5-2 役得
「っ……ブレンダン様……どうして?」
スイレンのすぐ傍にあった顔は、先程見かけたと思ったブレンダンだった。
「スイレンちゃん! 大丈夫? こんな……こんなこと、絶対に許せない。教えてくれ。君にこんな酷いことを、誰がしたの?」
池の中に座り込んでいたスイレンを見つけてすぐに来てくれたのか、ブレンダンは既に仮面を外し、甘く整った顔は激しい怒りに歪んでいた。
彼はもしかしたら自分がこうして落ち込んで泣いていた理由を誤解しているかもしれないと察して、スイレンは慌てて言った。
「ちっ……違うんです!」
スイレンを抱えたまま、ざばざばと水音をさせて池から上がったブレンダンはスイレンが、身分の高い彼女たちを庇おうとしていると勘違いしたのか肩を竦めた。
「何が違うと言うの? いくら身分のある貴族令嬢と言えど、許されることと許されないことがある。君はデュマース家に住む客人なんだから、リカルドから相手へ厳重に抗議する必要もあるんだ。我慢する必要なんてない。信じられないよ。ただ仕事で来ただけで立場の弱い女の子を、こんな寒い季節に冷たい水の中へ突き落とすなんて……」
一度スイレンを地面へと降ろし、自分が着ていたマントを彼女の肩に掛け、ブレンダンは彼の中にある激しい怒りをぶつけるようにして早口で捲し立てた。
スイレンはそんな彼を見て、いけないどうしようと慌ててしまった。
彼の察しているその通りの事態がスイレンの身には確かに起こったのだが、このままこの邸の令嬢へと抗議してしまえば、それが噂になりもう夜会の演出のような仕事自体が来なくなってしまうかもしれない。
(ブレンダン様がこうして私のために怒ってくれるのは、確かに嬉しいけど……仕事を失いたくないし困る。どう言って、彼に説明したら良いの)
眉を下げて困った顔になった彼女を見て、ブレンダンはスイレンの反応に不可解そうな表情になっていた。
だが、とにかく言い分を聞こうとして待ってくれている彼を見て思い直し、スイレンはたどたどしく話し始めた。
「あの……どうか、それは待ってください。私、池に落とされたことは、もう良いんです。あの人たちに言われたことも、別に気にしてはいないです。リカルド様はこの国で英雄と呼ばれていて、沢山の女性から好かれる男性であることは知っています。今の私の立場が、誰かから妬まれてしまうことも」
凍えて歯の根が合わずガタガタと震える唇を手で押さえて、スイレンが懸命に口にした言葉を聞き、怒っていたブレンダンは想定外だったのか驚いて言った。
「嘘だろう。スイレンちゃん……こんな酷いことされたのに、気にしてないの?」
「はい。あの方たちは、例のリカルド様のことが好きなお姫様の……おそらくですが、仲の良いご令嬢たちだとは思います。お名前も……仮面をしていましたし、顔もわかりません。彼女たちが私の事を悪く言いたくなる気持ちもわかりますし、それはある程度は仕方ない事だとわかっていますっ」
「ああ……ごめん。寒いね。とにかく、家に帰ろうか。事情はその後で聞くから」
寒い季節に池に落とされて、細い身に纏うドレスは冷たい水でぐっしょりと濡れている。その冷たさに震えながら話すスイレンの姿を見かねて、ブレンダンは気を利かせて言った。
「あのっ……私、帰りたくないです!」
スイレンの言葉を聞いて、まさか彼女にそんな事を言われると思っていなかったブレンダンは何も言えずに固まってしまったようだ。
いつも余裕ある彼のぽかんとした表情を見て、スイレンは自分が言葉足らずであったことに気がついた。
(いけない。変なことを言い出したと思われちゃう……)
「違うんです。ええと……ごめんなさい。私、出来るだけ仕事を続けたいんです。けど、これを知られてしまうと……」
とても言いにくそうに口にしたスイレンの言葉を聞いて、ブレンダンはようやく彼女の言いたいことを察してくれたようだった。
