1-5 打ち合わせ
自分に起こった思いもしていなかった非現実的な展開に、呆然としていたスイレンは時間を掛けて少し落ち着くことが出来た。
リカルドが今住んでいる家の豪華さに目を留めて、改めて驚いた。
もちろん。この家は今まで住んでいた粗末な小屋とは、何もかもが比べるべくもない。
用意して貰った夕食の片付けをするついでに、通いのメイドにそれとなく聞けば、竜騎士は自分の竜の世話をするために竜舎の近くに家を賜るため、これはその仮家だった。
貴族でもある彼には、デュマース家に代々受け継がれる豪華な本宅があるのだという。
「現当主のリカルド様には、亡くなったご両親が纏められた縁談の婚約者が居られてね。この国でも容色は評判で、本当に美しい方なんだよ」
粗末な身なりのままでいるスイレンが、家の主人のリカルドを慕っているとは全く思いもしていないのだろう。
もしかすると、スイレンのことを新しく雇われた使用人なのかと思っているのかもしれない。テレザと名乗ったメイドは、明け透けなまでにこの家の事情を話してくれた。
リカルドに婚約者が居るという話を聞いた途端に、ズキンとスイレンの胸が鋭く痛んだ。
(あの人は竜騎士で。貴族で。私みたいな何も持たない平民なんて、相手にもしないのは当たり前のことなのに……)
国に連れ帰って来たのも、きっと両親を亡くしているというリカルドと同じ境遇にあった同情からだろう。きっと、平民のスイレンなど彼には遊び相手にもなり得ないに違いない。
元より何の期待もしていなかったはずなのに、なんでこんなに胸が痛くなってしまうのだろう。
「スイレン。ここに居たのか」
夕食の後。すぐに一人でどこかに出掛けていたリカルドが、スイレンの姿を探して厨房にまで入って来た。
彼と親しげに話し掛けられたスイレンを見て、テレザは目を見張った。そして、自分が勘違いしている事に気がついたのか、バツの悪そうな表情になった。
スイレンは洗い終わったお皿を、指示された通りに食器棚へと戻すと戸口のリカルドの元へと向かった。
「君は、俺の大事な客人なんだ。使用人のようなことは、別にしなくて良い。テレザ。すまないが、これ以降はこのスイレンには水仕事はさせないでくれ」
「かしこまりました」
テレザは先ほどまでのくだけて話していた様子が嘘のように、雇い主であるリカルドに対しかしこまって答えた。
貴族である彼と、平民であるスイレンたちはそのくらいの距離感で良い。それこそが、身分差のある社会を生きていく上での正しい処世術だ。
スイレンも、それは理解していた。理解出来ているのに。
(胸が苦しい……こうして竜騎士様と一緒に居られて、嬉しいはずなのに)
彼との変え難い違いを感じて、身の程をわきまえなくてはと、切ない気持ちが湧き上がってしまうのを、どうしても止めることが出来なかった。
「スイレン。君の寝巻きや普段着を、いくつか買って来たんだ。今日はとりあえずで急ぎだったから、下着なども知り合いの店で適当に見繕ってもらった。君が使う事になる部屋にも、案内しよう。付いておいで」
リカルドは、何故か胸のあたりの服を掴んでいるスイレンの顔を見て、優しく笑うと手招きをした。
リカルドは竜騎士を職業としているだけに、大柄で筋肉もあり見た目は怖そうに見える。けれど、そんな風に笑顔を浮かべると、まるで花が咲いたようだとスイレンは思った。
精悍な騎士らしいリカルドを形容するには、それは似つかわしくない形容なのかもしれないが、彼の可愛い笑顔を表現するにはぴったりな言葉だった。
「はい……竜騎士さま」
「リカルドで良い。これからは、スイレンは俺と家族同然になるんだ。また、機会を見て妹にも紹介をしよう」
家族同然。スイレンはその言葉を聞いて、まるで心臓が切りつけられたように胸が痛んだ。家族同然でも、この先きっと家族にはなれない。彼には、美しい婚約者が既にもう居るのだから。
「リカルド様。その、私は使用人部屋でも大丈夫です。前にお話ししたように、私は狭い小屋に住んでいました。こんな立派なお屋敷に住まわせていただけるだけで、とても有り難いんです」
「駄目だ」
