1-10 温められる
家に仕事を持って帰っていると言っていたリカルドも、もう既に寝てしまっているだろう早朝。
この時を待っていたスイレンは、音を立てないように慎重にそっと扉を開けた。
腕にはこの国に来る時に、竜の高速飛行に耐えられるようにとブレンダンに借りたままの魔法具を嵌めていた。
大きな満月が浮かび、じっくりと見るヴェリエフェンディの空はなんだか広い気がする。そうして、スイレンは生まれ育ったガヴェアとの違いに気がついた。
(王都の高い建物に囲まれていた場所に住んでいた時、私は本当に狭い世界に居たんだわ。あの人と出会って、恋をして私の運命は本当の意味で回り始めた気がする。不幸だと思っていたものすべてを、帳消しにしてしまえるような。そんな……)
澄んだ冷たい早朝の空気の中で、ゆっくりと深呼吸をしてから心の中で願った。
(ワーウィック、お願い来て)
どこかで、高い鳴き声がした気がした。
それまで、いつでも呼んでくれて良いと言っていた竜が、本当に自分の元に来てくれるのかと半信半疑だった。
(早朝だから、ワーウィックも寝ていたかも……悪いことをしちゃった)
けれど、スイレンは呼吸が思うように出来なくなって不自由な思いをしているクラリスを、どうしても早くに助けてあげたかった。
巨大な竜舎の方向から、夜空の黒より深い影が近付いて来た。
じっと見つめていたスイレンの近くにまで来ると、ワーウィックは急停止して大きな身体を地面へと下ろした。
スイレンを見て、キュイっと可愛らしい声で鳴いた。
「ワーウィック。あのね。お願いがあるの。クラリス様を助けるために、薬となる薬草の生えている高山まで、連れて行って貰える?」
両手を組んでお願いをすると、ワーウィックはもちろんっと言いたげに胸を張った。
了承を表すようにスイレンが自分の体に登りやすいようにと、体を傾けて倒してくれる。
今は安定して騎乗出来る鞍はないが、鞍をつける前段階の簡易的なものなのだろうか。革で造られたロープが幾つかの金具で、身体に留められている。
(これにしがみつけば、何とかなるかな……)
上空を飛行するには心許ないとは言え、もう何か悩むような時間もない。
「行こう。ワーウィック。あなたと一緒なら、きっと夜明けまでにはここに帰って来れるわ」
ワーウィックは、ふわっと飛翔した。
必死にロープにしがみついているスイレンを落とさないようにと、気遣いながら浮上した。
上空に向かうに連れて、どんどんと空気が変わる。
(今まで、誰かと一緒に騎乗していたから気にしていなかった。こうして、竜に乗って飛んでいると、空気抵抗が……)
スイレンはこれまで竜に騎乗する際には必ず誰かに支えられて乗っていたし、不安になることなど少しもなかった。
今は安定している鞍もないし、落とされたくなければワーウィックにしがみ付くしかないのだ。
これでも、ワーウィックは自身が使うことの出来る最上級の保護魔法を与えているのだが、それはただ騎乗しているスイレンには知るよしもない。
(こんな勝手をして、リカルド様は怒るかもしれない。でも、大事なクラリス様の病気が治ってしまうなら、きっと喜んでくれるはず)
そうしたら、花が咲くような笑顔で自分を褒めてくれるかもしれないと思うと、胸が高鳴った。
スイレンはリカルドが喜んでくれるならなんでも、してあげたかった。何も持たない役にも立たない自分を、こうしてこの国にまで連れて来てくれて、家族になろうと言ってくれた彼に。
何かしてあげられるなら……何でも、そう何でもしてあげたかった。自分の事を、いくら犠牲にしても。
◇◆◇
高速移動と言わないまでも、かなり早い速度で飛行していたワーウィックが、急に速度を落とした。
その事に気が付いたスイレンが顔を上げれば眼下に広がるのは、標高の高い山がいくつも連なっている白い山脈だ。
ワーウィックは先ほど願った通りに、スイレンをここまで連れてきてくれたらしい。
「凄い……本当にすぐだったわ。ありがとう。ワーウィック」
感心して感謝したスイレンの声に、ワーウィックはキュルっと鳴いてスイレンを振り返った。「これから、どうする?」と言いたげな彼に、スイレンは頷いて下へと指差した。
「そうね……ワーウィック。降りるのは、あの山にしましょう。あそこなら、岩場も多そうだし……必要なあの花が、咲いている可能性も高そうだわ」
大きく頷いたワーウィックは、スイレンの示した方向通りにゆっくりと下降を始めた。
危なげなく降り立った山頂辺りの岩場にほど近い草原で、ワーウィックから降りたスイレンは低い気温にふるっと身体を震わせた。
今まで寒さを気にしないで良いほどに温かく感じていたのは、火竜である彼の体に触れていたおかげもあったようだ。
あの花の話を聞いたのは、かなり前の事だった。
(魔植物を嫌う花は、高地にある岩場に咲き鮮やかな黄色い花をしていると言っていたわよね)
スイレンは、目を凝らして山頂へと続く岩場を見つめた。白い岩場が広がる中に、小さくて見逃しそうだった鮮やかな黄色が目に入った。
(きっと。あれだわ!)
