表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/24

第15話 名の学校

 王都の古い学舎は、朝の光を喉に抱いていた。

 長く使われていなかった書庫の扉を開けると、塵が金粉のように舞う。

 私は外套を脱ぎ、袖を捲る。木の棚板に触れると、乾いた温度が掌に移った。


 「――この一列を“公開録の棚”にしましょう」

 私が言うと、職人の女が頷く。

 「釘は薄く、子どもの手が触れても引っかからないように。札は大きく、字は丸く」

 「お任せを」

 女は口にくわえた釘を軽く弾き、手際よく板を据え付けた。

 彼女の首元には小さな布切れ。そこに刺繍された名前――“ミナ”。


 「名、可愛いですね」

 「へへ、孫が縫ってくれたんですよ。『ばあの名はここにある』って」

 ミナは照れたように笑い、もう一度釘を打つ。

 “名の棚”は、こうした小さな手の連続で出来上がっていく。


 やがて棚が立ち、私は巻物の紐を解いた。

 『廃棄規程』『透明化令』『常設審問令』『再編令』――昨夜、広場で読み上げられた四つの令の写しだ。

 子どもの背丈に合わせて下段に、易しい言葉の抄訳も置く。

 『こわがらせる道具は、ぜんぶすてます』『お金の道は、みんなに見せます』『話しあう場所を、いつも開けます』『剣は、守るためにつかいます』――

 丸い字で書き、難しい語には小さな絵を添えた。


 「アリシア様!」

 戸口で声が跳ね、細い影が二つ、書庫に飛び込んできた。

 魚屋の子のトムと、その妹のリナだ。

 リナはまだ字が読めないが、声はよく通る。

 「『こわがらせる道具』って、どれ?」

 私は床にしゃがみ、彼女と目の高さを合わせた。

「『こわがらせる道具』は、人の心をぎゅっとつかんで、息を止めさせるもの。

 名前を呼ぶのと反対のことをする道具よ」

 「リナは、こわくない」

 「それは強い名だね」

 リナは胸を張り、兄の腕にぶら下がる。

 トムは頬を掻きながら、棚の抄訳を指でなぞった。

 「……おれ、名前、書いていい?」

 「もちろん。読んだ人の名を、ここに残そう」

 私は棚の端に紙を貼り、“読んだ人の名”の欄を作る。

 トムは舌先を出して、ゆっくりと書いた。

 トム。

 その字は少し曲がっていたが、確かにそこに立っていた。


 昼頃、灰のドレスをまとったセリーナが、こっそりと書庫に顔を出した。

 「ここ、いい匂い」

 「紙と木の匂いね。眠くなる匂いでもある」

 彼女は無言でうなずき、棚の前に立った。

 抄訳の前で足を止め、丸い字を指で追いながら、ほんの小さな声で読み上げる。

 「……“こわがらせる、どうぐは、ぜんぶすてます”」

 読み終えると、彼女は胸に手を当てた。

 「ここ、いたくない」

 「それは、良い兆し」

 セリーナは帳面を取り出し、“名の帳”に新しい名を書いた。

 ミナ――さっきの職人の名だ。

 「わたし、今日会った人の名を、毎日ひとつ覚える」

 「いいね。名は、痛みを薄くする薬だから」


 午後、学舎の鐘が二度鳴る頃、最初の“つまずき”がやって来た。

 窓口の長机の前に、長い列。

 “寄進の透明化”のための帳簿閲覧に、市民が殺到していたのだ。

 木札を抱えた文官が、列を見て蒼い顔をする。

 「一人ずつ、印章と身元を――順番に!」

 「印章なんて持ってないよ!」

 「名前ならある!」

 怒号と嘆きが混ざって渦になる。

 私は列の後ろから前に歩き、文官の前に立った。

 「なぜ止めるの?」

 文官は眉間に皺を寄せ、紙束を振った。

 「規定です。閲覧には印章が――」

 「規定は“名で結ぶ”ためにある。名がある人を、印章がないからと締め出せば、それは“恐れの装置”の別名になる」

 「しかし、偽名で――」

 背後で、ミナが口を挟んだ。

 「なら、ここで名を証言しようじゃないか。

 “町の名寄せ”ってやつだよ。あたしはこの子を知ってる、って」

 彼女は前に出て、列の先頭の男の肩を叩いた。

 「この子はジョラン。市場の荷運び。うちの釘を運んだのは、この子だ。刻み傷まで覚えてる」

 男の目に涙が浮かぶ。

 文官は口をつぐみ、私を見る。

 私は頷いた。

 「“名の証言札”を作りましょう。印章の代わりに、二人の名を」

 私は棚から紙を取り、すぐに書式を作った。

 ――『私は、彼(彼女)の名を知っている/名:   /証言者の名:   /日付:   』

 「この場にいる誰かが名で証言すれば、閲覧を許可。後日、印章が整ったら記録に加える。

 遅さは手続きで補う。今は、“扉を開く”ことを優先する」

 文官は迷った末、硬い声で言った。

 「……臨時運用として、ここに記す」

 ペンが走る。

 列の空気が少し軽くなる。

 ミナがジョランの背中を押し、子どもたちが控えめに歓声を上げた。


 混乱の端で、フードを深くかぶった少年が、棚の前で立ち尽くしていた。

 やせていて、靴は破れている。

 「名前を、書いてもいい?」

 少年は呟き、紙片の端を指で摘まんだ。

 「もちろん」

 少年は長い沈黙のあと、震える手で書いた。

 □

 四角。中身のない枠だけ。

 私は膝をつき、少年の視線の高さに合わせた。

 「枠、いいね」

