2-3 朝の光
その日の夜。リカルドは、何でもいくつかの根回しが必要だからと言って、机に向かい何通もの手紙を書いていた。
リカルドの様子を見ていたはずのスイレンは、彼の部屋にある大きなベッドで、いつの間にか眠ってしまっていた。
はっと目覚めれば、背中から抱かれて太くて筋肉質な腕が身体に巻きついている。
リカルドは上半身裸なのか、剥き出しの肌に直接触れたところが熱い。
寒い季節なのに、こんな格好で寝てしまって風邪をひいてしまわないかとスイレンは不安になった。
身動きの取れないスイレンは、懸命にがっちりと固定されてしまった体を捩らせると、いつもの彼の精悍な表情からは想像もつかない。あどけなくて、可愛らしい寝顔が見えた。
(リカルド様。寝顔、可愛い)
まじまじと間近でこうして見てみると、リカルドの睫毛はとても長い。目線を下げれば、高い鼻筋が通って形の良い唇へと繋がる。彼のことを諦めなくて良いと知った今では規則正しい小さな寝息ですらも、何もかもが愛しく感じてしまう。
思わず笑顔になってしまったスイレンは、そっと眠っている彼の頬へキスをした。心の中に愛しい感情が溢れて、どうしても止めることが出来なかった。
ただただ、愛しくて。目の前にこの人が存在していることが、本当に信じられなくて。
(夢なのかも……)
「キャっ……」
じっと彼の寝顔に見入っていたスイレンは完全に寝ていると思っていたリカルドに、急にがばっと抱きしめられて驚いた。
「おはよう。スイレン。やっぱり、起きた時に可愛い君が居るなんて最高だ。職場にも、出来たら連れて行きたい」
起きて早々甘い言葉を吐き出したリカルドに、真っ赤になってしまったスイレンは何とか彼の腕から逃れようともがいた。
だが、竜騎士になれる程の鍛錬を、潜り抜けてきた強靭な身体は簡単には逃してくれない。
「あー……なんで、俺はこれから仕事なんだ。許されるなら、ずっと一日中。君と一緒に居たい」
イジェマと婚約解消をしたその日から、リカルドの言葉は、タガが外れてしまったように甘くなった。それを聞いたスイレンは、心がとろけてしまいそうになった。
強い光を放っていた茶色の目を持つリカルドとそうして過ごすことを、彼を見たその時から、ずっと密かに夢見てきた。
だから、もう。このまま、時が止まってしまっても良いと思えるほどに。
◇◆◇
「え。魔物退治の遠征……ですか?」
朝食の時にリカルドが遠征に行くと聞き、スイレンは驚いてしまった。
スイレンが生まれ育ったガヴェアは、国境を強力な魔物除けの魔法陣で守られているので、魔物は侵入してくるのは稀だ。しかも、そんな国の中心部である王都にずっと居たので、その稀な機会にも出遭ったことがない。
けれど、リカルドが所属しているヴェリエフェンディの竜騎士団は、恐ろしい魔物からも国民を守るのも、仕事の一つだ。
「そうだ。何日か留守にするけど。これは、通常任務でいつものことだから、心配することはない。すぐに、帰ってくるよ」
茶色の瞳を輝かせ、リカルドは微笑んだ。
リカルドの名前が、周辺国中に鳴り響いていることからわかる通りに竜騎士としての彼が、とてつもなく強いことは知っている。だが、スイレンはそう理解はしていても、心配になった。
(リカルド様が、また捕まってしまったら?)
