2-8 歌
王都へと帰り着いて、リカルドが本格的な治療を受けてから、医者の許可を得て家に帰れるようになるまで、スイレンは出来るだけ彼の傍を離れなかった。
ずっとその瞬間まで興奮状態だったせいなのか、不思議と眠くならなかった。
けれど、森の中を歩き回って土に塗れ汚れ切っていた服を着替えてから、自室のお風呂に入る前に少しだけ休もうと自分の部屋のベッドで横になってから、スイレンの記憶は途切れていた。
「リカルド様」
ふと目を覚ましたスイレンは、思わず口にして慌てて口に手を当てた。
目を開ければ、目を閉じている彼の顔が間近にあって、思わず名前を呼んでしまった。
(え。何。これは……どういう状況なの……?)
よくよく周囲を確認すれば、やはり横になった瞬間に寝入ってしまっていたのか、スイレンは自分の部屋のベッドに寝ていた。
リカルドは、その後スイレンの様子を見にきて、彼女の横で眠ってしまったのだろうか。
精悍な彼からは想像できない、可愛らしい寝顔をまじまじと、見つめる。規則正しく繰り返される深い呼吸。
再度囚われてしまっていた彼が、生きていることを実感して、スイレンは大きくため息をついた。
(本当に、良かった……運良く幾つもの大きな幸運が、重なったんだとしても……自分が彼の救出に尽力することが出来て、本当に良かった……)
気持ち良さそうにぐっすりと眠っているリカルドを起こさないように、スイレンは注意深く音をたてないよう慎重にベッドから降りた。
窓の外を見れば、もうとっくに見えている日は高くなっていた。
通いのテレザも既に来ているのか、階下からは誰かの気配もする。
日常に戻って帰って来たことを実感し、ほっと息をついたスイレンは森の中で汚れてしまった身体を洗うために浴室へと入った。
服を脱ぎ大きな姿見の前に立つと、いつ何処でぶつけてしまったのか、足や腕にいくつか大きなアザが出来ていた。その存在に昨夜のことは夢じゃなかったという実感が、じわじわと湧いてきた。
森の中で一晩中駆け回り、汚れてしまった身体を、温められたお湯が洗い流していく。
良い匂いがする石鹸を泡立ててもこもことした泡で体を洗うと、何箇所か擦り傷がひりついて痛む部分もあったが我慢した。
もしかしたら、気が付かぬ内に木の枝に引っ掛けてしまっていたのかもしれない。お湯でさっと流すと一気に汚れが落とされて、ようやくすっきりすることが出来た。
湯が白く濁る入浴剤を入れて、花の匂いで浴室の中は満たされた。温かな湯の張られた大きな湯船に浸かり、気分も良く自然と歌を歌う。
浴室では声が良く響き、普段の自分より上手く聞こえてしまうせいもあるかもしれない。
ガヴェアで花娘を生業にしていた頃は、祭り用の歌を何個か歌えた。時々歌わなければ、すぐに忘れてしまう。
その理由が何故かという理由はスイレンは知らないが、恋を歌った歌が多い。祭り中は恋人や配偶者などに、花を買っていく場合が多いせいもあるだろう。
「……スイレン?」
戸の向こうからリカルドの声がして、驚いたスイレンは慌てて歌うのをやめた。思わず夢中になって歌っていたのが、彼に聞かれていたと思うと無性に恥ずかしかった。
「スイレン。入って良いか?」
「リカルド様?」
彼のまさかの質問に、スイレンが唖然としている間にリカルドが浴室の戸を開けた。
笑顔で入ってくる彼を制止するのも忘れて、スイレンは濁った湯が張られた湯船に浸かったままで背の高い彼を見上げた。リカルドは服が濡れるのも構わずに、タイルの床に膝をついて湯舟に座ったままの彼女と目線を合わせた。
「……いつか。俺が檻に入っていた時に、歌ってくれた歌だ。あの時を思い出して我慢できず入って来てしまった。気分よく歌っていたのに、ごめん」
スイレンは勇気を出して、彼の入っていた檻の前で歌ったことを思い出した。
(リカルド様は、あの拙い歌を覚えていてくれたんだ。今も。嬉しい)
「これは……わかりにくいんですけど、恋の歌なんです。長く会えなかったけれど、やっと愛する人に会えたっていう……そんな曲なんですよ」
リカルドはうんと一度頷いて、スイレンの濡れた顔に自分の顔を近づけると、やさしく何度か触れるだけの軽いキスをした。唇を食んで最後にぺろっと舐めると、名残惜しそうに唇を離した。
「これ以上すると、止まれなくなりそうだから……今はこれでやめておく。起きたばかりで、お腹が空いただろう。俺は先に下に降りるから。ゆっくり入っておいで」
リカルドが背を向けて行ってしまっても、スイレンはぼーっとして彼の去った戸を見つめてしまった。
天井から水滴が落ちる音がして、はっとする。
どれだけ、リカルドに夢中になれば良いのだろう。
頭の中が彼のことでいっぱいになって、何も他に考えられなくなる。それが良いことなのか、悪いことなのか。。それすらも、もうわからなくて。
◇◆◇
「スイレン!」
紅い髪をした小さな少年は、身支度を済ませていて、階段を降りて来たばかりのスイレンに勢いよく抱き着いた。
