が回ってる。
ジョランが証言して、ダリオが“こわかったこと”を書いてた。
こっちは速いが、間をつけた。
受け止められる速度だ」
その時、倉庫の表で木がはぜる音。
扉が叩き割られ、鎧の影が雪崩れ込む。
「印刷所を押収する!」
先頭の鎧の脇に、見慣れた横顔――徴税所の官吏がいた。
彼は鼻にかかった声で叫ぶ。
「違法印刷物の流布! 王命に反す!」
ルシアンが低く笑い、肩をすくめた。
「王命は“公開録”だ。
これは“名の札”。王の署名もある」
官吏は目を狭め、紙をひったくる。
隅の“印字:アルム”に目が止まり、口元が歪む。
「責任者の名が刷ってあるとでも――だから何だ」
私は一歩出た。
「だから、あなたの名もここに刷れる。
“押収を命じた官吏の名”。
名で行動し、名で記録され、名で問われる」
背後でアルムが版を組み替える気配。
ほどなく、新しい紙が出てきた。
『臨時掲示 押収命令/命令者の名: /日時: /理由: 』
官吏の喉仏が上下する。
「ふざけるな」
「手順です。
あなたも“名で結ぶ国”の一員。
命令は名で、理由も名で。
それが嫌なら、声に戻るか、沈黙へ帰るか」
沈黙が落ちた。
鎧の列のどこかで、短い笑いが漏れ、すぐに止まる。
官吏は顔を赤くし、扉を見た。
「……今回は、閲覧扱いにする。
だが、版木は預かる」
アルムが静かに言う。
「預ける。受領票に、あなたの名を」
官吏は顔を背け、羽根ペンを掴んだ。
名を書く音は、剣よりも重く響く。
受領票が二通作られ、片方がこちらに渡った。
受領者:徴税所官吏 ベルト
彼は紙を胸に押し当て、踵を返した。
鎧の列が退き、扉がまた静かになった。
息をつく。
炉の火が小さく鳴り、インクが鈍く光る。
アルムが押し棒から手を離し、こちらを見た。
「“名の国”は、面倒くさい」
「だから、生きられる」
私は笑う。
「あなたの印刷は、今夜から面倒くさい方へ」
アルムは肩を竦め、手袋を脱ぎかけて、やめた。
「手袋は汚れたままでいい。
刷った責任が見える」
ダフと女と少年たちが、刷り上がった束を抱えて階段を上がる。
夜風が紙を鳴らし、遠くで鐘が一度鳴った。
私は版木の一つに触れ、指の腹に鉛の冷たさを写す。
“恐れ”の版木は、アルムが砕いていた。
金床の上に、細い破片。
「恐れの見出しは、もう刷らない」
彼はそう言って、空白の活字を箱に戻した。
倉庫を出る前、ルシアンが私の肩を軽く叩いた。
「港の徴税所を当たる。明日の朝、名の札を持って行く。
“誰の名で銀が動いてるか”――名で出させる」
「私も行く。窓口は“名の学校”で慣れてる」
「頼もしい先生だ」
ルシアンは笑い、暗がりに消えた。
地上に上がると、風が一段冷たかった。
路地の向こう、学舎の上に微かな明かり。
セリーナが窓辺にいて、帳面を膝に、何かを書いているのが見えた。
彼女は私に気づき、指で空白を示す。
――今日の名。
私は胸の前で指輪を握り、うなずく。
証人、そして今夜は編集。
名を整え、手順に入れる役目。
城へ戻る坂の手前で、足音。
紙束を抱えた若者が、私の前に立ちはだかった。
印刷仕立ての新しいビラ。
彼は息を切らし、喉を震わせて言った。
「“名は弱い”――あんたがこれを壊すから、俺たちは強さを失う!」
私は足を止め、紙を受け取った。
活字はさっき見た字。だが、隅に印字:アルムはない。
粗い板、乱れた行。
「……別の刷り場」
若者の目は乾いていた。
「北の洞窟刷りだ。
あんたらが一つ止めても、声はいくらでも刷れる」
私は息を吸い、若者の肩を指先で軽く叩いた。
「君の名は?」
若者は答えない。
私は紙の裏に、さっき刷ったばかりの札を添えた。
『名の証言札』
「君の名を知る人を、二人連れて来て。
“強さ”は名で立つ。
声は吹けば消える。
名は、呼べば残る」
若者は紙を取り、舌打ちして走り去った。
背中に、夜風と、印刷の匂い。
坂を上る。
王城のバルコニーに灯りがともり、薄明が石肌の端を青くする。
私は指輪の空白を撫で、ゆっくりと言葉を置いた。
――編集。
恐れの速度に追いつくためではなく、手順に人を戻すための編集。
その名で、今夜は眠ろう。
最後に、空を見上げる。
星は少ない。雲が多い。
けれど、雲の向こうにも名前がある。
呼べば、届く。
呼び続ければ、刷られた恐れより、言われた名のほうが残る。
私は歩を速めた。
明日の朝、港の徴税所で“名の札”を突きつけるために。
“鷹”の回線を、名で切り替えるために。