そう思うと、不安で一杯になった。ひとりでに速くなって来た胸の鼓動を、痛いくらいに感じてしまった。
「僕は、行きたくない。スイレンと離れたくないし」
遠征の予定を聞きしかめっ面をして駄々をこね出したワーウィックの頭を、溜め息をつきつつ、ポンと軽く叩きながらリカルドは立ち上がった。
「お前が行かないで、どうするんだ。仕事だぞ……集合時間に遅れる。ほら、行くぞ。ワーウィック。テレザ。スイレンを頼む」
「お任せください」
彼に向けて胸を叩いたテレザに頷いて、リカルドとワーウィックの二人は家を出て行ってしまった。
玄関を出て見送るスイレンに、手を振ってから行ってしまう大きな背中が恋しい。
「スイレンさん。そろそろ、仕事場に行く時間ではないですか?」
テレザにそう聞かれ、自分も出勤せねばならないことに気がついて、スイレンは慌てて用意していた荷物を持ち家を後にした。
◇◆◇
本日引き受けていた仕事は、結局一日丸々かかってしまった。
中堅貴族が主催をするパーティでの会場やテーブルの上での生花の飾り付けや、開会の挨拶時に大量の魔法の花を降らせて欲しいとの、いつものようにジョルジオを通じての依頼だ。
スイレンはこれまでにも同じような依頼を何回かこなしてしまっているから、慣れているつもりだった。だけど、開始時に花魔法を使うタイミングを合わせる時は、やはり緊張する。
宙に浮いた魔法の花の蕾が、ポンポンと音を立てて空中で色鮮やかな花に開花していく。
花魔法を見慣れない参加者達から感嘆の溜め息が漏れて、その様子を見ていたスイレンは人を笑顔に出来たことで思わず嬉しくなって微笑んだ。
仕事をしていて本当に良かったと満足感を得ることが出来るのは、こういった時だ。
花魔法しか満足に使えないこんな自分でも、こんなに多くの人を笑顔にすることが出来る。そのことに、大きなやり甲斐を感じていた。
今夜のパーティは、かなりの人出で、着飾った多くの人達に混じっても遜色のないようにと、スイレン自身もある程度のお洒落はしている。
ガーディナー商会で本職に素敵な髪型と流行の化粧をして貰っていて、借りたドレスは流行の最先端だ。人々からの視線を感じるスイレンは、自分でもいつもよりは見られる格好をしている自覚があった。
「やあ。君、可愛いね。名前を教えて」
だから、こうしたパーティでの男性の誘い文句を断る事も、ある程度は慣れて来たつもりだった。
その時も、一言だけで断って、すぐに通り過ぎてしまうつもりだった。貴族は無粋な真似を嫌うから、断ったというのに食い下がる男性も珍しい。
けれど、通り過ぎることは出来なかった。その人物がついこの前に、遠目で一瞬だけ見た人物であることに、咄嗟に気が付いてしまったからだ。
「良かったら、僕と踊らないか。一度だけでも良いから」
彼の登場に、あまりの驚きに声も出ないスイレンに対して、声の主は言葉を重ねるように尋ねて来た。
まるで、生きた彫刻のように整った顔に、ふわりと無造作に整えられた眩い金髪。そして、透き通るような青い瞳。周囲の女性達からの、羨望の視線が痛い。
ご令嬢たちは彼の優雅な一挙一動に、完全に見入っている。
(この人。泣いているイジェマ様の手をこともなげに、振り払った。彼女をあんな場所に一人残して去った……最低の、元恋人だ……)
それに気が付いたスイレンが唖然として彼を見つめていると、何を勘違いしたのか彼女の右手を取って形良い唇でキスをした。
冷たい。スイレンは触れた唇をそう感じて思わず、ぱっと彼の手を振り払ってしまった。
(あ。いけない……よくないわ)
手を振り払ってしまうことは、明らかにスイレンの方のマナー違反だ。男性から手を取られキスをされたことを不快に感じたとしても、そう思わせずに上手く躱すのが貴族の作法だった。
「……何? 何か僕が、君に気の障るようなことしたかな?」
不思議そうに首を傾げる仕草にも、彼の自らに対する圧倒的な自信が溢れている。
まさかそんな自分が、女性を踊りに誘って断られるなどと、露ほども思っていない様子だ。
