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第13話 罪のあとに呼ばれる名

 夕刻の王城は、朝よりも音が柔らかい。

 石畳を打つ靴音も、旗を揺らす風も、昼の光の鋭さから解き放たれていた。

 私は回廊で足を止め、手すり越しに中庭を見下ろす。小さな噴水の縁に、白い布をかけた侍女が座り、眠る子の背をさすっている。

 ――あの子は、きっと名で呼ばれて育つ。恐れではなく。

 そう思うと、胸の奥がゆっくりと温まっていった。


 「アリシア」

 背後から、殿下の声。

 振り返ると、彼は軽い外套を羽織り、肩の傷を革で固定していた。あの騒擾からまだ一日しか経っていないのに、眼差しはさらに澄んでいる。

 「王妃様は?」

「順調だ。医師が“名を呼ばれて目を覚ますのが一番の薬だ”と言っていた。……母上は、セリーナの『お母さま』という声で、痛みを忘れるらしい」

 私も笑った。

 「セリーナは?」

 「今は王妃の間。祈りではなく、読み書きを始めた。自分の名を、手帳に何度も書いている」

 殿下は少し照れくさそうに視線を落とし、それから言葉を継いだ。

 「君に頼みたいことがある。……ヴァレンのもとへ行ってくれないか」

 「私が?」

 「俺では駄目だ。俺には“王としての憎しみ”と“息子としての怒り”が混ざってしまう。君だけが、名で向き合える」


 私は頷いた。

 「行きます。……戻ってきたら、宰相案の草稿、いっしょに見せてください。『寄進透明化』『審問常設化』『巡礼騎士団の再編』、署名の順番を」

 殿下は口角を上げた。

 「もちろん。君の筆で整えてほしい」


 ◆


 地下牢は、湿り気よりも静けさが勝っていた。

 鉄格子は厚く、灯りは控えめ。

 番兵が鍵を鳴らすたび、金属の音が長く延びて、やがて石に吸い込まれる。

 ヴァレンは奥の独居房にいた。黒衣は灰色に褪せ、指には細い痣が増えている。それでも姿勢は正しく、片手で喉元を押さえる癖は変わらない。


 「――来ましたか、アリシア嬢」

 「約束したでしょう。審問で会いましょう、と」

 彼は微かに笑い、目を伏せた。

 「あなたの“名”は、よく響く。牢にいても分かる。ここへ来るまでに、三度呼ばれたでしょう」

 私は目を瞬いた。

 廊下を曲がるたび、衛兵が小さく「アリシア様」と囁くのが確かに聞こえていた。

 ――それを“響き”と呼ぶのなら、たぶん私はようやく、声の持ち方を覚え始めている。


 「罪を問う場は終わりました。これからは、赦す場でもある」

 私が言うと、ヴァレンは肩で短く笑った。

「赦し。……早いですね」

 「早くはありません。遅すぎたことだってある。王妃の肩の傷、ルシアンの眠り、十五年前の赤子。

 “赦し”は、時間と競うものです」


 沈黙のあと、彼は格子に近づいた。

 「……あなたは、私を赦すのか」

 「赦すかどうかを決めるのは私ではありません。手続きと、あなた自身です。

 でも、“名で呼ぶ”ことはできます。ヴァレン」

 名前を呼んだとき、彼の喉がひとつ上下した。

 「私を名で呼ぶ者は、もういないと思っていました」

 「います。あなたは“高司祭”である前に、人です」


 彼はその言葉に、しばらく目を閉じていた。

 やがて、独り言のように呟く。

 「神は沈黙の中にいる。……私はそれを信じ過ぎた。

 あなたは、神をどこに見るのです?」

 私は少し考え、それから答えた。

 「神という言葉をまだ使うなら――“呼び名の間”に。

 誰かが誰かを名で呼ぶ、その一瞬のあいだに」


 ヴァレンは目を開き、視線を持ち上げた。

 「だから、あなたは“沈黙の誓印”を砕かなかったのか」

 「はい。あれは、最終手段です。

 私は“贖いの静寂”に寄りかかりたくなかった。

 私たちは生きて、手間のかかる手続きで、やり直すべきだと思うから」


