1-4 望み
ある程度の距離を飛び、ガヴェアの国境を越えたと思われる頃。
スイレンを抱いたままのリカルドを乗せた赤い竜は、高度を落とし始めた。
同じように空に数多飛ぶ竜達も、示し合わせたように高度を落としていく。
「リカルド。可愛いお土産を、持って帰るんだな。こっちは決死の覚悟で、敵国王都にまで救出に行ったって言うのに。お前、囚われてから一体何をしてたんだよ」
あきれた声が、すぐ近くから聞こえた。
今居る状況が理解できないままで呆然としていたスイレンは、後ろ向きにリカルドに抱かれたまま彼の逞しい腕の中で何事かと身動ぎをした。
声の方向に目を向けると、深い青の竜を駆る茶色の髪の男性が、二人を微笑みながら見つめていた。
いかにも好青年といった風情の、とても顔が整った人だ。
(すごく、女性にモテそう。きっと女泣かせだろうな)
茶髪の竜騎士を初めて見たスイレンは、そう感じた。
「……ワーウィックの怪我は、どうなんだ。ブレンダン」
低くて響きの良い声で、リカルドは茶色の髪の青年に言った。
ワーウィックという名前は、もしかしたら二人が騎乗している赤竜のことだろうか。
リカルドは騎乗していた竜が大怪我をして墜落し、竜の命乞いをしてガヴェアに捕まったのだと聞いた。
スイレンはそっと、目を向けて乗っている竜の体を検分する。
規則正しく揃っている、滑らかで美しい赤い鱗。この竜に、大きな傷があるようにはとても思えないが。
「王の命令だよ。ワーウィックに、魔法の秘薬を使った。イクエイアスが嘆願したんだ。お前を救出するために、数え切れぬほどの人間がどれだけ骨を折ったと思っている。囚われているはずのお前は、可愛い女の子とその間いちゃついていたかと思うと、本当に嫌になるよ」
ブレンダンの言葉に、共に空を飛んでいる他の竜騎士達からも楽しそうな笑い声が上がる。
もしかして、自分のせいでリカルドを良くない立場に追いやってしまったのではないかと思ったスイレンは、気が気ではなかった。
スイレンは、勇気を出してリカルドを揶揄っているような様子のブレンダンに言った。
「あのっ……違います。竜騎士さまは何も……していません。私が勝手に近付いて、私が勝手に……そのっ……」
彼をお慕いしていただけだと、そう言ってしまって良いものかとスイレンは迷った。
リカルドはぐっと腕に力を込めて、スイレンを自分の前へと座らせると腕で囲むように彼女の前にあった皮の手綱を握った。
「ブレンダンは、同期の俺をただ揶揄っているだけだ。君は何も言わなくて、良い……ブレンダン。この腕輪は、外せないのか。俺は今、能力封じの腕輪を嵌められている」
「だから、こんなにもたもたとした速度でずっと飛んでいたんだな。良いよ。僕の予備の魔法具持って来て居るから。お前と彼女の分も、ほら」
器用に飛んでいる竜を衝突寸前まで近付けると、ブレンダンはリカルドに腕輪を投げて渡した。
リカルドは迷うことなくその腕輪を素早く身につけると、彼らの会話の意味を理解出来ずに戸惑っているスイレンの腕に腕輪を通しながら、優しく耳に囁いた。
「……心配しなくても、大丈夫だ。君の体は今のままでは、竜が本気で飛ぶ速度に耐えられない。この腕輪は、それを強化するための魔法具だ」
魔法具。それは魔法の効果を、そのままに封じている道具のことだ。どんなに小さな魔法だとしても、庶民には目が飛び出るような高い金額がするものだ。
それをこともなげに飛びながら投げて渡すブレンダンにも驚くが、良くわからない立ち位置の自分に、そんな貴重なものを使ってしまって大丈夫なのだろうか。
リカルドは戸惑い黙ったままのスイレンの腕に腕輪を通すと、騎乗している赤い竜ワーウィックに言った。
「行くぞ。ワーウィック。ヴェリエフェンディの王都まで、最速で飛ばせ」
彼の言葉が終わらない内に、ぐんっと後ろに引っ張られるような力を感じてスイレンはリカルドの胸に頭をぶつけた。
周囲の景色が、色だけを残して溶けていく。
それは決して比喩ではなく、初めて見る不思議な光景に驚き、スイレンは目を瞬いた。
「大丈夫だよ。すぐに着く」
言葉も出ないほどに衝撃を受けた様子のスイレンに、リカルドの笑いを含んだ彼の低い声が耳元でしてスイレンは小さく頷いた。
◇◆◇
抱き上げられて、大きな赤い竜の背から降り立った時、スイレンは足が震えて立てなくなっていた。
慌てて支えようとリカルドが手を伸ばした時に、後ろから声を掛けられた。
「よお、リカルド。おかえり。そのお嬢さんは?」
リカルドの帰還を今か今かと待ち受けていたように、その場所に立っていた銀髪の男性が、興味津々の眼差しでこちらを見ていた。