リカルドは、スイレンの言葉に対してはっきりと言った。
強い光を放つ茶色い目は、何故だかやけに嬉しそうに輝いている。
(何か。そんなに、嬉しいことがあったのかしら……あ。敵国から救出されて、こうして無事に自分の家に居るのだもの。嬉しくないはずが、ないよね)
自分は何を考えているのだろうと、スイレンは心の中で自嘲した。
「スイレンは、俺の大事な客人なんだ。これからはもう寒さに凍えることも、食べ物に飢えることも決してさせないと誓う。だから、俺の言うことを聞いて欲しい……良いね?」
問いかけるようにリカルドは言うと、躊躇いがちに頷いたスイレンを連れて二階へと上がった。
廊下に敷き詰められたふかふかの絨毯が、粗末な靴を履いたスイレンの足をくすぐって、どこかふわふわとした雲の上を歩いているようだった。
「……ここだ。俺の部屋はすぐ隣だから。何かあったら、何でも言ってくれ」
スイレンは、彼の言葉に特に何にも不思議に思うことなく頷いた。
こうして家の主人の部屋に近い部屋を、伴侶でもない異性に与えるなど有り得ない事だった。けれど、そういう常識を持たないスイレンは、それは気が付くことが出来なかった。
リカルドに導かれるままに、大きな部屋に入りあまりの驚きに悲鳴のような喜びの声をあげる。
美しい女性的な曲線を描く彫刻が至る所に意匠され、内装は落ち着いた薄紅色と濃い茶色を基調に彩られた一室だった。
朝まで暮らしていた隙間風の入る小屋からは、比べるべくもない豪華さだ。
想像もしていなかった夢の世界に来てしまったような喜びを見せるスイレンに、リカルドは満足そうに頷いた。
「風呂とトイレは、こちらだ。使い方は、わかるか?」
首を横に振るスイレンに、リカルドは面倒な顔など見せずに懇切丁寧に使い方を教えてくれた。
水で流すトイレは、ガヴェアとほぼ同じ使い方だった。
風呂に関しては両親が亡くなってから、井戸の冷たい水を汲み上げて体を拭くのが関の山で、湯の張られた温かい風呂に入った記憶のないスイレンにとっては未知の領域だった。
リカルドは使い方をもう一度復習するようにして、スイレンに言い含めた。
「俺が居ると、着替えも出来ないし風呂にも入れないな。では、隣の部屋へ戻るから。もし、何かわからない事があれば聞いてくれ」
そうして、リカルドは脱衣所に大きな紙袋を置いてからスイレンの部屋を出て行ってしまった。きっとあの紙袋に、今日彼がスイレンのために買って来てくれた服が入っているのだろう。
お風呂を使ってみようと、紙袋の中からレースのついた高級そうなシルクの下着や可愛らしい水色の寝巻きを取り出した。
スイレンはリカルドが教えてくれた通りに、身体を柑橘系の爽やかな香りのする石鹸で洗った。
みるみる内に黒い汚れが落ちて、今まで汚れで色が変わっていた肌や髪が本来の色へと変わっていった。
浴室内に大きな鏡があるので、確認しながら洗えば気持ちの良いくらい汚れが取れた。肌は真っ白になったし、髪はより明るい栗色へと変わっていった。
今まで、スイレンが自分では見たこともない程に白くなった顔が、鏡の中からこちらを見返している。
(これで、少しはマシな姿になったかな……)
小さな頃から叔母のマーサにことあるごとに役立たずだと罵られ、一番近しい人達から容姿すら貶されて育ったスイレンは、今まで自分の容姿を良いものだと思ったことはなかった。
口の上手いどこだかの貴族の従者なんかに、華やかな王都名物の花娘という職業もあり、言い寄られることもあった。
透けて見える下心がどうしても嫌で断れば嫌な女だと罵られ、それもスイレンが嫌な思いをしただけに終わった。
それでも。あのリカルドの前では、少しだけでもマシに見えるような自分で居たいと思ってしまった。
あの人の横に並ぶように似合う容姿になるのは難しくても。それでも、少しだけでも可愛くなりたいと思った。
濡れた髪を手早く生活魔法で乾かし、肌触りの良い高級な下着と可愛らしい柄の寝巻きを恐る恐ると身につけたスイレンは、このままベッドの中に入って寝てしまって良いのか判断つかなかった。
(寝る前の挨拶は、きちんとするべきだよね?)