「ああ。理解出来た……こうして池に落とされた事を、スイレンちゃんはリカルドとあいつの妹に知られたくない。そうすれば、心配した二人に仕事を辞めるように言われるから……君は仕事を辞めたくないと思っているから? スイレンちゃんの言いたいことは、だいたいこれで合ってる?」
ブレンダンならばこの事態をどうにかしてくれるかもしれないと、スイレンは涙ぐみながら彼に向かって何度も頷いた。
「そうなんです。私がこんな格好で家に帰れば、誰かに見られてしまうかもしれません。そうしたら……だから、どうしようと思って……情けないですが、泣けてしまって」
悲しそうに俯いたスイレンに、ブレンダンは何も言わずに彼女の体を横抱きに抱き上げた。
スイレンが着ている豪華なドレスは、多くの布を重ねられて作られているし、その上でびっしょりと水を含んで歩くのも困難なくらいに重くなってしまっているはずだ。
それなのに、ブレンダンは彼女の体を軽々と持ち上げた。
「もう……何も言わなくて良いよ。君の言いたいことは良くわかった。宿屋に部屋を取って、君はそこで風呂に入る。そして、僕は何か適当な着替えを持って来よう……そうすれば、何もなかったことになる」
泣いていたスイレンの事情を知り迷いなくすたすたと廊下を歩く彼は、邸の正門に向けて歩いているようだった。隠れた逢引きの途中なのか、行き合った男女も今夜この場で仮面を付けていないブレンダンを見て驚いていたようだった。
「ありがとうございます! ……あ。でも、このドレスもガーディナー商会でお借りしてて……ごめんなさい。ちゃんと弁償しますから」
高価な布で作られた可愛いらしいドレスも、今ではもうびしょ濡れで見る影もない。そのままドレスを返しては良くないだろうと、スイレンは思った。
「そんなこと……僕はあの商会の息子だからね。知っての通り、それなりに融通することなら出来る。十割引きで君にあげるよ」
「え? でも」
ブレンダンが継ぐことになるガーディナー商会では、そろそろ季節遅れになりそうな輸入した小物などの既製品を何割引かでお得意様に提供することはあるようだ。
スイレンも商品の陳列を手伝ったことがあるので、そういった流れを知っていた。
(十割引きなんて、聞いたことないわ……)
彼の言葉に戸惑っている様子のスイレンに、いつもの調子が戻ってきたブレンダンは優しく笑って言った。
「良いから良いから。どうか、気にしないで。僕と知り合いだからという、特別な役得だと思ってくれて良いよ」
「……ありがとうございます」
スイレンが濡れて重いドレスを抱えてよろよろと歩くより、力のある竜騎士ブレンダンに抱えて歩いて貰う方が早いだろう。
ただそこに居ただけの彼に助けてもらいここまで頼ってしまうことは申し訳ないが、あんな事が起こったこの邸に長居してしまう訳にもいかない。
「あ。お金拾うのを……うっかり、忘れちゃいました」
先ほどまるで物乞いへ恵むようにして金貨が地面に叩き付けられ依頼人より今夜の仕事の報酬を払って貰ったのだが、色々とブレンダンへ説明している内に拾って来るのをすっかり忘れてしまっていた。
「……うん。その金額の倍を僕が代わりに支払うから、戻りたくない。土で汚れたお金は、もう良いよね?」
ブレンダンは有無を言わせない良い笑顔でそう言ったので、スイレンはそれ以上何も言わずに頼りになる彼に何もかも任せることにした。
◇◆◇
ブレンダンが乗って来ただろう馬車の中にあったふかふかの毛布を巻き付けたスイレンは、もしかしたら彼には同伴者が居たのではないかと心配して尋ねた。
「あの……ブレンダン様。ご一緒に来た方は、大丈夫ですか?」
自分のせいで誰かが置いてけぼりになったのではないかと気にかかって聞いたスイレンに、ブレンダンは何故か寂しげな表情になって首を横に振った。
