2-1 涙
翌日の朝。スイレンはいつもの通りの時間に家を出て、仕事場であるガーディナー商会へと向かった。
今日は自分のために借り家を用意してくれた、店主ジョルジオともきちんと話さなければならない。
(きっと、もう見つかってしまったのかって揶揄われる……? いいえ。情報は商人の命だから、もう既にジョルジオ様は昨日の出来事を知っているわね……)
あれだけの、大騒ぎだったのだ。彼のような大きな商会を営む店主は、人脈やそこから得られる情報が商売の肝であろうから。きっともう、昨日起こったことを知っていることだろう。
昨夜リカルドから何度も言われたことを思い出せば、自然と顔が熱くなる。そして、訳もなく思い切り走り出したくなった。
人生で初めて恋をした大好きなリカルドと恋人同士になれて、本当に嬉しい。
ただ、こうして通勤路を歩いているだけなのに、思わず笑顔になって微笑んでしまうのを止めることが出来ない。
もしかしたら、前から歩いてくる人には変に思われるかもしれないけど、そうだとしても構わなかった。
(もう、今日は何が起きたとしても、許せそうな気もする。嬉しくて)
「……おはよう。スイレンちゃん」
ガーディナー商会の扉を開ければ、茶髪のブレンダンが目を擦りながら店の奥から現れた。
ブレンダンらしくないフラフラとした頼りない足取りだし、強いお酒の匂いもする。
着ている服も、昨日のそのままなのか。いつもはきっちりとしている人なのに、珍しく皺が寄ってだらしなくよれっとしていた。
「ブレンダン様。おはようございます。昨日はご迷惑をお掛けしました。今日は、ご実家に泊まられたんですか?」
ブレンダンの実家は確かにこちらのガーディナー商会なのだが、彼は竜騎士としての家も持っている。普段はそちらで生活しているため、こうして早朝に顔を見ることは今までになかった。
スイレンが聞いたその時、ブレンダンの背後から可愛らしい少年が顔を出して現れた。
珍しい濃青の髪をした、非常に顔立ちの整った男の子だ。目は涼やかな水色。
(初めて見る……ブレンダン様の親戚の子かしら?)
いきなり目の前に現れた少年に、不思議に思って首を傾げたスイレンに近寄り、その子はおもむろに手を取った。
「昨日は、心配したスイレン。怪我もなく無事で良かった……安心しろ。ブレンダン。まだ、彼女は処女だ」
彼ほどの年齢の子には珍しい淡々とした口調で、何だか先ほどとんでもないことを言った気がした。
唖然としたままのスイレンに、慌てたブレンダンは慌ててその子の手をスイレンから引き剥がした。
「クライヴ。お前。朝に会うなり、女性に対してなんてことを、言うんだ……ごめん。まだ人型になったのが、これが初めてで。人間の常識が、良く理解出来ていないんだ」
「何を言う。ブレンダン、大事なことだ。もしそうなら、まだお前にだって、チャンスがあるかもしれないじゃな……」
言葉の後半は慌ててクライヴの口を塞いだブレンダンに、止められた。
ブレンダンはしまったと言わんばかりの顔で、スイレンの様子を窺った。
先ほどからの何度かの衝撃を受け、言葉もないスイレンだが、この可愛らしい男の子はリカルドの竜ワーウィックのように、人化の術を使った青い氷竜のクライヴだと言うことは理解した。
クライヴは確かに突拍子もないことを言い出したが、竜と人間の常識は違うのかもしれない。それは仕方ないことだと、スイレンは察した。
「えっと、クライヴ? わあ。すごい。ブレンダン様の氷竜、クライヴなんですね」
人型になったクライヴを首を傾げて嬉しそうに見たスイレンに、彼は肩を竦めて言った。
「それには、少し語弊があるよ。スイレン。僕はこのブレンダンと契約をしているが、この男の所有物ではない。むしろ、可愛い君のものになりたい」
「お前はまた、本当に何を言っているんだ」
