3-8 魔法
「あら。お兄様、また仕事なの?」
侍従で護衛騎士のアダムを引き連れてリカルドの家にまでやって来たクラリスは、自分を出迎えてくれたスイレンの言葉を聞いて驚いた様子だった。
「ええ。なんだか……隣国が今、大変みたいで……」
リカルドとワーウィックの会話から聞きかじった情報をスイレンが口にすると、クラリスは眉を顰めて頷いた。
「私も聞いているわ。けど、お兄様は、英雄として名前が通っていると言えど、竜騎士団では平の竜騎士のはずよ……まだ、戦闘も始まっていないというのに、そんなにも忙しくなるものなのかしら……? 良いわ。私が、また調べてみるわ」
もしかしたら、何も知らないスイレンにとってこの国で一番頼りになる存在のクラリスは、にっこりと艶やかに微笑んでから頷いた。
「ふふっ……クラリス様に任せておけば、何も心配はいらないですね」
スイレンがはにかんでそう言えば、クラリスは鷹揚に頷いた。
「ええ。それは、もちろんよ。頼りにしてくれて良いわ。そういえば、貴族院から、二人の婚約の書類が受理されたという知らせがないわね。お兄様が、直接受け取ったのかしら。けど、イルドギァの騒動が収まらないと、ゆっくりと話すのは難しそうね。国防を担う竜騎士であるお兄様が忙しくない方が、この国のためにも良いんだけど……なかなか、上手くは行かないものね」
もし国が平和であれば、竜騎士たちが命がけで国を守る必要もない。
戦争になれば最前線に出ることになる兄を心配するクラリスは悩ましそうにして、大きく息をついたので、スイレンは不穏な話題から話を変えようと彼女の仕事について尋ねることにした。
「クラリス様も、今はお忙しいんじゃないですか?」
スイレンがそう聞いたのは、デュマース家の持つ広大な領地の経営の帳簿や書類などは、クラリスが直接管理していてるからだ。リカルドの話では、そろそろ領地に関わる税などを役所に提出する締め切り日が迫っているそうだった。
「我がデュマース家には、色々と任せられる歴の長い優秀な執事も居るし、私も管理すること自体は両親が亡くなってから何年も続けていることだから、慣れているし気にしなくて大丈夫よ。それに、細かい数字が間違っていようと、こちらから収めた税が少なくない限りは、向こうからは何も言って来ないわよ。役所としては、税というお金が取れればそれで良いんだから」
「あの。役所って税の支払いが、多く間違えていても……それを、指摘しないんですか?」
スイレンが驚いてそう言えば、クラリスは一瞬目を開いてふふっと微笑んだ。
「あら。スイレン、それは当たり前のことなのよ。こちらが多くお金を支払ったなら、こちらのミスなんだから、そのまま没収。それに、もし少なければ、延滞した分を上乗せで請求されるのよ。だから、こういった時の税は必要より多く見積もって、先に支払って置いた方がお得だという訳よ。私はもし将来的にアダムと結婚しても、デュマース家に残るし……スイレンが領地経営について、どうしても関わりたいと言わなければ、そういうことはしなくても良いわ。けど、貴女もこうした知っておいた方が良い知識は、多そうね」
スイレンはガヴェアに居た時、顔見知りと世間話程度の話をするだけで、そういった世俗の情報に通じているという訳でもなかった。
「助かります。私も、何かお手伝い出来ることがあれば……します」
スイレンが物知らずな自分を恥じて顔が俯かせると、クラリスは気にしないでとばかりに首を横に振った。
「まあ。ありがとう。スイレンに、そう言って貰えて私も嬉しいわ。けれど、仕事は適材適所と言うでしょう? スイレンは家の中で閉じ籠って、数字と睨み合いするより、外に出て……花魔法で、人を楽しませる方が私は良いと思うわ。スイレンのお花は、本当に素敵だもの。私だって、辛い時に心を和ませて貰った一人よ」
クラリスは少し前まで呼吸に難がありベッドから出られない生活をしていたことなど、微塵も見せない様子でそう言った。
(本当に、クラリス様にこうして元気になって貰えて良かった。私にも、何か役に立つことが出来たんだ……嬉しい)
ガヴェアでは特に珍しくなく自生している魔植物が引き起こしたたまにある症状でも、敵対している関係性にあったヴェリエフェンディでは情報は乏しくあまり対処法は知られてはいなかった。
