第14話 婚約の条件
夜と朝の境は、息をひそめている。
王城の高みにある小さなバルコニーは、城下の気配を一枚の薄い膜みたいに受け止めて、静かに明るくなっていった。石の欄干は夜露で濡れている。指を置くと、冷たさが掌をまっすぐ貫いた。
その冷たさが、今の私には必要だった。
昨日、広場で読み上げられた四つの令。掲示板に並んだ名前。人々の歓声と涙。すべてがまだ胸の中で鳴っている。
“恐れではなく、名で結ぶ”。
紙に記した一行が、思っていたよりも重い響きを持って、私自身に戻ってくる。
扉が軋み、柔らかな足音がした。
「アリシア」
振り向く前から分かる声。
夜明け前の藍の光に、レオナルド殿下の横顔が浮かんだ。白いシャツの襟元を緩め、肩には薄い外套。
昨夜からほとんど眠っていないのに、瞳の奥は冴えていた。
――戦いが終わったわけではない。けれど、彼はちゃんと“呼び名の側”に立っている。
「こんな時間に、王子が抜け出すのは頂けません」
冗談めかすと、殿下は口元だけで笑った。
「王が寝ているうちに、王子でいられる時間を少しだけ借りただけだ」
欄干にもたれて、二人で城下を見下ろす。
市場の屋根に薄い霧が漂い、遠くでパン職人の釜が赤く灯る。
世界は確かに“人の手順”で動き始めている。鐘ではなく、たいまつではなく、装置ではなく。
人の呼吸と同じ速さで。
「話があって来た」
殿下は視線を遠くに投げたまま、静かに言った。
「昨日の“公開録”に署名してから、ずっと考えていた。
国に関する誓いは書類で足りる。
でも――君に関する誓いは、紙では足りない」
胸の奥で、何かが小さく跳ねる。
「……聞きます」
「婚約をやり直したい。けれど、あの夜のままでは嫌だ。
だから、“条件”をつけたい。俺のほうから」
“条件”。
その響きに、あの夜の冷たさが一瞬だけ喉を掠め、すぐに消えた。
今の彼の声は、命令でも取引でもない。
呼びかけの側にいる声だ。
「三つだ」
殿下は指を三本、光にかざした。
「一つ目。俺たちの婚約は、“国策”にも“神託”にも頼らない。
つまり、誰の恐れにも寄りかからない。
俺が王だから、君がふさわしいから――そんな言葉ではなく、名で結ぶ」
私は小さく頷いた。
「賛成です」
「二つ目。どちらかが“恐れ”に傾いたら、もう一方が名で引き戻す。
議場でも、寝所でも、路地でも、どこであっても。
君が沈黙に寄りかかろうとしたら、俺は君の名を呼ぶ。
俺が怒りに飲まれたら、君は俺の名を呼ぶ。
“王”とか“聖女”とかの肩書きではなく、ただの名前で」
喉の奥が、少し熱くなる。
「……難しい約束ですね」
「手間がかかる。だから、やる価値がある」
「三つ目」
殿下は言葉を区切り、私のほうを向いた。
「三つ目は、君が決めてくれ」
風が、夜露を揺らした。
“条件”をこちらに返すのは、ずるい。
でも、そのずるさが嬉しかった。彼は“対等”を、言葉ではなくやり方で示している。
私は一度、目を閉じた。
――何を望む? 何なら、明日の自分に恥じない?
浮かび上がったのは、たった一つだ。
「三つ目。
私たちの婚約は、誰の赦しにも置き換えない」
殿下の眉がわずかに動く。
「どういう意味だ?」
「たとえば、王妃様が私を娘のように思ってくださる日が来たとしても。
民が“王子と聖女の物語”を期待したとしても。
ヴァレンが“罪のあとに愛で救われる”物語を書こうとしても。
――私たちは“私たちの名”でしか確かめない。
赦しの物語に、私たちの婚約を使わない。
私とレオの間にいるのは、私とレオだけ」
殿下はしばらく黙り、やがて笑った。
「それは、強い条件だ」
「重い条件です。……でも、軽く愛したくない」
「俺もだ」
彼はゆっくりと頷き、指先で欄干をなぞった。石に刻まれた古い傷跡の上を、指がひと筆ずつ確かめていく。
「承知した。三つ、受け入れる。
俺からも、ひとつ、付け足していいか?」
「四つ目?」
「いや、零だ」
「零?」
「“約束は破るかもしれない”。その可能性を、最初から認めておきたい」
私は目を瞬いた。
「そんな前提、婚約に入れる人がいます?」
「俺は入れる。
政治も恋も、人間がやることだ。
恐れに負ける夜も、怒りに飲まれる朝も、必ず来る。
そのとき、俺たちは“破ったね”と責めるために名を呼ぶんじゃない。
“戻ってこい”と呼ぶために、名を呼ぶ。
――だから“零”。破った回数を数えるためじゃない。帰る場所の数を増やすためのゼロだ」
言葉の形が、胸の中でしっくりと嵌った。
私は小さく笑って頷いた。
「それなら、歓迎します。
“零番の約束”。戻るためのゼロ」
殿下が外套の内側から、小さな包みを取り出した。
「もうひとつ、渡したいものがある」
薄い布を解くと、白金の指輪が現れた。
あの“沈黙の誓印”に似ている――けれど、違う。