思っていたよりも早くに目的が達せられそうだと気が急いていたスイレンは岩場を何とか登り切り、手を伸ばして花を採ろうと茎を持った。
その時。目の前の岩場にある暗い裂け目に気がついた。
驚き身体のバランスを崩したスイレンは、そのまま裂け目へと吸い込まれるように倒れ込んでしまった。恐怖の悲鳴を上げる前に、意識も闇に飲まれる。
完全に意識を失ってしまう前に、岩場の下でスイレンを待っているはずのワーウィックが「キュー、キュー!」と、悲しそうな声で鳴いたのを聞いた。
◇◆◇
「……イレン、スイレン」
まるで燃えているような赤髪が、うっすらと視界に入る。それに、ひどく温かい。まるで贅沢にお湯を使った、お風呂に入っているかのよう。
(あったかくて気持ちよくて……出来るなら、ずっとこのままでいたい)
ぼんやりとした意識の中で、自分を呼ぶ声の主が誰か気が付いたスイレンは舌っ足らずに呟いた。
「ん……りかるど、さま? どうして……?」
意識を取り戻したばかりでなかなか回らない頭で、スイレンは必死に考えた。なぜ、彼の声がこんなに近くに聞こえているのか、理解出来なかったからだ。
「どうして、じゃない。君が無茶をしたと聞いて、肝が冷えた。ワーウィックを勝手に使うなとは言わないが、こうした時には、必ず俺も同行する。二度目は、ないぞ」
夢じゃないと気が付いたスイレンは、慌ててパッと顔を上げた言葉も出ないほどに驚いた。
彼は逞しい上半身を、露にしていたからだ。そして、その胸に抱かれている自分も……動きやすいと思って着て来たシャツを脱がされて、薄い下着を纏っているだけだ。そして、彼ごと一緒に温かな大きなマントに包まれていた。
「キャっ……」
あまりの状況に悲鳴をあげかけ離れようとしたスイレンは、逆にぎゅっと抱きしめられた。頬に当たる厚い胸板は鍛えられた筋肉で盛り上がり、固そうに見えるが見た目より柔らかい。
こんなにも温かいのは、当たり前の事だった。リカルドが、その身を以て体温を分け与えていてくれていたのだ。
「まだ、ダメだ。君は雪山の中でも一層寒いこの場所で、低体温症になりかけていたんだ。凍死する、寸前だったんだぞ。ワーウィックの泣き声が、頭の中で聞こえた時には焦った。あいつは全速力でヴェリエフェンディまで帰って、俺を連れてここまで往復して帰って来たんだ。後で良いから、褒めてやってくれ」
彼の言葉を聞き自分が意識を失う直前までの出来事を思い出して、スイレンは顔を青くした。
「あのっ……ごめんなさい。どうしても、クラリス様に薬となる花を持って帰ってあげたくて、私……ごめんなさい」
泣きそうな声で、スイレンは何度も謝った。
(喜ばせるつもりだったのに。逆に、彼に迷惑をかけてしまった)
どうしようどうしようと、頭の中はから回る。けど、全く解決策は見いだせない。
それよりも、今のこの状況が恥ずかし過ぎた。彼の肌は熱いくらいで、それがまた気持ち良くて、きっとスイレンの顔は、茹で蛸より赤いに違いない。
これは非常事態で人命救護なのだし、彼は竜に選ばれてしまうくらいに高潔な人だ。
(きっと……リカルド様は、私の体など見ても何も思わないに違いないのに。自分だけこんなに意識してしまって……恥ずかしい)
「ああ。そうだな。君が言っていた事を、俺が真面目に聞いてあげていたら良かった。もうこんなことは……一人で突っ走ってしまうことは、絶対にしないって約束してくれ。倒れている君を見た時……心臓が、止まるかと思った」
リカルドに強い力でぎゅっと抱きしめられて、大好きな彼に心配されていると思うと、どうしても申し訳なさより嬉しさが勝ってしまった。
「ごめんなさい……リカルド様」
心配を掛けたというのに、喜んでいる自分が恥ずかしくて顔を伏せたスイレンに、リカルドは大きな手で頭を撫でてくれた。
「もう、良い。君が取ってくれた花は、ちゃんと保管しているから安心すると良い」
その言葉を聞いて、スイレンはほっとしてリカルドの胸に体を預けた。
大きなマントの中でどうにかしてシャツを着ると、その上から急遽掴んで持ってきたというリカルドの冬用の服を着せてもらい、スイレンは岩場の割れ目から抜け出ることが出来た。
岩場の下には、心配そうな様子でワーウィックが待っている。スイレンの姿を見て安心したのか、大きな鳴き声をあげた。
リカルドの手を借りて慎重に岩場を降りたスイレンは、大人しく待っていたワーウィックに駆け寄った。
「ワーウィック。ごめんね。リカルド様を連れてきてくれてありがとう」
キュウキュウと甘えるように鳴きながら頭を下げたワーウィックの頬を、ゆっくり撫でる。その背には、もう鞍がついている。
きっと、またあの竜舎にいる騎士見習いの男の子たちが、頑張って取り付けしてくれたんだと思うとこんな早朝に申し訳ないと思うと同時に、微笑ましい。
「……今度からは、デートする時は絶対に君から離れないと言っているぞ。ワーウィック。これは、デートじゃないだろう。スイレンは、ただ単に高地にある薬になる花を取りに来たかっただけだ」
少し不機嫌な様子でそう言い放つと、リカルドは慣れた動作でワーウィックに飛び乗った。
「スイレン。手を」
「はい」
手を差し出したスイレンを、片腕だけで体重を感じさせない動きで引き上げると、ワーウィックは一気に急上昇して風に乗った。やはり、こうしてリカルドが傍に居ると、安心感が全然違った。
帰り道に、せめてものお詫びにとワーウィックに花を出してあげると、もっともっととねだられた。
ヴェリエフェンディに辿り着くまでにすっかり満腹になってしまった火竜に、リカルドはあまり食べると太るぞと呆れた顔をしていた。