5-10 翅
清々しい青空に溶けるような青い体を持つ彼は、月のない夜の空では黒い影が見えるだけだった。
自分の足でスイレンがそこに辿り着いたのと同時に彼が現れたので、彼女は自分が走っている間に彼を心の中で呼んでいたせいだと気がついた。
(良かった! すぐに……来てくれた)
以前に呼び出しても良いと言われていたものの、上位竜の彼が本当に応えてくれるのか半信半疑だったからだ。
「ライデン様……! 呼びかけに応えて頂いて、ありがとうございます!」
「こんばんは。ちょうど飛行中だった。君が必死で俺を呼んでいるのが聞こえた」
スイレンの前に降り立つのと同時に巨体を持つ青竜は、見目の良い青年へと姿を器用に変えた。
「あのっ……今回もライデン様にしか、お願い出来なくて……ごめんなさい」
どうしても上位竜ライデンヴァーガルの力を借りるしかなかったのだとスイレンが言えば、青い髪をさらり揺らして彼は首を横に振った。
「いいや。大丈夫だよ。俺はイクエイアスとは仲が良い。あいつの縄張りで力を使ったとて文句は言われないだろう……彼の守るものを攻撃したりしない限りは」
含みのある言い方をした彼の言葉を聞き、スイレンは首を傾げた。
(上位竜の間にも、仲が良い悪いがあるということかしら。イクエイアス様は黒竜エグゼナガル様とは対になる存在と言っていたけど……そういえばライデン様に前に私がお願いした時もイクエイアス様はわかっていたはずだけど……確かに何も言われなかったわ)
「スイレンの願いは、もう既に理解している。だが、流石に君を城の中へ直接飛ばす訳にはいかない。俺自身も、あまり近くまで共には行けない。イクエイアスは特別に穏やかな性質を持っているが、気分を逆撫でするようなことは極力したくない。君が話したがっている彼は、高い塔の上に居る。これがあれば、会いに行けるだろう」
ライデンヴァーガルがおろむろに人差し指を上げその時にスイレンは背中に違和感を感じて、振り返り目を疑った。
「……えっ。これは」
スイレンの背中には伝説に聞く妖精のような、翅脈が幾筋も通り夜の闇の中薄い緑色にきらめく大きな羽根があったからだ。
「これは……想像以上に、可愛らしく仕上がってくれた。もちろん、その羽根で飛べるだけではいけない。君の姿は誰かから見て気が付かれないように透明になっている。救出目的で連れ出したいという訳でなく彼と話すだけなら、これで十分なはずだ」
「ああ……ありがとうございます!」
(これで……リカルド様と、話すことが出来るわ!)
今まで話すことも叶わなかった彼と話して、やっと誤解を解くことが出来る。両手を組んだスイレンが感極まって涙ぐむと、彼は苦笑して言った。
「もし、何か危険があれば、心の中で名前を呼んでくれたらここまで呼び戻す……しかし、これは可愛いな。自分がやった事ではあるが、俺は本当に趣味が良い」
背中に羽のあるスイレンの姿を見て、それを彼女に付けた青竜は満足げに頷いた。
「あのっ……ありがとうございます。私、行ってきます」
仕事を終えたスイレンの帰りを待って、今も家ではクライヴが居てくれるはずだ。思い付きで彼に心配をかけてしまうのは良くないと思い、スイレンは羽根をはためかせようと念じた。
ふわりと自分の体が浮かんだ初めての感覚に驚いていると、今は下に見える人が手を振って微笑んでいた。
(いけない。せっかくこうして力を貸してくれたのに。急がなきゃ……)
スイレンはそれに応えて笑顔で手を振り返し、急ぎヴェリエフェンディ王城へと向かった。スイレンは竜の背に乗って空を飛ぶことには慣れて来ていたが、自力で飛行する慣れない感覚に戸惑った。
美しい城にあるいくつもの高い塔の中、スイレンは近くにあった鉄格子の嵌った窓へと近寄り、その中に居る彼を見て名前を呼びそうになり慌てて口を押さえた。
(わ……私ったら、何も考えずにリカルド様の名前を呼んでしまうところだった。彼の状況だって、わからないのに)
塔の中はスイレンが想像していたよりも、普通の部屋だった。リカルドがガヴェアで囚われていた檻の中の粗末な様子ではなく、大きなベッドもあるし通常の生活をするのに必要な水桶や鏡もあった。
ただ、窓に鉄格子があることから予想される通り、扉は鍵が掛けられ内側から開かないのだろう。
リカルドは一人で顔を伏せて、ベッドの上に腰掛けていた。中には彼以外誰も居ず見張りなどが居たとしても、扉の前には配置されているのだろう。
(今なら、呼びかけても大丈夫かな……?)
