第15話 名の学校
王都の古い学舎は、朝の光を喉に抱いていた。
長く使われていなかった書庫の扉を開けると、塵が金粉のように舞う。
私は外套を脱ぎ、袖を捲る。木の棚板に触れると、乾いた温度が掌に移った。
「――この一列を“公開録の棚”にしましょう」
私が言うと、職人の女が頷く。
「釘は薄く、子どもの手が触れても引っかからないように。札は大きく、字は丸く」
「お任せを」
女は口にくわえた釘を軽く弾き、手際よく板を据え付けた。
彼女の首元には小さな布切れ。そこに刺繍された名前――“ミナ”。
「名、可愛いですね」
「へへ、孫が縫ってくれたんですよ。『ばあの名はここにある』って」
ミナは照れたように笑い、もう一度釘を打つ。
“名の棚”は、こうした小さな手の連続で出来上がっていく。
やがて棚が立ち、私は巻物の紐を解いた。
『廃棄規程』『透明化令』『常設審問令』『再編令』――昨夜、広場で読み上げられた四つの令の写しだ。
子どもの背丈に合わせて下段に、易しい言葉の抄訳も置く。
『こわがらせる道具は、ぜんぶすてます』『お金の道は、みんなに見せます』『話しあう場所を、いつも開けます』『剣は、守るためにつかいます』――
丸い字で書き、難しい語には小さな絵を添えた。
「アリシア様!」
戸口で声が跳ね、細い影が二つ、書庫に飛び込んできた。
魚屋の子のトムと、その妹のリナだ。
リナはまだ字が読めないが、声はよく通る。
「『こわがらせる道具』って、どれ?」
私は床にしゃがみ、彼女と目の高さを合わせた。
「『こわがらせる道具』は、人の心をぎゅっとつかんで、息を止めさせるもの。
名前を呼ぶのと反対のことをする道具よ」
「リナは、こわくない」
「それは強い名だね」
リナは胸を張り、兄の腕にぶら下がる。
トムは頬を掻きながら、棚の抄訳を指でなぞった。
「……おれ、名前、書いていい?」
「もちろん。読んだ人の名を、ここに残そう」
私は棚の端に紙を貼り、“読んだ人の名”の欄を作る。
トムは舌先を出して、ゆっくりと書いた。
トム。
その字は少し曲がっていたが、確かにそこに立っていた。
昼頃、灰のドレスをまとったセリーナが、こっそりと書庫に顔を出した。
「ここ、いい匂い」
「紙と木の匂いね。眠くなる匂いでもある」
彼女は無言でうなずき、棚の前に立った。
抄訳の前で足を止め、丸い字を指で追いながら、ほんの小さな声で読み上げる。
「……“こわがらせる、どうぐは、ぜんぶすてます”」
読み終えると、彼女は胸に手を当てた。
「ここ、いたくない」
「それは、良い兆し」
セリーナは帳面を取り出し、“名の帳”に新しい名を書いた。
ミナ――さっきの職人の名だ。
「わたし、今日会った人の名を、毎日ひとつ覚える」
「いいね。名は、痛みを薄くする薬だから」
午後、学舎の鐘が二度鳴る頃、最初の“つまずき”がやって来た。
窓口の長机の前に、長い列。
“寄進の透明化”のための帳簿閲覧に、市民が殺到していたのだ。
木札を抱えた文官が、列を見て蒼い顔をする。
「一人ずつ、印章と身元を――順番に!」
「印章なんて持ってないよ!」
「名前ならある!」
怒号と嘆きが混ざって渦になる。
私は列の後ろから前に歩き、文官の前に立った。
「なぜ止めるの?」
文官は眉間に皺を寄せ、紙束を振った。
「規定です。閲覧には印章が――」
「規定は“名で結ぶ”ためにある。名がある人を、印章がないからと締め出せば、それは“恐れの装置”の別名になる」
「しかし、偽名で――」
背後で、ミナが口を挟んだ。
「なら、ここで名を証言しようじゃないか。
“町の名寄せ”ってやつだよ。あたしはこの子を知ってる、って」
彼女は前に出て、列の先頭の男の肩を叩いた。
「この子はジョラン。市場の荷運び。うちの釘を運んだのは、この子だ。刻み傷まで覚えてる」
男の目に涙が浮かぶ。
文官は口をつぐみ、私を見る。
私は頷いた。
「“名の証言札”を作りましょう。印章の代わりに、二人の名を」
私は棚から紙を取り、すぐに書式を作った。
――『私は、彼(彼女)の名を知っている/名: /証言者の名: /日付: 』
「この場にいる誰かが名で証言すれば、閲覧を許可。後日、印章が整ったら記録に加える。
遅さは手続きで補う。今は、“扉を開く”ことを優先する」
文官は迷った末、硬い声で言った。
「……臨時運用として、ここに記す」
ペンが走る。
列の空気が少し軽くなる。
ミナがジョランの背中を押し、子どもたちが控えめに歓声を上げた。
混乱の端で、フードを深くかぶった少年が、棚の前で立ち尽くしていた。
やせていて、靴は破れている。
「名前を、書いてもいい?」
少年は呟き、紙片の端を指で摘まんだ。
「もちろん」
少年は長い沈黙のあと、震える手で書いた。
□
四角。中身のない枠だけ。
私は膝をつき、少年の視線の高さに合わせた。
「枠、いいね」
