2-2 溺れる
夕暮れも迫る遅い時間に本来であればもっと早く帰るはずだったスイレンが馬車に乗って家に帰り着くと、リカルドとワーウィックは何故か家の前で待っていた。
彼も仕事帰りそのままだったのか、身分を表す黒い騎士服を着ているままだ。
スイレンがイジェマと共に乗っている馬車が止まると、二人とも不思議に思ったのか訝しげに馬車へと近づいて来た。
御者が恭しく開けた扉から、中を窺い見たその顔はひどく驚いている。
「スイレン! この馬車はパーマー家のものか。 イジェマ。これは一体、どういうことだ?」
「リカルド……どうしたら良いの。私達の計画は、駄目になってしまうかもしれないわ……」
険しい表情を浮かべたリカルド、またさめざめと泣き出したイジェマはそう言った。御者に手を借り、馬車を降りようとしていたスイレンは彼女の言葉を聞いて戸惑った。
(計画って……何のことかしら? 二人の婚約解消は、もう成立したのではないの?)
もしかしたらという不安で黒いもやもやした気持ちが、スイレンの胸中を渦巻いて行く。
「何? どういうことだ? スイレン。イジェマ。ここで話すのは、いけない。とにかく、家の中へ入ってくれ」
ワーウィックは黙ったままで、スイレンの手を握り引いたままで家の中へと歩く。また泣いてしまったイジェマに、寄り添うのはリカルドだ。
悲しんでいる女性に対し優しくするのは、当たり前のことだ。騎士道にも、則っている。
スイレンにだって、それは理解出来ていた。けれど、この二人が寄り添うのを見るのは辛い。リカルドと、お互いの気持ちを確かめ合った今なら尚更そう思った。
応接に使う客室へと入り、リカルドは大きなソファへと涙を流すイジェマをゆっくりと座らせた。
そうして、向かいの大きなソファへ座ると、ワーウィックと手を繋ぎ立ち竦んだままだったスイレンに手招きをして隣へと座らせた。
ワーウィックは、リカルドの逆隣に座った。彼が寄り添うようにして小さな身体を寄せて来るので、スイレンはくすぐったくて少し笑ってしまった。
「イジェマ。何があったか、詳しく説明してくれ。君には、将来を誓い合った恋人が居たはずだろう?」
リカルドはこの状況でも安心させるように、隣に居るスイレンの右手を大きな手で握った。
イジェマはそんな二人の様子を見ても特に気にするでもなく、堰止まっていた言葉を吐き出すように話しだした。
「……貴方との、婚約解消が成立したと言ったら……そうしたら喜んでもらえると、そう思っていたの。でも、ジャックは婚約解消したと聞いてから、急に怒り出して、もうお前とは別れるから。二度と話しかけないでくれと……そう。言ったの」
青い宝石のような瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
スイレンはそんな彼女の姿を見てガヴェアに居た頃、顔も知らぬ人と結婚するように言われ、リカルドにもう二度と会えないと、泣いていたあの時の自分に重なるような気もして、ひどく悲しくなってしまった。
(あの時……もし、リカルド様が攫ってくれなかったら)
そう思い至れば怖くて、自分の手を握ってくれている大きな手を握りしめた。
リカルドも応えるように強く握り返してくれるから、こんな状況だと言うのに喜んでしまう気持ちが抑えられない。
「ロイドは、君を愛していたんじゃなかったのか。だから、形だけだとしても……俺という婚約者が居たイジェマに手を出したんだろう。だが……確かに言う通りだ。困ったな。君の父上にも、すぐ次の縁談があるからという条件で婚約解消にも、頷いてもらっているからな……婚約解消の書類はもう貴族院で受理はされてはいるが、前提の条件が崩れるとそれも反故にされるかもしれない。ロイドは、他に何と言っていたんだ? 別れるにしても、あまりに展開が急すぎるだろう」
「……お前にはもう用はないと……そう言われたわ。その前まで、普段通りだったのに。私、もう分からなくて……一体何が、いけなかったの?」
突然の失恋に憔悴してしまったイジェマは、俯いてまた泣き出した。
そっとリカルドの顔見上げて伺うと、難しい顔をして眉を寄せている。
逆隣のワーウィックは口をつぐんだまま、何も言わずにこの事態を見守っているようだ。スイレンもまた、同じように何も言えなくて俯いた。
(どんなに愛し合っていたとしても、どちらかの心がもう離れてしまえば、それで終わってしまう。恋は、なんて脆く儚いものなの)
◇◆◇
イジェマはあの後なんとか落ち着きを取り戻し、気丈に振舞って自らの馬車で自宅へと帰って行った。
その後、一緒に夕食を食べていても、リカルドはどこか落ち着かずに言葉少なくなってしまっている。
スイレンやワーウィックが何かを話していたとしても、彼だけ心ここに在らずというか。何かを、ずっと考え込んでいるようだ。
ワーウィックはリカルドのそんな様子に気づいても、何も言わない。いつものように揶揄うこともしない。皿に盛られたスイレンが出した山盛りの魔法の花を、楽し気に食べているだけだ。
スイレンはそんなワーウィックの様子が気になって、食後、リカルドが二階に上がってしまったのを見届けると、思い切って彼に話しかけた。
「ワーウィック。何で喋らないの?」
