2-11 点検
スイレンがお風呂を済ませ、リカルドの部屋の戸を叩けば、彼はすぐに出て来てくれた。彼も風呂上がりだったのか、燃えるような赤髪が濡れてしっとりとしていた。
スイレンは微笑みながら、彼に髪が乾く生活魔法をかけた。急に乾いてふわりとした髪に、彼は少し驚いた顔をした。そして、頭に手を当てて彼女が何をしたか悟ったのか微笑んでスイレンの手を引いた。
「ありがとう。スイレン……待ってた」
大きなベッドに隣り合って座りしみじみとそう言った彼の言葉に、スイレンは驚きながら振り向いて壁掛け時計を見た。
(えっ……そんなに、待たせてしまったかしら……)
「ああ……ごめん。そうじゃない。違うんだ。そういう意味ではなくて、スイレンとこうして当たり前のように、傍に居られることが……本当に嬉しくて」
「リカルド様」
間近にあるリカルドの茶色い美しい目は、スイレンが最初彼を見た時から、全く変わりない。意思強く真っ直ぐだ。
(この人の傍に、これからも居られるなら……なんて嬉しいことなの……)
「あの……ワーウィックが、言っていたことだけど……あいつが言っていた事は、本当だ。俺は君のことが、好きなんだ。言葉が上手くない俺には、これ以上君が好きな気持ちを、なんと言って表せば良いのかわからないけど。最初、見た時から惹かれていた。それから、君を知っていく度に好きになるんだ。スイレン。好きだ」
リカルドの大きな身体に、強い力でぎゅっと抱かれて、スイレンは泣きたくなった。
彼は、最初に見た時からと言ってくれた。
そして、あの日、勇気を出して話しかけて良かったと心から思うのだ。
あの一歩を踏み出さなければ、二人の道がこうして重なり合うことはなかったに違いない。
「リカルド様。私も好き……です。これからも、ずっと好きだと思います。私が死んでしまうまで、きっとずっと」
「スイレン。これから、俺に何があったとしても覚えていて欲しい」
彼の胸に埋めていた顔を上げて、首を傾げたスイレンの額に軽いキスを落としながら、リカルドは優しく言った。
「何があったとしても……俺は、きっと君のところに帰ってくる。どんなことがあったとしても、何をしてでも。生きる術を探り、泥水を啜ってでも。君のところに帰るよ。こうしてそう思える程に、大事なものを持つことが出来て、本当に嬉しいんだ」
もう一度、ぎゅっと二人抱き合って、一度離れるとリカルドはスイレンの剥き出しになっていた白い腕に目を留めた。
リカルドとワーウィックを助けるために、クライヴと森を歩いていた時にどこかに打ち付けてしまったのかもしれない。
大きな青い痣が出来ていて、リカルドは眉間に皺(ルビ:しわ)を寄せ大きな手でそれを撫でた。
「……痛くはないか?」
彼の言葉に慌てて首を振ったスイレンは、しまったと思った。
目を留められる前に、灯りを消してもらう予定だったのに。リカルドの情熱的な愛の言葉に酔ってしまって、すっかり忘れてしまっていた。
「えっと……これはもう、お医者様からもらったお薬も、ちゃんと塗っていますし……見た目は酷いように思われるかもしれませんけど、そんなに痛くないんですよ」
スイレンの説明を聞きながら、リカルドが痛ましく見つめるその顔を見て悲しくなってしまう。
(この人を、こんな顔をさせたい訳ではないのに……)
「見せて。他にも傷があるの?」
リカルドはスイレンを軽く抱き上げると、ベッド中央へと降ろした。スイレンは丈長めの寝巻きの生地を慌てて伸ばし、何個かアザが出来てしまっている両足が見えないように体を丸くした。
「スイレン。良く見せて。君の体に何かあったら心配だから」
「だ、大丈夫、です。気にしないでください。本当に痛くないんです。リカルド様が治療を受けている間に、お医者さんに診て貰ってお薬も貰いましたし。もう、本当に大丈夫、きゃっ」