「ワーウィック! 貴方……もう、動いて大丈夫なの?」
それが誰であるかを認識して、喜びの声を上げたスイレンからワーウィックは一度離れると、胸を張るようにして、にっこりと笑った。
「もっちろん。魔の山だったから、イクエイアスの加護がなかっただけ。あの時は状態異常の魔法にかかってしまっていたけれど、今はもう全然平気。それより、僕が居ない間に、クライヴと仲良くしたらしいね?」
変なところで嫉妬心を出して来たワーウィックに、スイレンはふふっと微笑んだ。
「クライヴには……リカルド様とワーウィックを救出するために、たくさん助けて貰ったの。良くお礼を言わなきゃ駄目よ。ワーウィック。そう。ブレンダン様のお見舞いにも、後で行かなくちゃ」
自分の相棒クライヴを貸してくれたのは、他でもないブレンダンだ。彼がきっとクライヴにスイレンを手伝って欲しいと言ってくれた。
酷い大怪我をしていたし、後でお見舞いとお礼に向かわなければならない。
「ブレンダンも、今は酷かった怪我の状態も落ち着いていて家で静養しているみたいだよ。それより、朝ご飯を食べようよ」
スイレンを自分で引き留めていた癖に、早く早くと急かすワーウィックに苦笑した。
リカルドはスイレンが降りてくるまではと食事するのを待っていてくれたのか、まだ目の前にある朝食には手を付けていないようだ。
彼を待たせてしまっていたのかと、スイレンは慌てて自席へと座る。謝ろうとするスイレンを手で制して、リカルドは言った。
「スイレン。君も今は疲れているだろうが、ジャック・ロイドが機密情報を漏らしていた取り調べのために、城で調書を作る必要がある。担当の文官が被害者である俺と君にも話を聞きたいと言っていたから。後で俺と城へと向かおう」
「ええ。もちろんです……あの、彼はどうなるんでしょうか?」
お腹を空かせたと訴えるワーウィックのために、彼のお皿に魔法の花を出しながら言ったスイレンに、リカルドは困ったように笑った。
「情報漏洩は重罪だからな……ただ、罪を犯した彼にも。彼なりの言い分はあるだろう。それを加味して、きちんとこの国の法に裁かれるように祈るよ」
◇◆◇
自分も一緒に行くと言って聞かないワーウィックを、官吏からの真面目な聴取だからと説き伏せて家に置いてくることに成功した。
馬車へと乗り込み城へ辿り着いたリカルドとスイレンの二人は、広い廊下で金髪の美女のイジェマとすれ違った。
「……イジェマ。お前も来ていたのか」
彼女の姿を確認し躊躇いがちに話しかけたリカルドに、イジェマは微笑んで首を傾げた。
「ええ。元恋人であるジャックとのことを、洗いざらい話して来たわ。貴方憎さそれだけのために、国家に背くなんてね。考えられないけれど、実際に起きた事なんだから仕方ないわ」
「……聞いたのか」
あのロイドがイジェマに近づいたのは、リカルドのことがあったからだと暗に伝えたのだが、それを聞いてイジェマはあっけらかんとして笑って頷いた。
「ええ。ジャック・ロイドが、私に近づいた理由も分かったわ……それに、あの時にいきなり捨てられた理由も。そんな顔をしないでよ。あの人と付き合うのを決めたのは、私なんだから。それをリカルドのせいにするつもりなんて、思ってないわ。今はいきなり別れを告げられた理由がわかって、とってもスッキリしているんだから。それより、私。これから大陸へと旅に出ることにしたの。お父様も、承知しているわ。私くらいの美貌を持つなら引く手数多で縁談があるはず。誰かに振られたからって、リカルドみたいな泥臭い竜騎士と結婚するなんてまっぴらよ」
イジェマはそう言うといかにも清々したという様子で、リカルドの後ろで大人しく控えていたるスイレンの顔を覗き込みながら美しい顔で笑った。
「あの、スイレンさん? あの時は、混乱していてお礼を満足に言えなくてごめんなさい。私だったら。とても、魔の山にまで単身助けになんて、行けないもの。勇気ある貴女と、昔から知っているリカルドの幸せを祈るわ」
「イジェマ様……」
さめざめと悲しむ失恋した直後を知っているスイレンは、彼女のあまりのあっさりとした潔い態度を見てぽかんとして何も言えなかった。
二人に目配せをして軽く手を振ると、イジェマは颯爽と姿勢よく歩いて去って行ってしまった。
取り残された二人で、顔を見合わせて笑い合う。
「イジェマは、元々ああいう奴なんだ。自分の好みに合わない鍛えた体を持つ俺のことなんか、欠片も好きじゃない。拘りがあって、都会的で洗練された美しいものが大好きな女なんだよ。きっと、大陸ですぐに似合いの大富豪を見つけて結婚するだろうな」
(きっと、そうなるわ。だって……イジェマ様は、努力家だもの)
イジェマがあれだけ美しいのは、元々彼女の持つ素材が良いせいもあるだろうが、常に弛まぬ努力を本人がしていることが大きい。
これから彼女が向かう行先が何処であれ、きっと自分が望むものを手に入れるだろう。