 「名前、ない。ずっと“おい”とか“おまえ”って呼ばれてたから」

 胸の奥が軋んだ。

 「枠は、名の余白だよ。今は空でも、そこに何をでも入れられる。

 今日の名を、一晩かけて考えて、明日この枠に入れにおいで」

 少年は目を瞬き、こくんと頷いた。

 セリーナがそっと近づき、自分の帳面を開いて見せる。

 「わたしの指輪にも、空白がある。毎日、そこに名を書くの」

 少年は帳面に映る空白を見て、初めて少し笑った。


 夕刻が近づくと、窓口は再びざわついた。

 「『廃棄規程』に署名を」と書かれた札の前で、鎧を磨いた若い騎士が立ち止まっている。

 彼の手は震えていた。

 「俺は、剣で食ってきた。廃棄に署名したら、俺の名はどこに行く?」

 私は迷わず応じる。

 「守る側に。『再編令』を読んで。剣は“恐れの装置”を守るための剣から、“名を守る剣”に変わる」

 若い騎士は眉を寄せて抄訳を読み、小さく息を吐いた。

 「……怖いな」

 「怖いと書いて。ここに」

 私は棚の隅に小さな紙を貼った。

 『今日こわかったこと』

 騎士は一拍置いて、そこに“仕事が変わること”と書いた。

 「名で書かれた“怖さ”は、装置にならない。

 手続きと時間で、薄まるから」

 彼はゆっくりと署名欄に名を書いた。

 ダリオ。

 書き終えると、不器用に敬礼をして去っていった。


 日が傾く。

 “名の棚”の前に、色とりどりの字が積み重なっていく。

 ミナ、トム、リナ、ジョラン、ダリオ――

 そして、四角。

 空白の名が、そこに“まだ来ない誰か”の席として残っている。


 片付けにかかった頃、裏手の勝手口で、ひそひそ声がした。

 「ここだ。張れ」

 私は扉を開けた。

 薄い紙束が、壁にぺたりと貼られている。

 粗雑な印刷。

 『声を返せ』『秩序は神のもの』『名は弱い』――

 昨夜の決まりを嘲る文言。

 貼っていた若者たちは私を見るなり散り、紙だけが風に鳴った。


 私は一枚を剥がし、光に透かす。

 字はぎこちなく、しかし不思議な統一感がある。

 「……誰かが、まとめて刷っている」

 ルシアンが背後に立っていた。いつの間に来ていたのか、手にはまだ油の匂いが残る木箱。

 「煽り文は、恐れの上に立つ。『沈黙の環』は壊したが、恐れの印刷所は残っているってことだ」

 セリーナが紙を覗き込み、首を振った。

 「『声を返せ』……声は、返したのに」

 「“神の声”を、だろう。人の声は、やっと今返ったところだ」

 ルシアンが紙を折りたたみ、胸元にしまう。

 「刷り場を探る。“漆黒の鷹”の古い回線、まだ使える。

 ただ、今日は学舎を守れ。ここは“名の砦”だ」

 「分かった。ここに“扉番”を置く。交代制で」

 私は抄訳の下に小さな札を差し込んだ。

 『この棚は、だれでも開ける/ただし、名で』


 日が落ちる前、少年が戻ってきた。

 フードの影から、ぎゅっと握った紙片が覗く。

 「……考えた」

 彼は、昼に書いた枠の横に、ゆっくりと字を入れた。

 オト。

 音。

 「いい名だね」

 私は微笑む。

 少年は顔を赤くし、しかしはっきり言った。

「“おと”って呼ばれてた。荷馬車の車輪の音ばっかり聞いてたから。でも、それ、嫌いじゃない。

 だから、ぼくの名にする」

 セリーナが拍手をした。

 ミナも、トムも、リナも、皆が笑う。

 “四角”は、“音”になった。

 名は、枠の外へ溢れず、枠の中に宿った。


 片付け終わり、戸締りを確認する。

 書庫の空気は朝より少し温かく、紙の匂いに人の呼吸の匂いが混じっていた。

 私は扉に小さな鍵をかけ、振り返る。

 “名の棚”は、夕焼けの中で静かに光っている。

 そこに積み重なった名は、装置の中で増幅されない。

 人と人の間で、ゆっくりと広がる。


 出口で、ルシアンが足を止めた。

 「明朝、印刷所を当たる。手を借りるかもしれない」

「いつでも」

 彼は片目をつぶり、夜の方へ消えた。

 セリーナは帳面を抱き、私の袖を引く。

 「今日の名、決めた?」

 私はポケットから白金の指輪を取り出す。

 内側の空白を指で触れ、静かに呟いた。

 「証人。それから……先生、少しだけ」

 セリーナが目を丸くする。

 「先生?」

 「名の棚の前では、誰でも少しだけ先生になるの」

 彼女は頷いて笑い、帳面に小さく“先生”と書き足した。


 王城への坂道を上る途中、広場の端でたいまつの光が揺れた。

 『声を返せ』の紙が幾つか燃やされ、灰が夜風に舞う。

 その灰の向こうで、子どもが誰かの名を呼び、大人が振り向く。

 その一往復が、今日、確かに増えた。


 私は胸の前で指輪を握りしめた。

 “今日の名”が、金属の内側に静かに沈む。

 明日はきっと、また違う名が必要になる。

 でも、枠はいつもここにある。

 空白が、私たちの余白であり続ける限り、恐れは装置にならない。


 坂の上、王城のバルコニーに灯りがともる。

 朝に交わした“零番の約束”が、ふと胸に戻ってきた。

 私は振り返らず、しかし口元に笑みを浮かべる。

 名前を呼べば、戻れる。

 呼ぶために、名を学ぶ。

 ――それが、“名の学校”の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