台座はもっと細く、宝石はない。内側に刻まれているのは、たった三文字。
A・L・□
空白の四角は、小さな枠として刻まれているだけで、何も入っていない。
「これは?」
「“呼び名の指輪”だ。
宝石の代わりに、空白をつけた。
ここは、君が今日の名前を刻むための余白だ。
“王妃の補佐”でも“審問の証人”でも“聖女の友”でもなく、君自身の名を。
――同じ指輪でも、日によって違う名が入っていい」
笑ってしまった。見たことがない。
婚約指輪が、変化する名前のために空白を持っているなんて。
「私、日替わりで名が変わるかもしれませんよ」
「知ってる。君は“媒介”にも“刃”にも“灯”にもなる。
だから、俺は空白で受け取る。
君が何者でも、君を“アリシア”と呼ぶために」
私は指輪を受け取り、しばらく掌で温めた。
内側の三文字が、指の腹で読み取れる。
A・L・空白。
「……はめてもいい?」
「はめないでくれ」
「え?」
殿下は照れたように笑って、首を振った。
「これは“婚約の条件”の指輪だ。
今はまだ“条件”を並べたばかり。
はめるのは、君が“今日”の名を刻んだ後でいい。
たとえば、今夜、机で。
羽根ペンで、そっと。
そして――明日の朝、もしまだその名でありたいと思えたら、そのとき初めて、指に」
胸の奥で、静かに何かがほどけた。
“今すぐ”を押しつけないやり方。
約束に余白を残すやり方。
そこに、彼の成長と、私たちの未来が見えた。
「分かりました。今夜、刻みます。
“今日の名”を」
私が言うと、殿下は一歩近づいた。
距離が、呼吸一つ分だけ縮まる。
「アリシア」
名を呼ばれる。
朝の前の温度に、その音が溶けていく。
「俺は、君が“アリシア”である限り、何度でも婚約を申し込む。
何度でも、君の条件を受け入れる。
――泣いた夜の俺に、やっと言える。
“恐れではなく、名で愛する”って」
涙は出なかった。
涙のかわりに、深い呼吸が降りてきた。
私は指輪を胸に当て、ゆっくり頷く。
「私も言います。
“赦しではなく、名で結ぶ”って。
誰かの物語の添え木ではなく、私たちの物語の芯でいたい」
殿下の手が、そっと私の手の上に重なった。
短い沈黙。
遠くで、最初の鳥が鳴いた。
「……あの夜、私が泣けなかった理由、分かりました」
「教えてくれ」
「恐れに名前がなかったから。
“失うこと”も“裏切られること”も、全部“神託”という霧に包まれていた。
でも今は違う。
――怖いものに、名前がついている」
「例えば?」
「“レオを失うこと”。
“レオを間違った名前で呼ぶこと”。
“私が私でなくなること”。
名前が付いたら、呼べる。呼べたら、戦える」
殿下は目を閉じて、息を吐いた。
そして、短く言う。
「ありがとう」
それは王国が生まれ変わるときに必要な言葉ではなく、二人のあいだにだけ必要な言葉だった。
城下の屋根の端から、朝日がひょいと顔を出す。
光が欄干を伝い、私の指先の夜露を金色に染めた。
殿下は手を離し、踵を返す。
「そろそろ行く。今日は文官たちと条文の詰めだ」
「私は、学校の書庫に行きます。新しい“公開録”の棚を作る。
子どもでも読めるように、言葉を整えたい」
「どっちが先に終わる?」
「競争にしません?」
「望むところだ」
彼は扉に向かいかけて、ふと振り返った。
「そうだ、最後に“零番の約束”の使い方、試しておこう」
「いきなり?」
殿下は真面目な顔をして頷く。
わざと少しだけ視線を逸らし、拗ねた声色を作った。
「俺は今、嫉妬している。
君が机に向かう夜、羽根ペンのほうが、俺より長く君の指を握っているからだ」
吹き出しそうになる。
「くだらない嫉妬ですね」
「だろう? だから、呼んでほしい」
私は笑いを飲み込み、まっすぐ彼の名を呼んだ。
「――レオ」
彼の表情が、子どものようにほどける。
「うん。戻れた」
「零番、成功です」
「次に破るのは、もっとくだらない理由にする」
「期待しておきます」
扉が閉まり、バルコニーに再び静けさが落ちた。
私は指輪を光にかざし、内側の空白を見つめる。
今日の名。
何を刻む?
机の引き出しを想像する。羽根ペン、インク、手帳。
“名の帳”に、セリーナが花の印を添えたあの丸い文字。
胸の奥に、そっと言葉が浮かぶ。
――証人。
恐れではなく名で結ぶ国を、見届ける証人。
そしてもう一つ、小さく。
――恋人。
まだ言い切れない。けれど、条件を並べ、余白を残した私たちの“今日”の名としては、たぶん正しい。
私は指輪を掌におさめた。
今夜、刻もう。
紙の上で、最初の一画を震えない手で。
鳥の声が増え、鐘が最初の音を落とす。
王城が動き出す。
人々がそれぞれの名で呼び合い、挨拶を交わす朝が来る。
私は欄干から身を離し、扉に手をかけた。
振り返らない。
――条件は、もう交わした。
あとは、生きながら、毎朝、名で確かめるだけだ。