1-2 願い
「今日の売り上げは、たったこれだけなのかい!? 本当に、何の役にも立たない女だね」
スイレンの叔母にあたるマーサは、花の種を購入するための僅かな額を差し引いた売上金をスイレンの手から奪い取ると、いつものように見下げるようにして彼女を睨め付けた。
彼女の顔に浮かぶ嘲るような表情を見て、スイレンはいつも悲しくなってしまう。
一日中くたくたになるまで王都を歩き回り、十分な額を売り上げているはずだというのに、マーサの言葉は疲労している姪に対し、まるで容赦などなかった。
両親を亡くしたスイレンを引き取り、ここまで育ててくれたのは紛れもなく叔母である彼女だ。
だが彼女が姪に施した育て方は、真っ当であったとはとても言えなかった。
幼くして両親の死に落ち込み泣き通しやつれていた十歳になったばかりのスイレンを、姉と同じく珍しい花魔法が使えるからと花娘として無理矢理働きに出し、売り上げのほとんどを取り立てた。
そして、住まわせる場所は、みすぼらしい裏小屋だ。
王都の名物とも言われる花娘だと言うのにこれ以上見栄えが悪いと、花が売れないかもしれないと服と靴だけは仕方なく古着屋で買ってくれた。
だが、それ以外は全く世話などされることなく、ほぼ放置だった。
スイレンは売上金を手渡し不条理に責めるマーサにいつもの通りに何の口答えもすることなく、項垂れながら黙ったままで自分が住まう裏小屋へと入った。
一切れのパンと、固いチーズ。それと、井戸から汲んだばかりの冷たい水。それが、彼女の夕食だった。
スイレンは今の年齢になるまでに、叔母の家を出て行こうかと考えたことは数え切れないほどにあった。
けれど、ガヴェアでは信用ある後見人が居なければ、部屋を借りる事が出来ない。
考えもなしに出て行けば、住む場所もままならない事になる。
唯一、スイレンが自在に扱う事の出来る花魔法も、適性の関係で使用出来る人数が少なく魔法大国と呼ばれるガヴェアでも珍しい魔法だが、お金になるとは言い難い。
例え寒風が吹き込む狭い小屋だって、屋根がないよりはマシだと、そう自分に言い聞かせて、これまでここで生きてきた。
これからも、きっとそうだろう。
小屋に敷かれた藁の上に古びた毛布を被って、スイレンは少しでも身体が温かくなるように丸くなった。
(あの人も……こんな風に、寒い思いをしているかもしれない。明日の早朝。誰も居ない時になら、彼に話し掛けられるかもしれない。花の種の在庫は、十分にあるから。明日の朝は、種を仕入れに市場に行かなくても良い日だし……彼に会いに広場に、行ってみよう)
目を閉じて眼裏に浮かぶのは、囚われの竜騎士の強い光を秘めた茶色の目だった。
あの目に自分を映すことが出来るのだとしたら、それはなんて幸せなことなのだろう。
◇◆◇
朝起きてから、その日に会いたい人が居るというのは幸せなことなのだと、スイレンは珍しくすっきりとした気分でそう思った。
井戸の冷たい水を汲み上げて顔を洗い、小屋で古びている柔らかな布で体を拭いた。
いつもより、入念に。あの竜騎士の前で少しでも綺麗な自分で居たいと、自然に思ったから。
花の種から生花を咲かせるのは、そう魔力は使わない。
ただ、慎重にせねば失敗してしまうために時間はかかってしまう。
どうしても急いてしまう気持ちを抑えながら、花を咲かせていつも通りの本数を揃えた。
そして、大きな籠に順序良く入れると小屋を出て心を浮き立たせながら目的の広場へと急いだ。
あの竜騎士にとっては、ここは敵地だ。
心を許せるものなど、何ひとつないだろう。けれど、ほんの少しだけでも良い。彼の目に映ることが、出来たなら。
どれだけ、嬉しく思ってしまうのか、スイレンは自分にも想像出来なかった。
早足で大通りを進むスイレンの心の中には、ただただ彼に会いたいと浮き立つような気持ちだけが溢れていた。