スイレンは寝巻から、かろうじてはみ出ていた爪先にキスを落とし、上目遣いで自分を見るリカルドを見下ろした。
くすぐったくて、思わず笑い出してしまいそうな初めての甘い感覚に戸惑った。
「なっ……何をっ……してるんですか……」
「大丈夫か。どうか、ちゃんと点検しよう。スイレン」
彼の茶色い瞳の奥の光に灯った何かが見えて、戸惑いつつも期待に心が震えた。
「ま。待って、リカルド様」
慌てたスイレンの制止の声には耳も貸さずに、リカルドはスイレンが着ていた寝巻きの長い裾を捲り上げた。露わになったすんなりした白い両足に、いくつかある青黒い痣に見つけ眉を寄せた。
昨日、医師に診て貰った時には、まだ赤い痣だけだったが、先ほどお風呂に入った時に確認して見たら、こんな色になってしまっていたのだ。
スイレンは恐る恐る医者から貰った薬を痣の部分に付けてみたが、塗り薬でそんなに早い時間で改善されるはずもない。
リカルドは指で白い肌の中、色が変わってしまっている部分にそっと触れる。痛みを感じるほどの刺激ではないが、スイレンは恥ずかしくて逃げ出したくなりその身を揺らした。
「……あの……広い魔の森を歩いて、エグゼナガルに会いに行ってくれたんだよな。こんなに、細い足で」
今回あったことを全て自分の責任であると思っているのか、噛み締めるようにしてリカルドは言った。その表情は暗い。
堪らなくなって、スイレンはリカルドの大きな手を取って握った。彼の右手はとても自分の両手で握っても包み込めない。
出来たら、そうしてあげたかった。
悲しい事や苦しい事から、守ってあげたい。スイレンはリカルドのためなら、何だってしてあげたいと思っていた。
「こんなの……全然……全然、大した事ないです。リカルド様が負った、背中の酷い傷に比べたら」
リカルドは自身が血塗れになってしまうほどの、無数の傷を負っていた。敵側に捕らえられて背中に鞭打ちをされたのだ。
(どんなに、辛く痛かったんだろう……私にある小さな痣なんて、あれとはまるで比べものにはならないもの)
リカルドが木から吊るされていたあの姿を、スイレンは目の当たりにしてしまっていたので、この程度の自分が負った痣のことで彼が顔を曇らせてしまうのは、何だか違う気もしてしまった。
「ああ……俺の背中の傷なら、もう塞がっているよ。見る?」
リカルドが何でもないように言ったのでスイレンは驚いて、彼の笑顔をまじまじと見た。
リカルドはスイレンに握られていた手を一度撫でてから、そっと優しく離すと白いシャツを一気に脱いだ。騎士らしく逞しく鍛えられた筋肉が近くに見えて、何だか無性に恥ずかしくなったスイレンは視線を外した。
「スイレン。見て。ほら。綺麗に治っているだろう? 今回は、イクエイアスが俺のことを可哀想に思ったのか、便宜を図ってくれて、治療の魔法が受けられたんだ。俺は別に傷跡を気にはしないけど、君がこのことを思い出す材料にはしたくはなかった。捕らえられて情けない姿を見られた過去は、もう消せやしないけど、違う何かで塗り替えることなら出来るよ」
リカルドは背中を向けたままで、悔やむようにしてそう言った。機密情報を漏らされて卑劣な罠を仕掛けられたというのに、彼はそれを自分のせいだと悔やみ辛そうだ。
「情けない、なんてこと……絶対に、思ってません。リカルド様は……何も、何も悪くないから」
スイレンは堪らなくなって、背中を向けていたリカルドに思わず抱きついた。
綺麗に盛り上がった筋肉があるせいか、彼に触れたところがひどく熱く思えた。
これだけの肉体を鍛えるためには、どれだけの時間の鍛錬(ルビ:たんれん)が必要なのか。スイレンには、全く見当もつかなかった。
ただわかっているのは、リカルドがそれだけ必死で竜騎士になりたくて、これまでに頑張って来たことだけ。
スイレンは幼いリカルドが一生懸命頑張っている姿を思い浮かべると愛しさが溢れ、本当に自分はこの人が好きなんだと、また確信してしまった。