「いや、今夜……は僕一人だから、問題ないよ。珍しく仮面舞踏会の招待状を貰って、なんとなく行ってみようと思っただけなんだ」
「まあ、そうだったんですね。私。実は近くを通った時にブレンダン様だとわかったんですけど、てっきり誰か同伴者と来ているのかと思っていたんです」
「……うん。そうなんだ。すごいね。スイレンちゃん。顔を覆う仮面を付けていたのに、僕だってわかったの?」
「はい。見覚えのある背中だと思いました。けど、仮面舞踏会で名前を呼んではいけないと知っていたので……ああいう場所で知り合いに会ったら、どう声をかけて良いのかわからなくて……」
初めて仮面舞踏会に行ったスイレンは勝手がわからず、ブレンダンを見掛けて彼だとわかっても話しかけることが出来なかったと恥ずかしそうにはにかんだ。
「うん。お互いに、初対面のつもりになるから……なんでも良いんだよ。そこの素敵なレディとか……名前でもなくその人と特定出来るような、言葉を使わなければ」
「まあ……そうなんですね! 私が呼びかけるなら、そこの素敵な紳士様でしょうか?」
「……うん。そうだね。仮面舞踏会は、良いよね。確かに自分なのに、まるで自分ではない誰かを演じているような気がして、本当に気が楽だ」
ブレンダンは馬車の窓に目を向け、どこか遠くを見るようにして言った。彼のように常に注目を浴び、やたらと外見を賛美される人はそういった気持ちになるのかもしれない。
(なんだか、いつもと違うわ。仕事で疲れているのかもしれない。何かあったのかしら……)
物憂げな表情を見せるブレンダンは考え込んでいるかのように、何も言わない。けれど、それを明け透けに指摘して訳を聞けるほどには、スイレンは彼に対して大胆になれなかった。
「スイレンちゃんは、誰かに何か言われたり……嫌がらせをされることよりも、仕事がなくなってしまうことの方が嫌なの?」
そういえば、先ほどブレンダンはスイレンがそうして泣いた事に驚いているようだった。蹲って泣いていたのは、ああして池に落とされたことではなく、自分の仕事を失ってしまうかもしれないという恐怖だったと聞いて。
「そうです。なんだか、私……ただ家に居ても落ち着かなくて。お仕事をしていると……なんていうか、一人じゃないって思えるんです。だから、最近はすごく楽しいです」
「そっか。僕も仕事を紹介した甲斐があったよ。良かった。こういう夜会が盛り上がるような演出を、手伝うこともしているんだね。父からは話に聞いていたが、とても素晴らしかった。美しかったよ。僕は夜会はあまり行かないから、きっとこれまでも損をしていたね」
「ああ。そうですね。ブレンダン様は……夜会に行けば、きっと大変でしょうから……」
有名な竜騎士の彼が現れれば、未婚の令嬢に我も我もと殺到されて、夜会の雰囲気や会話を楽しむどころではないだろうとスイレンは素直に思った。
彼を初めて見た時にも、ブレンダンは整った容姿を持っていて、話しやすい雰囲気で異性から良く好かれそうだと思ったものだ。
こうして友人の恋人の窮地にもあれだけ怒ってくれる優しい人なのだから、話して中身も素晴らしい彼を知ればより好かれてしまうのではないだろうか。
(モテるって、良い事ばかりでは無いのかもしれないわ)
スイレンは陰のある表情を浮かべるブレンダンを見て、そう思った。ほどほどにモテるのであれば幸せなのかもしれないが、彼くらい熱烈に異性からモテてしまえば生活に支障が出てしまいそうだ。
「うん。そうだね。だから……あまり行かないようにしてるんだ」
「まあ……そうなんですか。異性に好かれるのも、色々と大変なんですね」
「うん……そうだね」
曖昧に笑って頷いたブレンダンに、それ以上は何も言えず、スイレンは彼と同じように夜の街が映る馬車の窓へと目を向けた。