スイレンだって、もしイジェマに対する彼の態度も何も知らず、リカルドというただ一人の人が居なかったとしたら。こんな状況では心は浮き立ってしまうことは仕方ないと思ってしまう程度には、彼は魔性の美しさを持っていた。
「い、いいえ。これは……無作法を。申し訳ございません。私は……その、こちらの会場には、仕事で来ていまして。どうか、別の美しいご令嬢を誘ってください。それに……私は、踊れないんです」
謝罪の意味も込めて、スカートを持ち貴族流の挨拶をすれば、ジャック・ロイドはスイレンの言葉を意に介さずに言葉を重ねた。
「ふうん。踊れないんだ。それでは、向こうに行って少し話さない?」
誘いを断り去ろうとしていたスイレンの手をぎゅっと握り、イジェマの元恋人であるジャック・ロイドは外のバルコニーへと連れて行った。
美しい青年に手を引かれて歩くスイレンに、会場中の女性から羨望の眼差しが集まる。
(なんなの……強引過ぎるわ)
外の風を受ければ、ひんやりとしていた。
広間には人々が数多く居て、それだけで温められていれた会場から出て来たばかりなので寒くはない。だが、何の上着も着ていない袖のないドレスのままであれば、すぐにでも体が冷えてしまうだろう。
ジャックはそれをわかっているはずなのに、スイレンの手を離してはくれなかった。
「あのっ……手を放してください。何か、私に御用ですか?」
偶然見かけて気になった程度では、ここまでの事はしないはずだとスイレンは思った。
(この人、何かおかしい。何か目的があって……私に近付いて来た?)
訝し気な様子で、ジャック・ロイドを見つめるスイレンに彼はふんと鼻を鳴らした。
「君は、あのリカルド・デュマースの恋人だっていうのは、本当?」
スイレンは、その言葉を聞いてぐっと言葉に詰まった。
多くの竜を使ったあの空からの大捜索は、街でもかなりの大騒ぎになっていたとガーディナー商会でも聞いていた。
名前しか知らなかった彼の耳にも入ってしまうくらいに、噂というのは早く回ってしまうのだろうか。
戸惑っているスイレンの顔を、まじまじと覗き込みながらジャックはゆっくりと言った。
「確かに、まあ……可愛いね。ねえ。デュマースより、僕の方が絶対に良いよ。あの頭でっかちな童貞よりは、君のことを愉しませてあげることが出来る」
確かに、リカルドはスイレンに何もかもが初めてだと言っていた。だが、それが彼の欠点になるなんて、スイレンには思えなかった。
(本当に、なんなの。この人には、何の関係もないし……リカルド様に、こんな事を言うなんて……)
イジェマの件もあり、ジャック・ロイドに対するスイレンの警戒心は強まっていく一方だった。
「……っ、お断りします。話がそれだけなら、もう帰らせて頂きます」
「デュマースは、ただ運が良かっただけで竜に選ばれた臆病者だ。英雄と呼ばれ良い気になっているが……自分が戦功を立てるためなら、どんな卑怯な真似もする卑劣な男だよ」
ジャックは早足で去ろうとしたスイレンの手首を捕まえて強く握り、リカルドのことを侮辱した。
スイレンはその言葉を聞いて、涙が頬に走るのを感じた。
「もう! 離してくださいっ! リカルド様は、そんなことをしません。絶対に」
「……ふん。随分と、あいつの肩を持つんだな。どうせ、何も知らない癖に」
吐き捨てるようにしてジャックは呟くと、スイレンの手を乱暴に離して行ってしまった。
(私が……リカルド様のことを、何も知らない? ううん。そんなことはない。私はリカルド様のことを、ちゃんと知っている。あの人は、自分の戦功を立てたいからって、絶対に何か卑怯な真似をするような人じゃない。それに、竜のワーウィックが、自分の竜騎士にあの人を選んだのが何よりの証拠のはずよ)
竜は人の心の在りようを見て、自分に相応しい竜騎士を選ぶ。
その事実こそが何よりも、リカルドがジャック・ロイドの言うような卑怯な人ではないという証拠ではないだろうか。
彼に握られていた手首は痛くて、治癒の魔法を使えないスイレンは、自分でその赤い痕を擦るしか出来なかった。