 彼は長く息を吐き、鉄格子に額を寄せた。

 「手間、か。……実のところ、私が最も嫌ったのはそれでした。

 祈りは簡単で、手続きは難しい。

 私は、人の“難しさ”に負けたのです」

 「なら、次は“難しい側”にいてください」

 「牢の中で、何ができる?」

 「あなたの知っている悪手のリストを書いてください。装置の経路、寄進の裏、律線の仕組み。

 “恐れの秩序”の作られ方を、あなた自身の名で記録に残す。

 それは、赦しの前提になる」


 ヴァレンの指が、ゆっくりとほどけていく。

 「……それが、私の懺悔録になるのですね」

 「ええ。王国文庫に保管され、誰もが読める。

 誰かがまた“恐れの秩序”を夢見たとき、そこに“名前の犠牲”が数えられているべきです」


 彼は小さく笑った。

 「あなたは残酷だ、アリシア嬢。赦しとは、忘却だと思っていた」

 「赦しは忘却ではありません。記憶に“名前”を付け直すことです。

 罪のあとに呼ばれる名を、正しい場所に置く」


 格子のむこうで、彼は静かに頷いた。

 「紙と筆を」

 番兵が目配せをし、机と紙束、濃いインクを運び込む。

 ヴァレンは席につき、空白の紙にゆっくりと最初の一行を書いた。

 ――『告白録。高司祭ヴァレン、己の名において記す』

 ペン先が紙を擦る音が、地下の静けさに溶けていった。


 「……アリシア嬢」

 彼は顔を上げずに言った。

 「ひとつ、個人的な質問をしても?」

 「どうぞ」

 「あなたは、泣きましたか」

 私は少し驚き、それから正直に答えた。

 「夜会の夜は泣けませんでした。

 でも、森で殿下を抱いたとき、少し、泣きました」

 「その涙は、神にではなく、人に向かっていた」

 「ええ。だから、届いたのだと思います」


 彼はうなずき、視線を紙に戻した。

 「届く涙。……美しいですね。記録しておきましょう」


 ◆


 地上に戻ると、空は茜に染まっていた。

 長い影が廊下に伸び、遠くで鐘の音が二度。臨時審問の閉廷を告げる音だ。

 広間の階段では、文官たちが大きな板を運んでいる。新しい掲示板――“王国公開録”の第一面だ。


 「アリシア様!」

 駆けてきたのは、セリーナだった。

 今日の彼女は白衣ではなく、簡素な灰のドレス。首元には包帯のかわりに青いリボンが結ばれている。

 「お母さま、夕食はご一緒にって。……それと、これ」

 差し出されたのは小さな手帳。

 表紙に、拙い文字で“名の帳”と書いてある。

 「私と出会ってくれた人の名、書いてるの。お母さま、レオ、お父さま、ルシアン……それから、アリシア」

 私の名の横には、小さな花の印。

 胸が熱くなり、私は笑った。

 「素敵な帳面ね」

 「うん。……ねえ、ヴァレンは?」

 「書き始めたわ。自分の名で、罪の作り方を」

 セリーナは少しだけ目を伏せ、そして顔を上げた。

 「私も書く。“赦す”って書く」

 「無理をしないで。赦しは強制ではない」

 「うん。……でも、書いて、何度も読み返して、いつか心が追いついたら、ほんとに赦す」

 彼女の声は震えていない。名を持った声は、こんなにも安定しているのだと知る。


 「殿下が呼んでいる」

 廊下の向こうから、近侍――眠りから覚めたルシアンが姿を見せた。顔色はまだ薄いが、足取りはしっかりしている。

 「目を開けたのね!」

 「騒ぎすぎだ」

 彼は笑って頭を掻く。

 「俺の名、帳面に書いといてくれ。二度と、恐れ側に貸さないって誓印付きで」

 セリーナが大きく頷く。

 「もう書いた。ルシアン、の横に“媒介”って」

 「かっこよすぎるな」


 ◆


 王の執務室は、窓が大きく、風通しがいい。

 長机の上には新しい草案が広げられていた。

 『寄進透明化令』『審問常設令』『騎士団再編令』『神託装置廃棄規程』――それぞれの末尾に、署名欄。

