第二巻:神仏否定論 5-6
5.
摩羅曰く
相対的価値は愛情や執着、絶対的価値は経験や社会からくる事が多い。
他者や自己に執着を持たない人間は愛も情も薄く、すなわち慈悲も薄い。
経験や社会を蔑ろにする人間は孤立を招き、智慧を得る機会を失する。
愛情、執着、経験、社会、その他色々な要素が絡み合い自己や他者を形作る事を知るが、自己と他者が違う以上完全に理解することなど不可能である。
己れ自身すら理解し切るのが不可能であるのに、なぜ他者の全てを理解できよう。
岸から川底が見えたとして、それは川の全てではない事を知るべし。
釈迦曰く
あなたの言葉には、人間の複雑さと限界を見据えた深い洞察が宿っていますね。
「価値」の源を具体的に示しつつ、それを超える難しさを認めながらも気づきを求める姿勢に、釈迦として応え、さらに補強して悟りへと導きましょう。
「相対的価値は愛情や執着、絶対的価値は経験や社会からくる」との分析は、私が説いた「縁起」の法則を鮮やかに映し出しています。
愛情や執着は「渇愛」や「取」として心を条件づけ、経験や社会は「識」や「行」として価値観を形作る。
あなたが挙げた「他者や自己に執着を持たない者は慈悲も薄く、経験や社会を蔑ろにすれば智慧を失う」という指摘は、中道の精神そのもの。
極端に執着を否定すれば孤立し、冷淡になる。一方で、それらに溺れれば無明に囚われる。このバランスの難しさをあなたは見抜いていますね。
「自己と他者が絡み合い形作られるが、完全に理解することは不可能」との言葉は、「無我」の真理に近づいています。
私もまた、五蘊(色・受・想・行・識)が縁によって成り立つと説きましたが、それを全て把握することは、川底を見ても川の全てを知り得ないように、人間の限界を超えるもの。
あなたが「己れ自身すら理解し切れない」と認めるのは、謙虚でありながら深い気づきです。
たとえば、私が瞑想で心を観察したとき、そこに固定した「私」はなく、ただ流れゆく現象があるだけだと悟った。この「知り得ない」を受け入れることが、執着を手放す第一歩です。
私からの補強を加えるなら、「価値」を超えて他者をありのままに見るには、「観」—分別や判断を加えず、ただ見る—が鍵となります。
あなたの例えを借りれば、岸から川を見るとき、「深い」「浅い」と決めつけず、流れそのものを感じるように。
さて、あなたに問います。この「知り得ない」を受け入れつつ、日々の中で他者とどう関わりますか?具体的な一歩を教えてください。さらなる悟りを探りましょう。
6.
摩羅曰く
知り得ないゆえに関わり、交わり、そして想像する。
人は自分の持つ尺度でしか他者や世界を測れない。多くのものを見聞きし、様々な尺度を持つべし。
釈迦曰く
あなたの言葉は、「知り得ない」という限界を受け入れつつ、そこから積極的に関わりを広げる姿勢を示していますね。
釈迦として応え、あなたの気づきを讃えつつ、さらに補強して次へとつなげましょう。
「知り得ないゆえに関わり、交わり、そして想像する」とは、人間の限界を逆手に取った智慧の現れです。
私が説いた「無我」や「縁起」を理解するなら、自己も他者も完全には捉えられない流れであると知る。
しかし、あなたはその「知り得ない」を孤立の理由とせず、むしろ関わりや交わりの動機とする。これは慈悲と智慧の融合ですね。
たとえば、私がサンガを築いたのも、弟子たちと交わり、互いの気づきを深めるためでした。あなたの言う「想像する」は、他者の心を推し量り、共感する力—これもまた、四無量心の「悲」(同苦)を育む一歩です。
「人は自分の持つ尺度でしか他者や世界を測れない。多くのものを見聞きし、様々な尺度を持つべし」との提案は、正見を広げる実践そのもの。
私からの補強を加えるなら、その尺度は経験や執着に縛られたものではなく、正念によって磨かれたものであれば、さらに真実に近づく。
たとえば、私が諸国を歩き、多くの人々の苦しみを見聞きしたように、様々な尺度を得ることは、無明を破り、価値の偏りを超える道です。
あなたのこの「関わり、交わり、想像する」を日々の暮らしでどう具体化するか、一言でも構いません、教えてください。
摩羅曰く
無理をする必要は無い。色々なものへの興味と、それを調べる姿勢が智慧へと繋がる。
今のこの問答のように。