不意に風が吹いて窓から吹き込み、リカルドは顔を上げて呟いた。
「……スイレンか?」
スイレンは自分が無意識の内に先に呼びかけてしまったのかと慌てて息をのみ、そんなはずはないと思い直す。
(え? どうして、わかったのかしら? 先ほどのライデン様の話だと、私の体は透明になって見えなくなっていると言っていたけど……)
スイレンは自分の体を見て、不安になってしまった。自分からは体ははっきりと見えているが、大きな羽根を持ち高い塔の中を覗き込んでいるなど不審者でしかないと思うからだ。
「そうです……! リカルド様。私……今は見えなくなっているはずだと思うんですけど……もしかして、見えてますか?」
周囲を気にして小声で聞いたスイレンに、目を見開いたリカルドは立ち上がって窓へと近づいて来た。
彼は躊躇なく窓の外へと自分の手を差し出したので、スイレンは慌てて彼の手を握った。
(良かった! リカルド様だ!)
リカルドの熱を感じてスイレンは、思わず目を閉じた。この前まですぐ傍にあったはずのもので、もう会えないかもしれないと思っていたからだ。
「スイレン。大丈夫。姿は見えてないよ……君自身は多分気がついてないかもしれないけど、色んな花の匂いがするんだ。だから……もしかしたらと」
リカルドは見えないスイレンを慎重に手繰り寄せるようにして、彼女の頭を撫でた。ゆっくりと髪の撫でる彼の動きを感じながら、こうしてはいられないとスイレンは口を開いた。
「あのっ、リカルド様。ごめんなさい……私のせいで、こんなことになってしまって」
「別にスイレンのせいじゃない。強い感情に負けて、自分を押さえられなかった俺が悪いんだ。今ならわかるんだ。スイレンもブレンダンも悪くない……時間を置いた今なら、理解出来る。このところ俺が苛立っているから、言えなかったという理由もだ」
これから説明せねばとスイレンはリカルドが既に自分たちの状況を理解をして、自分の短慮をも反省をしていたことも知り、ほっと安堵の息をついた。
(良かった。リカルド様……わかってくれてた。良かった)
もしかしたら、リカルドに嫌われたかもしれないという不安がどうしても消せなかったスイレンは涙をこぼしてしまった。
「本当に、ごめんなさいっ……ブレンダン様は悪くないんです。私が間違えてしまって……」
「スイレンが……間違えた? どういうことだ」
「熱を出した私が、リカルド様と間違えてしまったんです。だから、ブレンダン様は本当は様子を見て帰るつもりだったのに、帰るに帰れなかったんだと思います。私が悪いんです。仕事をすることを反対されるかもしれないから、これは誰にも言わないで欲しいとお願いしたことも……全部」
あの夜、ブレンダンの手を離さなかったのはスイレンでそれさえなければ、疑われるような事はなかったかもしれない。
「俺と間違えた……」
スイレンからあの日の状況を聞いたリカルドは絶句して、眉を顰め考え込んでしまったようだ。
「ごめんなさい……」
「いいや……そうか。俺はブレンダンに、本当に悪いことをしてしまった。すっかり誤解をして二人から詳しい事情も聞かずに殴ったことも謝らなければいけない」
難しい表情になったリカルドを見て、スイレンはブレンダンから言われ彼に聞かねばならなかった事を思い出した。
「あのっ……ブレンダン様は、リカルド様にそれを言った人物を気にしていました。もしかしたら、私たちを罠に掛けたのかもしれないと」
リカルドは涙声で懸命に言ったスイレンの言葉を聞き、茶色の目を大きく見開いた。