 殿下は私を見ると、羽根ペンを一本差し出した。

 「君の手で、順番を」

 私は紙を一枚ずつ持ち替え、並びを入れ替える。

 「廃棄規程を最初に。次に透明化。それから常設審問、最後に再編。

 “恐れの道具を捨てる”ことを第一に見せ、それから“金と手続き”を並べ、最後に“剣”」

 王が深く頷いた。

「よかろう」

 王妃がソファで微笑み、セリーナが椅子の背に頬をつける。

 ルシアンは壁にもたれ、窓の外の夕焼けを見ている。

 私の前で殿下が最初の紙に名を書き、王が続き、王妃も続け、私も名を重ねた。

 “アリシア・エルフォード”――その字が、少し震えているのが自分でも分かった。


 「手が震えてる」殿下が囁く。

 「ええ。責任の重さで」

 「いい震えだ。……ありがとう」


 扉がノックされ、文官が顔を覗かせた。

 「王都広場に“公開録”の掲示が整いました。今夜、たいまつの明かりで読み上げます」

 殿下が立ち上がる。

 「行こう」

 「はい」


 ◆


 広場は人で満ちていた。

 魚屋、職人、洗い場帰りの女たち、子を抱いた男、旅の商い――様々な名の集合。

 掲示板の前に立った書記が、大きな声で読み上げる。

 「『王国は、神託装置を廃棄する!』」

 どよめき、そして拍手。

 続けて、透明化と常設審問、再編と救護の制度。

 歓声の中に、涙の音が混じる。

 それは恐れの涙ではなかった。

 思い出した名前の涙だった。


 殿下が一歩前に出て、短く言う。

 「俺は、レオナルドだ。

 間違えた名で署名した昔の俺から、やり直す。

 ……その証人に、ここにいるアリシアになってほしい」

 群衆の視線が私に集まる。

 私は深く頭を下げ、ただ一言。

 「名で、結び直します」


 太鼓が鳴り、子どもが走り、老人が杖で地を叩く。

 誰かが「セリーナ!」と呼び、彼女が振り向いて手を振る。

 王妃の名も、王の名も、夜気に溶ける。

 名は、もう装置を通らない。

 人から人へ、そのまま渡る。


 私は殿下の横で、空を見上げた。

 星が早くもいくつか、灯っている。

 あの光に、私はそっと囁く。


 ――お母さま。

 あなたの言った通り、幻は目を閉じました。

 そのあとに残ったのは、名前たちです。


 肩を軽く叩かれ、横を見る。

 殿下が囁いた。

「もう一つ、君に頼みたい」

 「何でも」

 「王国の憲章の冒頭に、たった一行、君の言葉を入れたい。

 “名で呼ぶ政治”を、言葉にしてほしい」

 私は頷いた。

 「書きます。短く、消えないように」


 その夜、私は机に向かった。

 たいまつの明かりが揺れ、羽根ペンの影が紙の上で踊る。

 ゆっくりと、息を整え、一行を記す。


 ――「この国は、恐れではなく、名で結ぶ。」


 書き終えると、涙が一滴、紙の端に落ちた。

 それはもう、誰かに赦しを乞う涙ではない。

 名に向けて流れる、始まりの涙。


 窓の外では、広場の読み上げがまだ続いている。

 「エリザ!」「レオ!」「セリーナ!」「ルシアン!」――いくつもの名が、夜空に放たれて、星と混ざる。

 私は最後に、ひとつの名を静かに呼んだ。


 「……ヴァレン」


 地下の机で、あの男が今もペンを動かしている気配がした。

 罪のあとに呼ばれる名は、罰のためだけにあるのではない。

 やり直すために、呼び戻される名もある。

 そのことを、私は自分の言葉で信じたかった。


 たいまつが一本、燃え尽きる。

 新しい火が掲げられる。

 光は絶えず、名もまた絶えない。


 その確かさを胸に、私はペンを置いた。

 そして、静かに目を閉じた。

 名を、明日のために温めるように。

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