スイレンの目には、やがて王都には似つかわしくない、異様な威圧感を放つ大きな鉄の檻が映った。
昨日からこの場所で捕らえられているリカルドは勿論、今も檻の中に居た。
中央付近にある椅子に腰を下ろし、どこか遠い目をしたままで前方を見つめている。
多くの民衆から、多数の石をぶつけられたせいか。リカルドは、肌が剥き出しになっている顔や手に、いくつかの小さな怪我をしていた。
スイレンはもう既に赤黒くなって固まってしまっている垂れた血を拭って、治療してあげたいと思った。
太い鉄格子に阻まれて、それは叶わないことだけれど。
「あのっ……おはようございます」
スイレンはしんとした静かな朝の薄闇の中、勇気を出してリカルドに話し掛けた。
途中で声を掛けられた事に気が付いて、こちらに顔を向けたリカルドの強い視線を感じて、スイレンの声はどうしても震えてしまった。
彼にじっと、自分を見つめられている。
それを思うと、スイレンの心には溢れるような喜びが湧いて来るのを感じた。
両親が亡くなってしまってから、これほどにまでに嬉しかったことはないと思ってしまうほどに。
リカルドはただスイレンを見つめているだけで、何も言わなかった。
何の感情も見えない無表情の中で、少しだけそう少しだけ表情が動いたような気がした。
(何か……言いたそうに見えた? ううん。私の勘違いかな……)
きっと、自分が良いように解釈したいだけだと、スイレンは頭を小さく振った。
こちらをじっと見つめているだけのリカルドを少しだけ驚かせてみようかと、悪戯心の沸いたスイレンは、檻の中央に置かれた椅子に座る彼の目の前に、魔法の花を一輪咲かせた。
花の元となる種から咲かせる生花ではなく、こうして無の空間に生み出した魔法の花は、時間が経つと何の跡形もなく消えてしまう。
リカルドは空中に落ちることもなく浮いている花を見て、驚いたようにして目を見張る。
そして、視線を戻して檻の外に居るスイレンのことを見た。
彼が反応してくれたという嬉しさに、スイレンは調子に乗って、いくつかの花を彼の周囲の空間に咲かせた。
リカルドは重力に逆らいふわふわと宙に浮かぶ花を、信じられないというような表情で、じっと見ていた。
ちょうどその時に、いくつかの荒々しい足音がこちらにやって来るのを耳にしたスイレンは、自分はここに居るのは良くないとはっとしてから身を翻した。
(私を、見てくれた! 嬉しい!)
慌ててその場を離れようと走った勢いで、舞った花びらがひらひらと道に落ちて、いくつかの花がダメになってしまった。
そんなことなど全く気にならないほどに、スイレンは彼に恋をしてしまった。
その日の仕事が終わり、また叔母のマーサに役立たずと罵られ、狭くて暗い小屋に入って一人でも、スイレンの心は彼に会えた嬉しさで浮き立っていた。
(ほとんど、無表情だったのに……すごく、驚いてた)
隣国ヴェリエフェンディでは、古い魔法の使い手は少なく、新しい技術が隆盛し敢えて残そうとすることもないので、魔法はどんどん衰退していってしまっているらしい。
花魔法は、それだけではお金を稼げる程ではない。
けれど、魔法大国と呼ばれているガヴェアでも使える人が少ない。
きっと、あんなに驚いていたリカルドはスイレンが生み出した魔法の花を初めて見たんだろう。
「明日も、会いたいな……」
薄い毛布に包まり寒さにかじかむ手を揉み込みながら、スイレンは願った。
あの人は敵国の英雄で、竜騎士で。
そして、そう遠くはない未来にいずれ死んでしまう運命にあるという、悲劇的なことなどもう思い浮かばなかった。
ただただ、あの人にまた会いたい。出来るなら、声も聞いてみたい。
それだけが、スイレンの心を占めていた。
◇◆◇
それから三日間ほど、タイミングが合わずにスイレンはリカルドに近付くことは叶わなかった。