「名前、ない。ずっと“おい”とか“おまえ”って呼ばれてたから」
胸の奥が軋んだ。
「枠は、名の余白だよ。今は空でも、そこに何をでも入れられる。
今日の名を、一晩かけて考えて、明日この枠に入れにおいで」
少年は目を瞬き、こくんと頷いた。
セリーナがそっと近づき、自分の帳面を開いて見せる。
「わたしの指輪にも、空白がある。毎日、そこに名を書くの」
少年は帳面に映る空白を見て、初めて少し笑った。
夕刻が近づくと、窓口は再びざわついた。
「『廃棄規程』に署名を」と書かれた札の前で、鎧を磨いた若い騎士が立ち止まっている。
彼の手は震えていた。
「俺は、剣で食ってきた。廃棄に署名したら、俺の名はどこに行く?」
私は迷わず応じる。
「守る側に。『再編令』を読んで。剣は“恐れの装置”を守るための剣から、“名を守る剣”に変わる」
若い騎士は眉を寄せて抄訳を読み、小さく息を吐いた。
「……怖いな」
「怖いと書いて。ここに」
私は棚の隅に小さな紙を貼った。
『今日こわかったこと』
騎士は一拍置いて、そこに“仕事が変わること”と書いた。
「名で書かれた“怖さ”は、装置にならない。
手続きと時間で、薄まるから」
彼はゆっくりと署名欄に名を書いた。
ダリオ。
書き終えると、不器用に敬礼をして去っていった。
日が傾く。
“名の棚”の前に、色とりどりの字が積み重なっていく。
ミナ、トム、リナ、ジョラン、ダリオ――
そして、四角。
空白の名が、そこに“まだ来ない誰か”の席として残っている。
片付けにかかった頃、裏手の勝手口で、ひそひそ声がした。
「ここだ。張れ」
私は扉を開けた。
薄い紙束が、壁にぺたりと貼られている。
粗雑な印刷。
『声を返せ』『秩序は神のもの』『名は弱い』――
昨夜の決まりを嘲る文言。
貼っていた若者たちは私を見るなり散り、紙だけが風に鳴った。
私は一枚を剥がし、光に透かす。
字はぎこちなく、しかし不思議な統一感がある。
「……誰かが、まとめて刷っている」
ルシアンが背後に立っていた。いつの間に来ていたのか、手にはまだ油の匂いが残る木箱。
「煽り文は、恐れの上に立つ。『沈黙の環』は壊したが、恐れの印刷所は残っているってことだ」
セリーナが紙を覗き込み、首を振った。
「『声を返せ』……声は、返したのに」
「“神の声”を、だろう。人の声は、やっと今返ったところだ」
ルシアンが紙を折りたたみ、胸元にしまう。
「刷り場を探る。“漆黒の鷹”の古い回線、まだ使える。
ただ、今日は学舎を守れ。ここは“名の砦”だ」
「分かった。ここに“扉番”を置く。交代制で」
私は抄訳の下に小さな札を差し込んだ。
『この棚は、だれでも開ける/ただし、名で』
日が落ちる前、少年が戻ってきた。
フードの影から、ぎゅっと握った紙片が覗く。
「……考えた」
彼は、昼に書いた枠の横に、ゆっくりと字を入れた。
オト。
音。
「いい名だね」
私は微笑む。
少年は顔を赤くし、しかしはっきり言った。
「“おと”って呼ばれてた。荷馬車の車輪の音ばっかり聞いてたから。でも、それ、嫌いじゃない。
だから、ぼくの名にする」
セリーナが拍手をした。
ミナも、トムも、リナも、皆が笑う。
“四角”は、“音”になった。
名は、枠の外へ溢れず、枠の中に宿った。
片付け終わり、戸締りを確認する。
書庫の空気は朝より少し温かく、紙の匂いに人の呼吸の匂いが混じっていた。
私は扉に小さな鍵をかけ、振り返る。
“名の棚”は、夕焼けの中で静かに光っている。
そこに積み重なった名は、装置の中で増幅されない。
人と人の間で、ゆっくりと広がる。
出口で、ルシアンが足を止めた。
「明朝、印刷所を当たる。手を借りるかもしれない」
「いつでも」
彼は片目をつぶり、夜の方へ消えた。
セリーナは帳面を抱き、私の袖を引く。
「今日の名、決めた?」
私はポケットから白金の指輪を取り出す。
内側の空白を指で触れ、静かに呟いた。
「証人。それから……先生、少しだけ」
セリーナが目を丸くする。
「先生?」
「名の棚の前では、誰でも少しだけ先生になるの」
彼女は頷いて笑い、帳面に小さく“先生”と書き足した。
王城への坂道を上る途中、広場の端でたいまつの光が揺れた。
『声を返せ』の紙が幾つか燃やされ、灰が夜風に舞う。
その灰の向こうで、子どもが誰かの名を呼び、大人が振り向く。
その一往復が、今日、確かに増えた。
私は胸の前で指輪を握りしめた。
“今日の名”が、金属の内側に静かに沈む。
明日はきっと、また違う名が必要になる。
でも、枠はいつもここにある。
空白が、私たちの余白であり続ける限り、恐れは装置にならない。
坂の上、王城のバルコニーに灯りがともる。
朝に交わした“零番の約束”が、ふと胸に戻ってきた。
私は振り返らず、しかし口元に笑みを浮かべる。
名前を呼べば、戻れる。
呼ぶために、名を学ぶ。
――それが、“名の学校”の始まりだった。