ワーウィックはお喋りだし、いつもは食事中でも率先して話している。それとは真逆の姿にを見て、不思議そうにしているスイレンに、ワーウィックは苦笑しながら答えた。
「ん、気にしないで。スイレン。リカルドの心の中が、うるさくて。僕達は契約で繋がっているからね。だから、ある程度意思の疎通が、喋らなくても出来るんだけど……まあ、あいつは、この思わぬ事態にとても混乱しているんだ。スイレンは、気にしなくて大丈夫だよ。任せておけば、何とかしてくれるだろう」
ワーウィックの美しい紅色の目は、嘘はついていないように見える。確かにそう、スイレンには見えた。
(もしかしたら、私に言えない何かが起こっていて、二人はそれを秘密にしようとしているのかもしれない)
ワーウィックの説明では納得出来なかったスイレンは、今日起きたことを思い返し不安になり彼に聞いた。
「イジェマ様が、付き合っていた恋人と今日別れてしまったのはわかっているけれど……それって、リカルド様達の婚約解消に、何か不都合が生まれるってことなの?」
「僕はその婚約についての契約を全部は知らないんだけど、あいつの心の声を要約すると、イジェマ嬢にその後きちんとした相手との縁談が決まらなかったら、婚約解消が正式には成立しないみたいだね。幼い頃からリカルドと婚約していたから、その年数分、出会いの機会を奪われていたっていうのが、向こうの言い分らしいけど……だからって、そこらへんの適当な男をあてがう訳にもいかない」
「出会いの機会……そうね。婚約者が居れば、他の男性は近付けないもの」
向こうの言い分は理解出来ると頷いたスイレンに、ワーウィックは言葉を続けた。
「それにリカルド並みの地位を持つ未婚の男性でって言うと、限られて来るからね。ジャック・ロイドは、その点では合格だったみたいだよ。今、リカルドはイジェマ嬢の父親にどう納得してもらうか。必死で、頭を働かせているね」
「そんな……」
ワーウィックはリカルドが居る二階を示すように天井を見上げ、事態を知ったスイレンは思わず口に両手を当てた。
いくらイジェマが美しいとは言え、幼い頃から国民的に目立つ竜騎士リカルドと婚約していたという過去があれば、我こそが彼女の次の婚約者にと手を挙げる人は少ないかもしれない。
周辺国でも有名な英雄で竜騎士で、貴族の当主。その上に、彼はあれだけの美丈夫なのだ。
対してジャック・ロイドという男性をスイレンは詳しくは知らないが、職業が近衛騎士というと、騎士の中でも花形の地位で姿形も美しいことが条件とされる。この国では、近衛騎士は竜騎士に次ぐ出世コースなのだ。
麗しい美貌を持つジャック・ロイドに言い寄られて、恋に落ちない女性はそういう面に魅力を感じない女性か。それとも、他に心を動かすことのないほどに、愛している男性がいるのか。いくら考えたとしても、理由はあまり思い浮かばない。
先ほどの様子からも、リカルドとイジェマは互いに対し恋愛感情を持たないようだった。婚約解消したいという希望が一致して二人で相談していたと聞いていたし、親から許されずにここでまた再婚約となればあまり良くない結果になってしまうだろう。
「昨日の、今日だからね。パーマー家の当主に署名をもらった婚約解消の書類は、提出済みで受理もされているけど……パーマー家は、この国でも力を持っている貴族だから、敵に回したら厄介なことになる。リカルドは、竜騎士でもありデュマース家の当主でもあるからね。その辺りも加味して、動いたり考えたりしなきゃいけないんだよ」
「……私にも、何か出来ないかしら」
ワーウィックはスイレンの言葉を聞いて、楽しそうな表情をして言った。
「まあ。可愛いスイレンにキスでもしてもらったら、すぐにリカルドの機嫌だけなら直ると思うけど。そうだね。もし良かったら僕の方に先にしてくれても良いよ?」
揶揄うような言葉にスイレンは笑って立ち上がると、ワーウィックの柔らかな頬にキスをした。
自分でそうしろと言ったくせに驚いた顔をしている可愛い少年を置いたままで、スイレンは一人で階段へと向かった。
(今日の朝。家を出る時、こんな風になるなんて……思ってもみなかった。初めてリカルド様の腕に抱かれて目覚めて、本当に幸せな気分だったのに。あんな風に可哀想なほどに、泣いていたイジェマ様のせいではないことは、わかっているけれど)
こんなはずではなかったのにという気持ちを、スイレンはどうしても抑えられなかった。
「……リカルド様?」
スイレンが彼の部屋の扉を叩いても、いつものようにすぐに返事がない。
心配になって扉を開けてみると、部屋の奥から水音がする。きっと、奥にある浴室に入っているのだろう。
スイレンは、複雑な思いのままでリカルドの部屋にある大きなベッドに腰掛けた。
程なくして、浴室から髪を拭く布を首にかけた上半身裸のリカルドが現れた。その見事な筋肉質の体を見て、スイレンは顔を赤くした。
大きな傷跡もなく、肌は滑らかで美しい。そのまま彫像になっていても不思議ではない程、引き締まった肉体だ。
「スイレン……来ていたのか」
苦笑して隣に腰掛けてくれると、清潔な石鹸の良い匂いがする。
頭を撫でて愛しそうに見つめてくれるから、スイレンは彼の目に溺れそうになる。いつも。