何分、早くに両親を亡くしてしまったために、スイレンにはその辺の常識などもわからない。
けれど、こうして沢山の物を惜しみなく何も持たなかった自分に与えてくれたリカルドに、せめてもお礼をしたいと考えて教えられた隣の部屋の扉を叩く。
「……おっと」
予想に反してリカルドの部屋の扉を開けたのは、ここに来る空の旅でリカルドに軽口を叩いていたブレンダンと呼ばれていた茶髪の青年だった。彼はスイレンの姿をサッと見て、ヒュウと高い口笛を吹く。
「これはこれは……連れ帰っていた時にも、可愛い子と思っていたけど。近くで見ると、本当に想像以上だ。スイレン……ちゃんだった? 僕は、ブレンダン・ガーディナー。リカルドの同僚で同期。よろしくね」
スイレンの姿を見ての感想から自己紹介までを一息に言い切ったブレンダンの言葉に、スイレンは目を白黒させた。
(顔が近い……どうしたら、失礼のないように顔を離すことが出来るのかしら)
「ブレンダン! やめろ。スイレン、どうした」
近くに居たブレンダンの肩をぐいっと引いて、割り込んだリカルドの顔が今度は近い。
何故だか彼は大きく驚いた顔をして、背後に居るブレンダンの目から廊下に居るスイレンを隠すように身を乗り出した。
リカルドは案内してくれてから、自室でくつろいでいたのか。着ていたシャツの釦を三つ程外していた。
そこから彼の逞しい筋肉質な胸が垣間見れて、思わず目を逸らしながらスイレンは慌てて言った。
「あ、あの。おやすみの挨拶をしようと、そう思っただけなんです。お仕事中に、ごめんなさい」
「……ああ。そうか。ごめん。驚かせて。これは、仕事というか……明日ある、良くわからない凱旋式とかいう面倒な行事の打ち合わせだ」
いかにも、その式典について自分はうんざりしているといった風情でリカルドは言った。
「凱旋というか……救出されただけだけどね。リカルドは、結局何もしてないし。あ。スイレンちゃんを、国に連れて帰って来たくらい?」
ふっと軽く笑いながら、ブレンダンは気安い様子でリカルドを揶揄った。
「黙れ。ブレンダン」
「怒らないでよ。本当の事しか言ってないだろ? こいつはこれでも、ヴェリエフェンディの英雄リカルド・デュマースだからね。国の威信とか、国民への無事アピールとか。上層部の思惑が、いろいろとあるんだよ。良かったら、スイレンちゃんも僕と一緒に行く? エスコートしてあげるよ」
ブレンダンは片目を瞑って、戸惑っているスイレンに笑いかけた。
「駄目だ!」
いきなりのリカルドの大きな声がその場に響いて、驚いたスイレンは身を縮めた。凱旋式に誘ったブレンダンも、吃驚した表情で隣に居たリカルドに言った。
「大きな声を、出すなよ。ここは、風の音が邪魔する空の上じゃない。大声でなくても、僕たちは聞こえているんだからな」
「スイレンは、凱旋式には行かない……良いな?」
リカルドに静かに圧するように問われ、優しい彼が初めて見せる本気の表情にスイレンは圧倒されるように何度も頷いた。ブレンダンは、二人の様子を見て顔を顰めた。
「あのっ……邪魔してしまってごめんなさい。おやすみなさい。リカルド様。ガーディナー様」
慌ててお辞儀をしてから彼らの反応を待たずに扉を閉めると、スイレンは与えられたばかりの自室へと真っ直ぐに戻った。
清潔な白いシーツが敷かれた大きなベッドへと入り、それでもいつもの癖で身を丸めてしまう。
胸が、ドキドキして高鳴る。
(同じ屋根の下に、あのリカルド様が居るんだ。彼とお話しすることだって……夢みたい)
昨日、彼ともう会えなくなると泣いていた自分が、今置かれている状況が未だ信じられない。
これは出来の良い夢なのではないかと思えて、その夜スイレンは遅くまで寝付けなかった。