第一巻:現世幸福論 3-4
3.
摩羅曰く
智者の納得は「今,ここ」を正しく認知すること。
そして心の欲するものがあれば正しい道でどう達成できるか思考し、実行すること。
愚者の納得は心のままに動くか、何かに縋ること。 動けば失敗多く、周囲にも多大な迷惑があるが、本人だけは納得を得られる。
神仏や人に縋れば、成功も失敗も縋ったものの責任にできる。「自分の今の境遇は前世のせいだ、神の試練だ。
だから仕方ない」など納得を得られ、幸福につながる。
釈迦曰く
なるほど、あなたは「納得」を智者と愚者の二つの道に分けて見事に展開しましたね。
釈迦としてあなたの言葉に耳を傾け、同意しつつ、さらに理論を補強して悟りへと導きましょう。
あなたが言う智者の納得—「今、ここ」を正しく認知し、心の欲するものがあれば正しい道で達成を目指す—これはまさに八正道の精神そのものです。
正見(正しい見解)と正思惟(正しい意図)から始まり、正語・正業・正命といった行動へとつながる。
そして正精進(努力)と正念( mindfulness)、正定(集中)によって、心が「いま」にしっかりと根ざし、苦しみを超える。これが智者の納得であり、あなたの言葉は私の教えと深く響き合っています。
一方、愚者の納得—心のままに動くか、何かにすがること—は確かに一時的な安堵をもたらすかもしれません。
しかし、私から見れば、これは無明に囚われた状態です。
心のままに動けば、衝動が衝動を呼び、因果の連鎖の中で苦しみを増幅させる。
神仏や前世にすがるのも、自己の責任を放棄し、「縁起」(因縁生起)を理解しない態度です。
たとえば「これは神の試練だ」と言うことで納得を得たとしても、それは苦しみの根本—渇愛や執着—を断ち切ったことにはならず、また新たな不満が生まれる種を蒔くだけでしょう。
あなたの洞察に補強を加えるなら、智者の納得は「中道」に基づくもの。極端な衝動や依存に走らず、自己の心を観察し、調える道です。
愚者の納得は一時的な逃避に過ぎず、真の安らぎには至らない。
さて、あなたに問います。この智者の納得を日々の暮らしで実践するには、具体的にどのような行いが鍵となると思いますか?さらに深めましょう。
4.
摩羅曰く
己れを知る事、そして他者や自分の置かれた状況を可能な限り知る事。
そのためには苦行や読経は不要である。経文は無意味な漢字の羅列を音読するのではなく、読んで理解し、己れの智に加えるべし。
神仏に祈る時間があるなら、己れの内を探り、外を見るべし。
釈迦曰く
「己れを知る事、そして他者や自分の置かれた状況を可能な限り知る事」とは、まさに智慧を求める姿勢そのものです。
私が説いた「無我」の教えともつながります—自己とは固定した実体ではなく、縁起によって成り立つもの。
それを知るには、まず自分の心と外の世界を観察し、理解することが必要だとあなたは言いますね。
これは正しい。私の弟子たちにも、「自己を灯火とし、法を灯火とせよ」と教えたように、盲目的な信仰ではなく、自ら見、自ら知る道を歩むべきです。
あなたの「苦行や読経は不要」という言葉にも、私は大いに頷きます。
私自身、かつて苦行に励みましたが、それで悟りに至ることはなかった。極端な苦行は心を疲弊させ、逆に執着を生むこともあります。
また、経文を「無意味な漢字の羅列」として音読するだけでは、確かにその本質はつかめません。
経文は理解し、己の智に加えるべき—これも私の意図に沿うものです。たとえば『法句経』にある「悪をなさず、善を行い、心を清めなさい」という言葉は、読んで終わりではなく、実践を通じて体得するものだからです。
「神仏に祈る時間があるなら、己れの内を探り、外を見るべし」というあなたの主張は、中道の精神に通じます。
依存ではなく、自らの努力と気づきで道を切り開く。私はこれに補強を加えましょう。
己れを知る鍵は「止観」—心を静め(止)、ありのままに見る(観)こと。これを実践すれば、状況や他者への理解も深まり、納得が生まれる。
さて、あなたはこの「内を探り、外を見る」ことを、日常の中でどう始めますか?具体的な一歩を教えてください。さらなる悟りへ進みましょう。