「団長」
リカルドは質問には答えずに、ただ彼の名を呼んだ。
「いや。聞かなくても、なんとなくはわかるが……お前は檻の中に居たと、聞いたが? そんな状態で女の子を捕まえるって、どんな魔法を使ったんだ」
「もう良いですか? 彼女は、高速飛行に慣れていない。今立てない状態なので」
リカルドは団長と呼ばれた上司と思しき男性にも、特に遜ることもなく素っ気なく答えた。
スイレンは二人のやりとりを見ながら、なんだか不安になってしまった。
自分がこうしてこの場所に居るからという理由で、彼の事を煩わせたくなんてなかった。
「悪い。無粋だったな……俺の用件は、後でブレンダンを家まで行かせる」
団長と呼ばれた人は頑ななリカルドの様子に苦笑して、軽く手を振った。
リカルドは何も言わずスイレンを横抱きにすると、他の竜騎士たちに揶揄われるのも聞かずに巨大な竜舎の近くにある一つの大きな家を目指して歩いた。
「……とにかく、一度風呂に入りたい。すまないが、ここで少しだけ待っていてくれ」
横抱きにしていたスイレンを大きなソファの上に優しく下ろすと、彼女の返事を待たずにリカルドは背を向けてそのまま湯を浴びに行ってしまった。
スイレンは、ドキドキと自然に胸が高鳴るのを感じた。
ここはどう考えても彼の国、最強の竜騎士団を擁するヴェリエフェンディで、リカルドが住んでいる家だ。
手持無沙汰できょろきょろとその部屋の中を見回せば、白と青を基調とした色合いの品の良い家具で揃えられている。
そして、彼を待っている間に、スイレンはどうしても不安になってしまった。
これから、自分はどうなってしまうのだろうか。リカルドは何をどう考えて、自分をここにまで連れて来たのだろう。
敵国に捕らえられ檻の中に居れられていた彼の心を、少しでも自分が慰める事が出来たらとは思ってはいたが、今こうして居るように彼の国に連れて来て貰うことを望んでいた訳ではない。
「悪い。どうしても、風呂に入りたくて我慢が出来なかった……君の希望も、何も聞かずに。いきなり、この国に連れて来られてさぞ驚いただろうな」
広い部屋の中に残され一人で戸惑っていた様子のスイレンを、見て取ったのか。
少し笑いを含んだ低い声が扉があった背後からして、スイレンはリカルドが戻って来た事を知った。
つい先ほどまで伸び放題だった無精髭も、今は綺麗に剃られ、こざっぱりとした白いシャツを身につけている。
ほんの数時間前まで、敵国で捕らえられていた人と思えぬほどの美丈夫だ。
身綺麗にした彼の姿を見て、胸を高鳴らせて恥じらい顔を俯かせてしまうスイレンに、リカルドは斜め前にあるソファに腰掛け優しく微笑んだ。
「……ガヴェアに捕らえられ、囚われていた俺に勇気を出して話し掛けてくれてありがとう。二週間もの、間。早朝に現れてくれる君だけが、あの場所での癒しだった。最初は俺を探るためのスパイかもしれないとは思っていた。君の懸命な言葉に……俺は救われたよ。君が両親もいないという話は、聞いていたから。もし後で迎えに来ようと思って、名前を聞いたんだが。あの花には驚いたな。もしかしたら、あれをした君も捕らえられるかもしれないから、我慢が出来ずに何も聞かずにこうして連れて来てしまった……あの国に、帰りたいか?」
リカルドから真摯な視線を向けられ、甘くも聞こえる彼の低い声に聞き惚れていたスイレンは、問われた言葉の意味を一拍置いて理解すると、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
昨夜、彼に何処かに攫って欲しいと願っていたことが実際にこうして叶ってしまったのだ。
それは、スイレンにとっては願ってもなかったことで。
「そうか……良かった。じゃあ、これからは俺と一緒に暮らそう。俺は一応貴族だし、自分自身でも、それなりに稼いでいる。だから、君一人を養う事は、なんてことはない。死の間際、絶望の中にあった俺の心を慰めてくれた君に。お礼代わりと言ってはなんだが、これから先は決して不自由はさせない」
律儀で真面目なリカルドの提案は、彼に好意を持っているスイレンにとっては願ってもないことだった。
それでも、そんなつもりでした訳ではないのにと思ってしまう。
自分の得になるからとか、彼から何かお礼が欲しいからと、人目を忍んで早朝リカルドに会いに行っていた訳ではない。
ただただ、彼に会いたくて。少しでも顔を見て、その声が聞ければと、それだけしか考えていなかった。
それだけしか、望んでいなかったのに。