もし、あの花の存在を知るスイレンがリカルドに連れられてこの国に来なければ、クラリスは未だに不自由な生活をしていたのかもしれない。そう思えば、スイレンはリカルドと出会ったという幸運の結果、すべてに感謝をしたくなった。
「そう言って頂けて、嬉しいです。私には、花魔法しか自在に使うことが出来ないので……」
はにかみつつ膝の上の両手を握ったスイレンに、クラリスは眉を上げた。
(あ。やっぱり、リカルド様に似てる)
ふとした表情がそっくりなリカルドの妹を見て、自身には兄弟のいないスイレンは、血の繋がった彼らには当たり前のことに感動してしまった。
「ねえ。スイレン。私を見て。ヴェリエフェンディの人間は、特別に訓練された人間以外魔法を使えないのよ。そんなに素敵な魔法を使う事が出来るんだから、自分のことをもっと誇るべきだと思うわ。誰にだって、自慢出来る素晴らしい才能なのよ」
魔法大国と呼ばれているガヴェアとは違い、このヴェリエフェンディでは国民のほとんどは魔法を使わない。魔力を保有している人がほとんどなのだが、生活に必要なほとんどのことは魔道具と呼ばれる魔法を封じ込めた道具で事足りてしまうからだ。
「……そう言って貰えて、すごく嬉しいです。国が違えば常識だって違うということは、私にも理解出来るんですけど……どうしても、自分に近い人に何度も言われ続けて来た言葉が、まだ頭を離れなくて……」
「自分の近い人に、何度も? スイレン。もしかして、貴女」
「お嬢様。もう次の予定時刻が……近付いて来て居ります」
クラリスがスイレンに詳しく事情を聞こうとしたところで、いつも彼女の傍に居る黒髪の鋭い目な護衛兼侍従が、そろそろここを出なければならない時間だと告げた。
無口な彼はもしかすると悪気はないのかもしれないが、纏う雰囲気が厳しくそこに居るだけだというのに人に緊張感を与えていた。
彼が守るべきクラリスに対し何の害意も持たないというのに、スイレンはどうしてもアダムに目を向けられる度に、兎が狼に見つかった時のような強い緊張をびくりと感じてしまうのだ。
「ちょっと……アダム。私、今大事な話を……」
「ええ。お嬢様。ですので、その話はまた後日の方が。今からだと、途中で切り上げなければならないことになります。本日は、遅刻は許されませんので」
話を遮られたクラリスが文句を言おうとすれば、アダムは冷静に自分が口を挟んだ理由を述べた。クラリスは不満そうにしつつも壁掛け時計を見上げ、彼の言う通りだと思い至ったのか大きく息をついた。
「ええ……優秀な侍従が居て、助かる。軽率だったわ。ごめんなさい。アダム。ねえ、スイレン。また、その話は次の機会にゆっくりとしましょう。貴女は素晴らしい才能の持ち主で、きっとこれまでだって色んな人を救って来たのよ。そのことを、貴女自身が決して卑下してはならないと思うわ。お兄様だって、きっとそうなんだから」
「クラリス様……」
クラリスが自分に何を言わんとしてくれているかは、世間知らずのスイレンにも予想がついた。
けれど、両親を亡くしてから次の庇護者となってくれた人から、何度も何度も飽きるほどに繰り返し言われたことは、心の奥底にずっと残り続けていた。
心配そうな表情のクラリスが兄リカルドへの書類を残して帰ってしまってからも、スイレンはぼんやりとして彼女との先程の会話を考えていた。
(大好きなリカルド様の傍に、こうして居られて……こんなにも、素晴らしい生活の中で。立派な家にも住まわせて貰っているというのに、あの頃の記憶は未だに消せない。辛かったことは、どうしても心から消えて行かない。こんなの、誰かが聞けば単なる贅沢な悩みであることは……わかっているのに)
自分の手には何も持たなかったスイレンがこの国に来てから、連れて来てくれたリカルドを始め大切なものが増えていくにつれて、いつも心の中で弱気を囁く自信のなさと戦っていた。
(時々、またあの時みたいに、一人になってしまうんじゃないかって、すごく不安になる。幼い頃からのあの記憶。すべてを塗り替えられるような、そんな都合の良い魔法なんて……どこにもあるはずなんて、ないのに)