彼を見張るために配置されている衛兵がその檻の前に居て何かを伝えていたり、また他に人目があったり、朝の市場での仕入れをしていたら時間に遅れて、既に人が集まり出したりと全く話す機会が出来なかった。
夜遅くにぽつりと雨の音がしたその日、明日こそは話しかけるとスイレンは決意を固めた。
夜半過ぎに大雨になった明くる朝、土砂降りの大雨はまだ降り続いていた。
今日は、花売りの仕事は難しいだろう。
雨が降ってしまうと、外を歩く人が目に見えて減ってしまうからだ。
外出の支度を終えたスイレンは、あまり得意ではない生活魔法で空気の傘を作り出すと、急いで広場までの道を走り出した。
いつもは花売りの仕事のために持っている、花が入った大きな籠がないと走りやすかった。
広場にある、大きな檻の中。
身嗜みを整えることも出来ずに無精髭が生えてきているリカルドは、この前に見たときのように中央にある椅子に座ったままで眠っていた。
檻の中にはもちろん、寛ぐようなベッドなどは用意されていない。
スイレンは眠るリカルドの様子を見て、吹きすさぶ風に吹かれた雨に濡れてしまっている彼の服を乾かすための魔法をそっとかけた。
苦手な浄化魔法も声に出さずに心の中で必死に唱えてはみるものの、彼の服にある汚れが尋常ではないせいか、思ったように効かない。
人の気配に気がついたのか、座ったままで眠っていたリカルドは目を開けた。
そして鉄格子の隙間から檻の中の自分に浄化魔法を与えるために必死で手を伸ばすスイレンを見て、驚きで目を見張った。
リカルドは無言のまま静かに立ち上がり、彼が起きるとは思わずに驚き固まるスイレンの目の前に来てから、ゆるく首を横に振った。
それが何を意味するのか、スイレンは考えたくなかった。
少しでも、彼の役に立ちたい。それこそが、スイレンがしたい唯一のことだったから。
これまでの辛い生活の中、やっと自分の心に灯った小さな火をどうしても消したくなくて、スイレンは彼自身に拒否されてしまったらどうしようと泣きそうになった。
「あの。私、貴方の服を浄化したくて……余計なことをしてしまって、ごめんなさい……」
小さな肩を縮こまらせて、しゅんとした俯いたスイレンは伸ばしたままだった片手を下げた。
リカルドは無表情ながらも、彼の強い意志を示すようにもう一度首を振った。
余計なことをしてしまって、嫌われたかもしれない。スイレンは、いよいよ泣きたくなった。
檻の外にいる自分に近付いて来たリカルドは、吹きすさぶ横殴りの雨に濡れてしまいそうになっている。
スイレンはその事に気が付いて、慌てて自分の上にある空気の傘をリカルドの頭上へと移動させた。
生活魔法が苦手なスイレンには傘を一つしか生み出すことが出来ないので、自身の身体は土砂降りの雨にすっかり濡れそぼってしまった。
その事に気が付き驚いた顔をしたリカルドは、もう一度スイレンを見つめて首を振った。
「あんまり……この魔法は上手じゃないんです……その傘、すぐに消えてしまうので、早く中央に移動してくださいね」
自分は冷たい雨に打たれながらも笑ったスイレンは、リカルドの困った顔をして首を振る姿をもう見たくなかった。
身を翻して、いつもは歩いて花を売っている通りを走った。
バシャバシャと大きな音を立てて、足元で冷たい水が跳ねる。
それでも、あの人と少しでもこうして会えたことがどうしようもなく嬉しくて、スイレンは走りながらも微笑んでしまった。
間近で見るとリカルドは睫毛が長くて彫りが深く、遠目で見て想像していたよりも、とても綺麗な顔をしていた。
無表情ではあったが、戸惑い動揺するかのように茶色い目が揺れていた。
きっと彼はこんな自分のことなど、すぐに忘れてしまうのかもしれない。
でも、少しの間だけでも良かった。
彼の心を和ませることが出来たのなら、もう何も要らないと思ってしまう程に。