呆れたブレンダンは、さらっと甘い台詞を吐いたクライヴの頭を小突いて、スイレンに向かって紺色の頭を下げさせた。
スイレンには、竜がどの程度の年齢にあるのかはわからない。クライヴが人化した姿からすると、ワーウィックとほぼ同じ年齢くらいなのではないだろうか。
どうやらクライヴは、時折あどけなさを見せるワーウィックよりも、女の子を喜ばせる言葉を使うことが出来るらしい。
「えっと……正直に言えば、びっくりしましたけど、大丈夫です。クライヴも、守護竜のイクエイアス様に、お願いしたんですか?」
スイレンの言葉に、ブレンダンは一度溜め息をついて頷いた。
「そう。ワーウィックが、人間の姿になって君と一緒に居るのを見て、自分も絶対に人化の術を使えるようになりたいと、何回も訴えたんだ。それで、根負けしたイクエイアスが渋々許可したんだ。本当はあまり、まだ若いこいつらが人間の社会を乱すことになるから、したくないらしいんだけどね。ワーウィックの我が儘の前例を、作っちゃったからさ」
そろそろ出勤して来る従業員が出始めた店先で立ち話するのも何なのでと、スイレンはいつも自分が仕事をするのに使わせてもらっている花の種を保管している小部屋へと、二人と共に廊下を歩いた。
この家の息子であるブレンダンはともかく、クライヴは我知ったる涼しい顔ですれ違った従業員に挨拶をして驚かれていた。
「……リカルドは。イジェマと、婚約解消が出来たんだってね」
「え? ええと、はい。私もそう、お聞きました」
顔を綻ばせ仕事の準備をしながら頷いたスイレンに、どこか複雑そうな顔をしたブレンダンは溜め息をついた。
「なるほどね。あいつは、最初から君に本気だったって、そういう訳だ……どんなに急いでも、貴族の婚約解消って結構時間がかかるから。こちらに帰って来てすぐに、手続き始めて、向こうの家にも、それなりの対価を払ってってとこかな」
「……対価、ですか?」
何も知らないスイレンは、驚いた顔でブレンダンを見た。まさか、自分と一緒になるために、リカルドがパーマー家に代償を払ったとは、全く思いつきもしなかったからだ。
「そう。いつか必ず結婚するという契約を、白紙に戻してもらうってことだから。イジェマ本人には、いま城中で噂になっている美形の近衛騎士の恋人が居るから。リカルドを何とも思っていないにしても……若い火遊びだって、貴族の間では良くあることだからね。大事なのは、結婚する相手の家の名前だから。イジェマの父親あたりは、それなりのお金を請求してもおかしくないかなって。それは、僕が勝手に思っているだけ。リカルドが上手く交渉して、何も支払っていないかもしれないし」
途端に浮かない表情になったスイレンが、眉を寄せて泣きそうな顔になったのに気がついたブレンダンは慌てて手を振った。
「それだけ……リカルドは、スイレンちゃんに対して本気だということだよ。もしかしたら、貴族という身分も、君のために捨てるほど……君のことを、心底愛しているのは……間違いないよ」
どこか寂しそうにそう言ったブレンダンは、黙ったまま自分の隣にいるクライヴの頭を撫でた。
◇◆◇
仕事終わりに訳を話したジョルジオは、笑いながらきっとそうなると思っていたと言って頷いた。
彼との相談の結果。今日、帰りに寄って持って行った荷物を整理した後に、家の鍵はまた後日返すことになった。
スイレンは仕事終わりに、静かに隠れ住もうと思っていたあの可愛い家へと歩いて向かう。
その道中に、人が集まりざわざわとした騒ぎがあった。多くの野次馬が取り巻いて、痴話喧嘩なのだろうか、言い争う男女二人の声が聞こえて来た。
「……なんで、急にそんなことを言い出すのっ!」
「お前とは、もう終わったと言っただろう。二度と近寄らないでくれ」
スイレンは、大通りに高く響いた女性の声に、聞き覚えがあった。
(え……これって、イジェマ様の声?)