「これだと、俺は君を抱きしめられないな」
リカルドは苦笑したまま、無理にスイレンが自分の腰に回した腕を振り解こうとはしなかった。
スイレンは、彼の大きな背中に何回かのキスをした。まじまじと間近で確認しても、滑らかで美しい肌は、昨夜酷い傷を付けられていたとは思えないほどだ。
(本当に、傷跡も何もかも……ひとつも残っていない。治療の魔法って、本当にすごい)
「スイレン、参った。もうそろそろ、抱きしめても良い?」
リカルドが両手を上げて降参をしたので、スイレンはくすくすと笑って了承を表すように抱きしめていた手をぱっと離した。
リカルドは体を回して、微笑んでいる彼女を優しく押し倒して、スイレンはゆっくりと目を閉じた。無防備な首元に、吸い付いてリカルドは赤い痕を残していく。
(あ。これって彼のものだという印って言っていたよね……? それなら、私も……)
「リカルド様、私もしたい……」
言葉の意味を測りかねて首を傾げるリカルドに、スイレンは続けて説明をした。
「これは、私がリカルド様のものだと言う印なんでしょう? そうしたら、リカルド様にも、私がつけたい……です」
照れながら答えたスイレンに、リカルドは口を押さえたままで上半身を起こした。何故か彼も照れているのか、その目の下が赤い。
「良いよ。おいで」
リカルドは両手を広げると、やはり上半身を起こしたスイレンを迎えるように待った。両手を広げ、待っていてくれている彼の胸にスイレンは飛び込んだ。
「俺は、別にこのままでも良いんだけど……印、つけないの?」
(あ。そうだった)
彼との抱擁の満足感に自分がこうしていた当初の目的を忘れていたスイレンは、目の前にある筋肉質な胸板にキスをして、彼がしていた真似をして吸い上げる。
「あれ? ……つかない……ですね」
さっきのリカルドと、同じことをしているというのに、全く痕がつかない。
不思議そうな声を出して、スイレンは首を傾げてリカルドを見上げた。彼女のそんな様子を余すところなくずっと見ていたリカルドは、愛しくて堪らないという表情でスイレンにキスをした。
「俺の皮膚が、君よりも厚いせいだと思うよ。もっと、強く吸ってみて。痛くなっても、構わないから」
そう言われて頷き、スイレンはもう一度挑戦してみた。
痛くても構わないという言葉に勇気を貰い、覚悟を持って一気に吸い上げると、彼の肌に薄紅の痕がついた。
スイレンは嬉しくなってリカルドを見上げると、彼は微笑んで見下ろしていた。
「もっとする?」
そう彼に言われて頷くと、同じように何度か痕を残していった。作業は思ってもみないくらいに、とても楽しいものだった。
大好きな彼に、自分のものだという印を残していく。
(嬉しい……リカルド様は、私の恋人なんだ……)
夢中になり何度も何度も痕を付けることに没頭していたスイレンに、リカルドは言い辛そうに声を掛けた。
「ごめん。スイレン。あんまり多く痕がついてると、着替えの時に皆に揶揄われるから。この辺りで、勘弁してくれる?」
「あ。私。ごめんなさい!」
慌てて謝ったスイレンを、押し倒しながらリカルドは笑った。
「良いよ。ごめん。高潔な竜騎士達なんて言われていても、好きな女の子に痕をつけられて喜んでいるのは。皆一緒だから」
「……喜んでくれます?」
恐る恐る聞いたスイレンの首筋に顔をあてて、その匂いを堪能ながらリカルドは言った。吐息がくすぐったくて思わず身じろぎしたスイレンを、逃さないように体を密着させる。
「もちろん。めちゃくちゃ嬉しいよ。消えそうになったら、また付けて。ずっと君のことを、感じられるようにしていたい」
「リカルド様……」
「今日は、もう寝ようか。色々あって、疲れただろう。俺も、少し疲れた」
リカルドは、スイレンの身体を抱き寄せて、優しく髪を撫でた。