喧嘩している男女の女性の方は、もしかするとリカルドの元婚約者であるイジェマではないだろうか。彼女にはまだ一度しか会っていないが、特徴的な声だったので覚えがあった。
人垣から何とか顔を出して彼女の顔を確認すると、やはり、見覚えのある金髪の美しい令嬢がこれまでに見たことのない程に、美しく整った容姿を持つ青年に縋っていた。
イジェマの纏う高価な生地で出来ているであろう豪奢なドレスの裾は、土に汚れてしまっている。
美しい顔には涙の跡があり儚げな容姿も手伝って、同性だというのに思わず庇護欲を誘われた。
だが、その細くて白い手を、美しい青年は無表情のままで振り払った。馬車に繋いであった馬を一頭外すように御者に指示をして、泣いているイジェマを残しその馬に乗って無情にも行ってしまった。
一際大きな声で泣き出したイジェマのことを見ていられなくて、スイレンは人をかき分けて前に出た。
いきなり舞台へと現れたスイレンに、野次馬たちからなんだなんだと揶揄うような声がした。それを無視をして、ドレス姿でしゃがみこんでしまっていたイジェマを助け彼女を無理矢理に立たせ、傍近くにあった止められた馬車の中へと導いた。
御者はあまりの事態にどうして良いか、おろおろとして混乱している様子だ。
「あのっ……馬って、一頭足りなくても走れます? とりあえず、ここから離れます。出してください」
スイレンの言葉に目を覚ましたかのように動き出した御者は、すぐに出発の支度を整えた。
泣いたままのイジェマと共に乗り込んだスイレンの指示に従って、馬車は動き出した。
両手で顔を覆い、何度も嗚咽を漏らしながら泣いてしまっていた。
スイレンは彼女の細い背中を摩り、どうにか感情の昂った彼女が落ち着くまで辛抱強く待った。
「すみません。勝手に。余計なことかとは、思ったんですけど……あの場所に、貴女を置いて行けなくて」
スイレンはイジェマがひとしきり泣いて、泣き止むのを待った。
優しく声を掛けてくれたスイレンに、泣き伏せていたイジェマは顔を上げた。涙でいっぱいの大きな宝石のような青い目が、背中を撫でるスイレンを見返している。
どこをどう切り取っても、どんな表情をしていても、彼女は美しいんだなとスイレンは妙なところで感心してしまった。
「……あなた、リカルドの……」
やっと落ち着いて来たイジェマも、偶然現れたスイレンが誰であるかに気が付いて呆然としていた。
「えっと……その、本当に、偶然で……用があったので、あの場所を通りかかったんです。そうしたら、その、イジェマ様に似た声が聞こえて来たので……」
慌ててしどろもどろになりつつ状況を説明するスイレンに、イジェマはまた嗚咽しながら涙を流した。
美しく華奢な彼女が涙を零すと本当に可哀想に思えて、涙の原因を取り除きどうにかしてあげたいと思ってしまった。
「あの、先程の男性は……?」
恐る恐る去ってしまった彼が誰かを聞いたスイレンに、イジェマは取り出したハンカチを握りしめて、自嘲するようにして泣き笑いをした。
「私の恋人。ううん、もう、元恋人なのね……彼の名はジャック・ロイドよ。城で働く近衛騎士なの……リカルドと婚約解消したと報告したら。いきなり……激しく怒り出して。そのまま、別れを告げられて捨てられたの……喜んでくれると思ったのに」
スイレンは、自分の眉が寄るのを感じた。
(そんなの、あんまりだわ……)
彼女の様子からしても、イジェマはジャックと呼ばれていたあの美しい青年のことを本気で好きだったのだ。
だから、英雄と呼ばれ誉ある竜騎士リカルドとの婚約を解消したとしてでも、彼と添いたかったのではないのだろうか。
あまりの非道さに言葉を無くしてしまったスイレンを見て、イジェマはまたぽろぽろと涙を流しながら呟いた。
「……このままでは、家にも帰れないわ。貴女。リカルドの家に、住んでいるんでしょう? ……お願いだから、私を彼に会わせて欲しいの。リカルドに、伝えなければいけない事があるわ」
スイレンは、彼女の言葉を聞いて胸にズキリと激しい痛みが走ったのを感じた。
妖精のような容姿を持つこの人が、もしかしたら。もう一度婚約したいと、リカルドに興味を持つのではないかと疑った自分が、どうしても消せなかったから。




